6

 灰原によって締められた扉が、煙と音を遮断する。
 けれど、あらゆる家具が布に覆われた乾燥気味の室内に、すぐに火の手は回るだろう。
 窓際に後ずさった凛世は、ガラス越しに階下を見下ろす。一階がすでに炎に覆われ、夜に明るく輝いていた。
「ご存じでしょうが、悠木朋哉が逃亡した」
 扉の前に立つ灰原の静かな声。どこか遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。
「危険なやり方ではありましたが、ここに手が回るのは時間の問題でしたからね」
 窓を突き破って舞い上がった炎が、たちまち二階のカーテンに引火して、這い上がってくる。死の恐怖を間近に感じ、凛世は初めて戦慄した。
 焔に包まれつつある悠木邸。逃げられない代わりに、確かに誰も入っては来られないだろう。
「さぁ、通路を開けるんです、凛世さん。あなたもまだ、その若さで死にたくはないでしょう」
 凛世はまだ、悪い夢でも見ているような気持ちで、扉の前に立ちはだかる灰原を見つめた。
「……そう、そういうことだったの」
 閉ざされた密室。
 拳銃を構えた刑事と、無防備のまま追い詰められた二人の女。
 気丈にも凛世を背で庇いながら、香澄が強い眼差しで灰原を見上げた。
「伯父様に余計なことをふきこんだのは、あなただったのね」
 ――伯父様……。
 凛世は震えながら、血が吹き零れる伯父の背を思い出していた。
 青白い頬に死微笑を浮かべた伯父は、凛世が幾度呼びかけても、もう何の反応も示さなかった。
 置いていくしかなかった。あの場所で――息はあっても、やがては煙と炎に包まれてしまうだろう。朋哉を救うことができたかもしれない、彼しか為し得ない証言ごと。
「妹さんの失踪の件で、遼太郎氏に相談を受けたので……少しばかり浅はかな推理をご披露したのが、いけなかったのかもしれませんね」
「推理じゃないわ」
 香澄。
「ほう、では何だと?」
 紳士然とした男は、やはり大学教授のような、落ち着いた笑みを浮かべている。
 銃の照準は、ずっと香澄の胸にあてられている。
 逃げることも、反撃することもできない。
「凛世、佳貴から手紙をみせてもらった?」
 そのままの姿勢で、香澄の背が言った。
「……お父様の、遺書のこと?」
「あの夜のからくりを教えてあげるわ。クリスマスパーティの途中、私はお母様を話があるからと言って連れ出し、お母様のお部屋に行ったのよ、二人で」
 あの夜。
 お母様がいなくなった十八年前の夜のことだ。
「……私は」
 言葉が途切れ、一時、香澄の背中が黙る。
「ここでは言えない汚い言葉でお母様をののしり、侮辱し、傷つけて、……今夜中に」
「…………」
「今すぐこの家から出て行かないと、あなたの秘密をいずれ全部凛世に話すと、そう言って脅したのよ」
「どういう、こと……?」
 凛世は、混乱したまま呟いた。
 どういうことだろう。
 お姉様がどうして、そんなことをする必要があったのだろう。
「言ったとおりの意味よ。お母様が、あの夜、出て行くと言って半狂乱で泣いていた理由はそういうこと。伯父様の仰る通り、お母様を殺したのは確かに私なのよ」
 秘密って……
 秘密って何?
