8

 いきなり目の前に、何かが落ちてきたような感じだった。
 凛世の目の前に立ちふさがる白いシャツが、黒煙と炎にあおられ赤黒く染まっている。
 凛世は呆然と、夢だとしたら悪夢のような、広い背中を見つめていた。
 ――どうして……。
「悠木……っ」
 すでに形相の変わった灰原がわめいている。組みついた朋哉が、灰原の首に背後から腕を回す。無言の攻防、やがて力を失くしたように灰原が崩れ落ちる。その灰原を突き放し、煙と炎の中、駆け寄ってくる男。
 悪夢のような、ひどく甘美な夢のような。
 炎に頬を染め、片目に焦燥と安堵を浮かべて見下ろしている――朋哉。
「お立ちになれますか」
 火を腕で防ぐようにして駆け寄ってきた朋哉は、水でも被ってきたのか、髪もシャツも濡れていた。
 まだ呆然とする凛世を引き起こし、朋哉は落ち着いた眼差しで頷いて見せる。
「階段は火が回っていない、今ならまだ逃げられます」
「朋哉、……お姉様が」
 極度の緊張が全身を震わせる。
 朋哉は頷き、動けない香澄の肩を抱いて立たせた。
「凛世様は、先にお逃げくださいませ」
「でも」
「さぁ、お早く!」
 鋭く叱責され、ためらいながら、凛世は破られた扉に向かって走り出す。
「行かせるものか!」
 その前に、大きな影が立ちふさがった。
 凛世は恐怖で目を見開く。まるで悪鬼のごとく立ちふさがるのは、倒れていたはずの灰原だった。
「朋哉……っ」
 逃げようとしたが、背後から羽交い絞めにされるほうが早かった。
「脱獄でもしたか、化け物め」
 拳銃を持ち直した灰原は、片手で凛世の首を掴み、自分のほうに引き寄せながら朋哉を睨んだ。倒れたはずみで頭でも切ったのか、額から血を滴らせている。
 息苦しさと恐ろしさから、凛世はもう動けない。
「通路の扉を開けろ、悠木、他にもう逃げ道はないぞ」
「開けたところで、どうなります」
 朋哉の声は落ち着いている。
「どのみち、私たちを、あなたが見逃すとは思えませんが」
「ではどうする、ここで四人そろって焼け死ぬか」
 それには答えず、朋哉は無言で微笑した。
 むしろ、優位な立場のはずの灰原が、朋哉の表情に恐怖しているのが、男の腕の中にいる凛世には判った。
 香澄が、窓に首を乗り出すようにして、ぜいぜいと喘いでいる。
 凛世にも、もちろん朋哉にも判っているはずだ。火が回る前に、このままだと一酸化中毒か酸欠で全員が死んでしまう。
「もうひとつ申し上げれば」
 なのに絶望的な惨状の中、朋哉一人が場違いなほど落ち着いて見えた。
「山頂に続く通路は、人一人が通るのがやっとの狭さです。通路の扉を開ければ、すぐに煙が通路内に充満する。山頂にたどり着くまで十五分あまり、誰も生き残ることはできないでしょう」
「そんなたわごとで誤魔化す気か、開けたものなら閉めればいいだけだ」
 灰原の声には、もう余裕の片鱗もない。
「扉は、外からは開きますが、内側からは閉じられないのです」
「嘘をつけ! そんな扉があるものか」
「鍵がいります」
「……鍵、だと」
 呆けたように、灰原が呟く。
「通路を閉ざしている扉には、開けるためにも閉めるためにも鍵がいるのです。鍵がなければ開閉することはできない」
 朋哉は、淡々とした声で続ける。
「その鍵はどこにある」
「外側の鍵は私が、内側の鍵は、亡くなった母が眠る土の中に」
 凛世は思わず朋哉を見ていた。
 何ひとつ感情の読めないひとつきりの瞳。
 炎にあおられ、つぶれた目が時折はっきりと姿を表す。
「……嘘をつけ」
「嘘ではございません。私が、母の墓標に埋めたのです」
「…………」
「もう二度と、あなたのような侵入者が入り込まないように」
「…………」
 灰原の目が据わっている。
 凛世はふと恐ろしくなる。
 この男は、通路の中に、一体何を置いてきたのだろう。姉の語った推測が真実なら、何がこの男を、狂気に駆り立てているのだろう。
