第八章「怪物の正体」


      1

 空気が冷たい。
 ようやく煙と熱波から開放された凛世は、あえぐような呼吸を繰り返した。
 暗い空洞。視界は闇で閉ざされているが、ひどく狭い空間が上方に向かって伸びているのだけは判る。
 恐れていたとおり、煙も同時に流れ込んでくる。が、朋哉が身体を滑りこませた途端、図ったように暖炉周辺の煉瓦石が崩壊し、入口はあっという間に塞がれた。
 ほっとしながら凛世は朋哉の手を引こうとする。朋哉は首を横に振り、逆に凛世の頭を押さえるようにして、身体を低くさせる。
「このままの姿勢で」
 洞内上部には、白い煙がたちこめている。
 頷いた凛世に、ようやく今立つ場所がぼんやりと見えてきた。
 ――洞窟……。
 内部は、むきだしの岩盤だけがある洞窟だった。
 幅は一メートルたらず。凛世の背丈で、ようやく立てるほどの高さしかない。
 わずかに進むとすぐに段差に行きあたる。見上げた凛世は、それが階段なのだと気がついた。岩を削って作った階段が、先の見えない上空に向かって果てしない長さで伸びている。
 這うようにして段に手をかけた時、手のひらが冷たい液体に触れた。
 階段の窪みに水がたまっているのだ――そう思った時、衣服を裂いた朋哉が、それを水溜りの中にひたした。
「お口を、これで」
 咳き込みながら、凛世は濡れた布で口元を覆った。
 ごつごつした岩が、膝を擦る。
 頭上から水が滴っているせいか、地面は濡れていて、ぬめる苔の感触が手のひらにまとわりつくようだ。
「煙が入ってきている、なるべく、身をかがめて行きましょう」
「……っ」
 ずきり、と右足に、鈍い痛みがのしかかる。
 動かなくなった凛世の異変に気づいたのか、朋哉が眉をひそめ、手で肩を支えてくれた。
「足ですか」
「……少し、痛むだけ」
「もう少し、ご辛抱いただけますか」
「大丈夫よ」
 穴の中に入る時、足を無理な形で捻ったのだろう。右足に体重をかける度に痛みは増すばかりである。
 壁に、ぽっりと空いた横穴を見つけたのはその時だった。
「凛世様、こちらへ」
 膝で這う二人は、かすかな光が差し込む、洞窟の袋小路に辿り着く。
 不意に呼吸が楽になった気がして、凛世は初めて深呼吸を繰り返した。
「わずかですが、外気が通じています。ここで動かずに、助けがくるのを待っていてください」
「朋哉は?」
「私は、香澄様をお助けしなければなりません」
 暗闇の中、濃い血の匂いがした。
 行かないで。
 でも、その言葉を口にすることはできない。
「……戻ってくるのね」
「必ず」
 暗くて、朋哉の顔がよく見えない。冷たい手が凛世の頬に触れ、そして離れた。
「ここを、絶対に動いてはいけませんよ」
 声が消え、朋哉の気配が静かに、まるで獣のように掻き消える。
 ――朋哉……。
 気配を見失った途端に、不安が凛世を強く襲う。
 大丈夫……。
 朋哉なら、きっと、あの男よりよくこの洞窟のことを知っているから。
 きっと、先に出口につく。
 大丈夫。
 苔で濡れた手のひら。凛世はふと気づき、それを、かすかに差し込む夜の光にかざしていた。
「……………」
 最初、泥かと思った泥濘は、ずっと凛世の鼻腔にまとわりついていた匂いだった。
 血だ。
 朋哉の目から……でも、本当にそれだけだろうか。
 目のあたりで凝固した血は、地面にまで落ちるほどではなかったはずだ。
 ――逃走しようとして、拳銃で撃たれて。
 病院で、治療中に消えた。
 姉の言葉が、いまさらのように蘇る。
 今思えば、立っているのがやっとだったのかもしれない。扉を閉めた後、崩れるように膝をついた朋哉。一人残ると言ったのも、もう逃げるだけの体力が残っていなかったからではないだろうか。
「……朋哉」
 凛世は悔恨の声を漏らした。
 どうしてこんな、ささいな足の痛みが気になったのだろう。
 どうして、朋哉を一人で行かせてしまったのだろう。
 凛世は、足をひきずるようにして立ちあがった。
 壁だと思っていた闇の一角に、不意に淡い光が浮き出したのはその時だった。