 そういいかけた凛世を遮るように、姉は早口で言葉を続けた。
「でもあの夜、お母様の寝室には、暴漢が一人隠れていたの。そいつは汚い男で、以前自分の手で捕まえた窃盗犯を逃がすかわりに、その口から御堂屋敷への進入路を聞き取り、あの夜……屋敷に入り込んで、お母様の寝室に潜んでいたのよ」
「御堂香澄さん、あなたこそ」
 灰原が、ようやく口を開く。
 落ち着き払った口調で、彼はむしろ、今の状況を楽しんでいるようにさえ見えた。
「今の話を、誰に聞きました」
「誰だっていいでしょう、薄汚いコソ泥に説明する筋合いはないわ」
 階下のガラスが、火勢で壊れる。
 凛世は悲鳴をあげて、姉の背にしがみついていた。
「話の続きは、もういいのですか」
 落ち着き払った声で、灰原は笑った。
「まだ続きがあるでしょう、その後に」
「そう、続きがあるわ」
 灰原を見上げる香澄の横顔に、どこかふてぶてしい笑みが浮かんだ。

         7

「あとは、お父様の手紙に書いてあったとおりよ。お母様に手をかけ、お父様は部屋から出ていかれた。でも、その後に起きたことまでお父様は知らない。あの後ね、部屋には私が入ったの。お父様が、青ざめた形相で階段を降りていかれるのを見てしまったから……パーティの席で、伯父様に妻は寝ていますと言って笑った時、それが嘘をつく時のいつものお父様の、まるで笑っていない目だったから……怖くなって、お母様の様子を見に戻ったのよ」
「鍵は、中から私が開けてあげたんですよ」
 灰原が悠然と口を挟む。
「……その時は、鍵が完全にかかりきっていなかったのか、壊れていたのか、そのいずれかだと思っていたわ」
 姉の横顔に、苦笑めいた笑いが浮かんだ。
「お母様の遺体を見た時、私は、お父様の罪の証を隠さなければいけないと思った……なんとしても隠さなければならないと思った。でも、私だけの力じゃ無理だった、そこで、まさ代に助けを求めたわ。朋哉の手を借りようと言い出したのは、まさ代よ。まさ代は、生まれた時からずっと御堂家にいるから……秘密の隠し通路の存在も、ある程度察していたのでしょうね」
 凛世は呼吸することさえも忘れ、姉の言葉に、ようやく知ることができた真実に耳を傾けて続けている。
「私はそれまで、屋敷に隠し通路があるなんて、聞いたことさえなかったし、朋哉が入り口を守っているなんて、夢にも思っていなかった。……後始末は、まさ代と朋哉が全てやってくれたわ。私が、注目を集めるために、階下に下りてピアノを弾く。その間に、朋哉とまさ代が、伯父様の車椅子を使ってお母様の遺体を悠木屋敷に運び込む。抜け道を利用してスカーフとペンダントを裏山に置いてくるのを考えたのは朋哉だと聞いたけど、まさかそのことで、お父様があんな疑念を持つなんて思ってもみなかった。……それは、女心を知らない朋哉もいけなかったのね」
 そこまで言い切り、香澄は、挑むような目で、冷ややかに話を聞いている灰原を見上げた。
「私はずっと、お父様がお母様を殺したんだと思っていたわ。朋哉も、まさ代もずっとそう思っていた、お父様が佳貴にあてた遺書を読む前は」
 灰原は、何も言わずに静かに笑う。
 その穏やかな笑顔の謎が、凛世には判らない。
 いくら現役の刑事でも、こんなことをして、全ての証拠を隠しえるはずがない。
 一体灰原は、何を考えているのだろう。
「私が部屋に戻った時……お母様の片方の目にはね」
 香澄の声が、わずかに途切れた。
「ナイフがつきささっていたのよ、血も出ないほど深々と」
 凛世は、思考を凍らせる。
 片方の目。
 そしてナイフ。
 香澄は言葉を切り、指で灰原を指し示した。
「どうしてお父様がそこまで残忍な真似をしたのか、当時は随分苦しんだわ。でも遺書を見て判った。お父さまの仕業じゃない、あれは、あなたがやったことだわ、灰原さん」
「発想の飛躍ですよ、御堂さん」
「いつからあなたは異常な殺人に目覚めたの。八年近く前、うちの元メイドのお嬢さんを殺したのもあなたね。朋哉に興味をもった彼女が、通路の秘密にたどり着きそうになったから」
「それは少し違う」
 初めて灰原が、少しだけ不機嫌そうに眉をしかめた。