「とにかく扉を開けろ、閉まらなければ上からお前が押さえていろ! でないと、この女を殺すぞ!」
「お好きなように」
 冷然と朋哉は微笑む。
「そのような脅しなら私には無用です。私がお守りすべき相手は香澄様ただ一人。その方は、所詮、御堂ご本家の跡を継ぐ方ではない」
 氷よりも冷たいと言葉。
 それでも凛世は、その刹那、胸が痛くなるほどの愛しさを感じていた。
「……では全員ここで死ぬか、もう二階は火の海だ、誰一人助からないぞ」
 灰原がうめき、死の沈黙が四人に落ちる。
 それでも、朋哉は動かない。
 焦燥した灰原が、背後を振り返る。唯一の逃げ道だった階段は火に嘗め尽くされ、いたるところで柱が崩壊する音が響いている。凛世にも判った。もう、逃げることは不可能だ。
「扉を開けないとは言っていません」
 朋哉は静かな眼差しで灰原を見つめた。
「香澄様と凛世様をお連れすることは許さない。お一人で降りて下さい、私が外から扉を閉めましょう」
「なんのために、死ぬと判っているのにか」
 灰原が鼻で笑う。
「何を企んでいる、悠木。お前の言葉は信じられない、そもそも俺が降りた後、お前が扉を閉める保障がどこにある」
「では、私も扉を開けることはできません」
 熱い……。
 凛世は眩暈を感じ、かすむ視界で朋哉を見上げる。
 朋哉の冷静な横顔にも、わずかな焦りが浮かんでいる。
「…………では、こうしよう。姉の方を……人質として連れて行く」
 軋るような声で、灰原がうめいた。
「言ってみれば、お前の女房が人質だ。女を死なせたくなければ、お前が外から鍵を開けて、閉めるんだ、悠木」
「………………」
 今度は朋哉が黙っている。
「主を守るために死ねるなら本望だろう。それが、俺が妥協できるぎりぎりで、それ以上は何ひとつ聞けない」
 沈黙を裂くように、頭上の電燈が焼け落ちてきた。
「香澄様の、身の安全は」
 それを、避けながら朋哉。
「大切な人質だ、保障する、俺は、中に入れさえすればいい」
「…………」
「四人で死ぬか、御堂家の当主一人を助けるかだ。どうする悠木、お前が決めろ!」
 炎が四人を炙り出している。
 迷う間さえない極限の選択。
「では、凛世様をこちらに」
 朋哉が手を差し出した時。
 凛世は、不思議なほど、場違いな幸福を感じていた。
 炎も死も、もう何も怖くない。
 ここで、朋哉と一緒にいられるのなら。
 姉を助けるかわりに、朋哉は死の道連れに、自分を選んでくれたのだ――。
「扉を開けろ、それと引き換えだ」
「…………」
 朋哉は無言で、香澄を壁際に横たえさせると、格子で覆われた暖炉の傍に立つ。
 凛世を突き飛ばした灰原は、用心深く拳銃を構えながら、ぐったりとなった香澄を代わりに抱き上げた。
「その作業は、難しいものか」
「……いえ」
「目を閉じてでもできるものか」
 朋哉が、訝しく顔をあげた時だった。
 しゃがみこんだ灰原が、壊れたガラスの断片を拾い上げる。その片頬に、残忍な笑みが浮かんだ。
 窓際でかろうじて息をする凛世の視界に、灰原が片手を振り上げるのが見えた。
「と―――、」
 とめる間もない一瞬。
 朋哉が手で目を覆って、半身をよろめかせる。その指の間から鮮血が滴った。
「朋哉!!」
「両目が見えなくなれば、余計な真似もできまい、悠木」
 朋哉――。
 固まった凛世の前で、朋哉が崩れた体勢をたてなおす。
「それこそ、余計な杞憂でしたのに」
 唯一残された目から血を流し、それでも朋哉は静かに笑った。
 首から、静かに鎖を引き出した朋哉は、小さな銀の欠片を手にする。傍で見ている凛世には判った。私が持っているものと同じ形をした――約束の楔。
 朋哉が暖炉脇に歩み寄る。ただし、その傍らの壁にぎっしりと並べられている西洋人形のほうに。馴れた手が、一体の人形を探って選び出す。一際大きな人形は、顔立ちがどこか朋哉に似ていた。