       2

「凛世……?」
 足音に気づいたのか、光の方角からかすかな声が聞こえる。
 一瞬、息を引いた凛世だが、すぐに声の正体に気がついた。
「お姉様?」
 暗闇の中に、ほの白い陰が滲んでいる。
 光は、その人を中心に、周囲を淡く照らし出していた。
 壁によりかかるようにして立つ姉の手には、小さなライターが揺れている。
「お姉様!」
 駆け寄ると同時に、ふっと光が消えた。
 支えようとして触れた姉の身体は重く、じっとりと汗ばんで熱かった。
「隙をみて逃げたのよ……。この洞窟には、あいつの知らない横道が沢山あるから……。朋哉の脅しが聞いたみたい、拳銃を使われたらおしまいだったけど」
 険しい微笑を浮かべ、その場に崩れ落ちると、香澄は囁くよう声で言った。
「もう……立つのも、限界」
「あの男は」
「行ってしまったわ、それより朋哉は?」
「朋哉は……お姉様を助けるって」
 凛世は、姉の足に手を当てる。苦悶の悲鳴をあげ、香澄は床に両腕をついた。
「私はもう歩けない……凛世は、先に行きなさい」
「でも」
 どうすればいいのだろう。明らかに発熱し、意識さえ途切れそうな香澄一人をここに置いてはいけない。
 お姉様は……どこから来たのだろう。
 凛世は姉が来た方向を振り返る。てっきり、岩壁だとばかり思っていたが、そこにもやはり、大きな穴があいているようだった。
 立ちあがって穴を覗き込んだ凛世は驚いた。空洞の奥には、半開きになった鉄柵がある。いましがた香澄が開けたばかりなのか、軋んだ音をたてて揺れている。
「……なんで、柵が?」
 あたかも、この先に進むことを、頑なに遮断しているようでもある。
「まるで檻のようね。そう、この先は実際檻だったのよ、多分」
「檻……」
「御堂城の地下牢……伯父様が焼き捨てた古い文書に残されていたわ……。多分、この場所が、悠木家が封印しようとした、御堂家の本当の秘密なのよ」
 姉の身体が熱い。
 支えようとした凛世の手に、香澄は、ライターをそっと押し当てる。
「覚悟があるなら……行って、見て御覧なさい」
 覚悟?
「どのみち、あなたが自分の力で立たない限り、朋哉の呪縛は一生解けない……見なさい、あなたの現実を」
「………………」
「そして、おそらくこれが、灰原を狂わせてしまったものよ」
 なに……?
 どういうこと?
 ライターを片手に、凛世はおそるおそる立ち上がる。
 柵を押し開き、数歩前に進んだ途端、広い空間が現れた。そこには、単に自然の岩肌があるだけではなく、いかにも似つかわしくない品々が、がらくたのように投げ込まれている。
 鉄のベッド、木製の机、壊れた椅子。そんなものが、まず目に入ってきた。
 壁面には棚が並び、ガラス瓶のようなものが、ぎっしりと詰め込まれている。
 その隣に。
「…………っ」
 驚愕のあまり、凛世はもっていたライターを落としそうになっていた。
 顔。
 巨大な女の顔が見下ろしている。
 白い肌、長く艶やかな、うねる黒髪。
 黒い瞳、その片方だけが、赤く塗りつぶされている。
 そして、顔には、幾筋もの切り裂いた痕がある。
 鋭利な刃物で、執拗に、何度も何度も切り裂いたような。
 顔を切り裂かれた女が、片目を血に染めたまま、口元に淡い微笑を浮かべ、片方の目で、じっと鑑賞するものを見下ろしている。







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