「村木登紀子にはね、僕は、北の麓から山に入っていくところを目撃されたんです。彼女はどうやら、悠木朋哉と密会する約束をしていたようで……不幸な偶然でしたが……なるほどね、これでお嬢さんに戯言をふきこんだ者の正体が判りましたよ」
「あなたはどうしても、私たちがお母様の遺体を隠した通路に入りたかった。もともとあなたが侵入してきた道よ。あなたは秘密の通路を伝って、この部屋から御堂の本邸に侵入したのじゃなくて?」
 それには、灰原は答えない。
 アーモンド型の、穏やかな目が、香澄と凛世を交互に見る。
 凛世はその目を、一番正常だと思っていた。
 一番人間らしいと信じたから、全てを打ち明ける決心をしたのだ――。
「でも、お母様が死んだ夜以来、通路には入れなくなった。あなたはどうしても入りたかった。どうして? あなたはそこに一体何を残してきたの?」
 わずかな沈黙の後、灰原は柔らかく、微笑した。
「そう、不思議なことに、頂にあったはずの入り口はあとかたもなく無くなっていました。出口がこの部屋だというのも判っていましたが、どこをどう押しても叩いても、中にはどうしても入れない」
 灰原は、古びた暖炉を指差した。
 壁ぎわに埋め込まれたもので、おそらく一度も使われていない。煉瓦石の空洞が色も変わらずに赤銅色に輝いている。
 やはり、ここが灰の跡地だったのだ。自身の勘が当たったことに、  凛世は、安堵よりもむしろ怖さを感じている。まるで、母の眠る場所に引き寄せられてでもいるかのような――。
 凛世は鳥肌の立つような思いで、室内を見回した。
 この部屋は納戸なのだろう。部屋のあちこちに古い家具や木製の箱やらが無雑作に積み上げられている。後は――人形だ。二階にもあった無機質な西洋人形が、壁際の棚一面に、ぎっしりと詰め込まれるように並べられている。いっそ、不気味としか言いようがない光景である。
「通路の出入口は、二ヶ所とも朋哉が封印したのよ。彼は、その方法を知っていたから」
 香澄の皮肉めいた応酬に、灰原は輪をかけた皮肉な笑みを返した。
「それはいい。警察の僕からみると当時はあまりにも無用心でした。あなたのお母様と恋人は、何度ものその通路を通っては、この部屋でも山の上でも愛し合っていた。そう、まるで獣のように奔放に」
 にやり、と下卑た笑いを初めて浮かべると、それが本性のように灰原の目つきが一変した。
「さぁ、もうおしゃべりしている時間はない。通路を開けてください、凛世さん」
 凛世の額を汗が伝った。
 熱い……気のせいではなく、下階の焔の熱気が室内を満たしつつある。
「生きてここから出たければ、通路の封印をといてください。今すぐに」
「無理だわ、朋哉がいないと開け方が判らない」
 即座に香澄。
「いや、できる。彼女がそれを知っているはずだ」
 灰原の目が、再び凛世に向けられる。
 細くすがめられた目は、凛世を見ているようでいて、まるで他人を見ているようだった。
 陶酔しているような、怯えているかのような、あたかも過去に吸い寄せられてでもいるかのような。
 灰原と話す時に感じた不思議な親密さの理由に、凛世はようやく思い至る。
 この男は……ずっと凛世の中に、殺した女の面影を見ていたのだ。
「開けなさい。どのみち通路に逃げるしか、私も君たちも、最早助かるすべはない」
 灰原が拳銃を突き付ける。
 黒く壁が歪み、ふいに、凛世の背後から炎が噴出した。
「きゃっ……っ」
「凛世、火を消して!」
 香澄が急いで上着を脱ぎ、慌ただしく火に被せる。
 煙が、あっという間に充満する。炎は、同時に灰原の足元からも吹き上がり、男も、一時、我を忘れて壁際に逃げた。
「誰か、助けて!」
 消火をあきらめ、窓に駆け寄った凛世は、絶望的な気持ちで叫んだ。
 窓には鉄格子がはめ込んである。
 ガラス戸をこじあけ、かろうじて呼吸をつなぐ。
 香澄は片手で口を押さえ、必死で火を叩いている。けれど乾いたカーテンを舐め、火勢は天井に届きつつあった。
「お姉様、危ない」
「バカ! 消さないと、死んじゃうのよ!」
 火にあおられ、ちぎれたカーテンの断片が舞い上がる。
 それが、香澄の下肢に張り付き、黒い布地が、赤い炎を放った。
「あっ……っっ」
 凛世は咄嗟に飛びついていた。素手で叩くように、姉の衣服を焼く火を消しとめる。
「……っ」
 香澄は、足を押さえてうめき声をあげる。