 他の人形が倒れたり揺れたりしているのに、朋哉が選んだ人形だけは微動だにしていない。
「凛世様」
 朋哉の横顔が囁いた。
「楔を人形の唇に差し込んでくださいませ。私には、見ることがかないませんので」
 凛世は頷き、急いで朋哉の手から鎖を受け取ると、宝石のような小さな唇に楔を当て込む。ほどなく地響きのような軋みが聞こえ、ぶつかりあうような鈍い音がして、暖炉の底に、ぽっかりと、人一人が通れるほどの穴が開いた。
「あらかじめ申し上げますが、洞窟内での発砲は控えてください。命の保障はいたしかねます」
 灰原が、すばやく先に入り、半身だけ出して、香澄の身体を引張り入れる。
「楔を抜いて」
 朋哉の指示どおりに、凛世が鎖を引き抜くと、石の扉が静かに閉じられていく。
「朋哉……」
 崩れるようにすがる凛世を、朋哉はおぼつかない手で抱き止めた。
 朋哉の嘘の理由がわからないまま、凛世は、朋哉の身体を抱きしめる。服はもう渇いていて、かすかに血と雨の匂いがした。
 扉は外からでも閉められた。
 朋哉はどうして、このどうにもならない状況で、灰原を欺こうとしたのだろう。
「扉の仕掛けは、外壁の大時計と連動している。完全に閉まり、もう一度開くまで、少なくとも一分はかかります」
 凛世は自分の服の袖で、朋哉の片目から流れる鮮血を拭う。
「もう一度、扉を開けます」
 凛世の手をゆっくりと払い、朋哉が言った。
「通路には、いくつも横穴があるのです。本当はあなたと香澄様を、後から逃がすつもりだった」
「…………」
 嫌な予感がする。
 凛世は、朋哉のシャツを握り締めた。
 その手に、朋哉の手が重なる。
「鍵はあなたも同じものを持っている。それが、出口で必ず必要になります。わかりますね、私は、扉を閉めるために、ここに残らなければならない」
「朋哉、いや」
 朋哉の手が、凛世の胸元に触れ、衣服の下のペンダントに触れた。
 凛世は、その手を自身の手で握り締める。
 もう言葉はいらない。
 もう、何も。
 私たちは、ずっと。
 同じものを身につけていた――。
「お逃げください、扉はどうしても外からでしか閉められない。この部屋に煙が充満すれば、すぐに通路へと抜けていく」
「いや」
「十メートルほどいけば、右側に小さな横道がある、周りなど見ず、一直線にその道を行きなさい。おそらく先を行く二人より早く、山頂の出口にたどり着くでしょう」
「いや、朋哉を置いていけない」
「扉を閉めたら、私も必ず脱出します」
「いや!」
「香澄様がどうなってもいいのですか!」
「いや!!」
「……………」
「………朋哉と、一緒に……」
「……………」
 壁に背を預けるように崩れた朋哉と、そのまま抱きしめあっていた。
 流れる血が凛世の頬をぬらし、唇に落ちてくる。
 血と、炎の匂いがする長い口づけ。
 ――怖くない……
 もう何もいらない。
 こんなに、こんなに、幸せだから。
 朋哉の手が、見えない視野のかわりのように、何度も凛世の頬を撫でる。
 サイレンの音が聞こえてくる。
 窓の外が明るい。
 致命的な何かが、音をたてて折れる音がした。二人を支える床が傾斜する。
「……行きましょう」
 朋哉は、よろめくように立ち上がった。
「どこへ」
「もう一度、扉を開けます」
「朋哉」
「じきにこの屋敷は倒壊する。入り口はその時、おそらく自然に塞がれる」
「…………」
「その可能性に、賭けてみようと思います」
「…………本当ね」
「本当です」
「本当ね?」
 朋哉は静かに頷いた。
「……何があっても、私は、あなたを死なせるわけにはいかないのです」







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