 焼け溶けた化学繊維は素足に張り付き、おそらく肌ごと、強い熱傷に冒されている。
「窓の傍に」
 それより怖いのは、充満する煙だった。
 凛世は、香澄を引きずるようにして、窓の下に座らせる。
「早く開けろ!」
 灰原が、自身もさすがに苦しいのか、口元を押えながら苛立った声を上げた。
「撃ち殺されるか、焼け死ぬのか、どっちがいいんだ!」
「だめよ……」
 苦しげに香澄がうめいた。
「通路が開いたら、こいつは一人で逃げるつもりよ」
「でも」
 躊躇う凛世の腕を掴み、香澄は強く首を振った。
「大丈夫、もうすぐ警察が助けに来るわ。灰原はとっくにマークされてたのよ……馬鹿ね、伯父様とあなたが、余計なことさえしなければ」
「お姉様……」
 咳き込む姉の背を凛世は懸命に両手で撫でる。
「それでも、佳貴を巻き込んだのはお父様のミスよ……お父様は……好奇心の強い佳貴を利用して、お母様を殺したのは自分だと、……私には何の関係もないと、伯父様に訴えるつもりだったようだけど……」
 あの手紙。
 佳貴が言っていた。
(御堂さんは、おそらく最初から犯人を知っていたんだ)
 ミスディレクト。
 意図的な誤誘導。
 伯父の復讐を見越した父は、姉を助けようとしていたのだろうか。
「櫻井さんがあんな死に方をして……佳貴は、伯父様が私に危害を加えるんじゃないかと、それを心配して、彼なりに動いてくれていたようだけど」
 日野原佳貴。
 ひどいことをされたのに、皮肉屋で決して素直になれない彼が、姉を一途に想う気持ちを思うと、胸が痛む。
「私が甘かったの。最後まで佳貴には、本当のことを打ち明けなかった。どこかで伯父様を信じていたし、お母様を殺した犯人さえ捕まえたら、伯父様も……自首してくださると、そう思っていたから」
「ごめんな……さい」
 凛世は、自分の浅はかさに泣きたくなる。
「謝らないで、私があなたを嫌っていたのは本当なんだから」
 そっけなく言う香澄だが、その手は、凛世の手に重ねられている。
「灰原にはね、所轄時代に中国人マフィアと通じている疑惑もあって……とっくに、警察内部からマークされていたのよ。ここまで喋って、あの男はどのみち私たちを生かすつもりはないわ。警察にとどまることも考えていないと思う」
「でも、このままだと逃げ道なんて」
「あいつの言うとおりにしても、殺されるだけよ」
「でも……」
「死にたいのか!」
 激しい怒声が頭上でした。
「とっとと通路を開けろ、今すぐだ!」
 暖炉の鉄格子が蹴り上げられる。
 炎に染まる灰原の顔は、人間の仮面をかなぐりすてた怪物のようにも見えた。
「十秒だ、それ以上はまたない、時間がきたら姉のほうを殺す、十、九、」
「あなたは、馬鹿よ」
 香澄が叫んだ。
「火をつけたのは、警察がここへ近づいているからね。命まで賭けて、なんのために通路に入ろうとしているの?」
「八、七」
「あなたは一体……あの中で何をみたの?」
「六、五」
 凛世は必死で考える。
 汝が愛するものに捧ぐ石をもて
 石、石なんて――なんだろう、愛するというから、エンゲージリングか何かを指すのだろうか。結婚指輪――約束、約束の……楔。
 凛世は自身の胸元を見ていた。クルスから出して、もうそれは、朋哉にもらったままの姿で凛世の首にかけられている。
「……楔」
 凛世は思わず呟いていた。
「くさ、び……?」
 最早、話をするのも辛そうな姉の額には、脂汗が浮いている。
 凛世は、先細りする小さな四角形の欠片を見つめていた。
 朋哉からもらった不思議な形のペンダント。決して誰にも見せてはいけないペンダント。
 今まで、朋哉から見せてはいけないと言われた物は、全て悠木家の秘事に繋がっている。
 ――もしかして、これは。
 凛世は急いで室内を見回す。
 煙で、最早部屋の中はまともに見られない。壁を舐める炎は、部屋の家具にまで燃え広がりつつある。
 めきめきっと、火柱が音を立てる。
 館のいたるところで、崩壊が始まっている。
「時間だ」
 冷酷な声。
 同時に、重みのある木が、激しくへし折れる音がした。
 ――もうダメ……。
 凛世は姉を抱きしめたまま、目を閉じる。
 暴風にも似た熱い風と共に、黒い影が視界を覆ったのはその時だった。






>top  >next >back