4

「どうして佳貴を殺したの」
 階段の下部から伸びる黒い影が、凛世を覆う。
 目の前で、自分を睨んでいる女。今夜は帰らないはずの女が、どうして今ここにいるのか、凛世はただ、固まったまま動けないでいた。
 そんな凛世を背にかばうようにして、伯父が足を引きずって前に出る。
「何の話だね」
「……知っているのよ、私」
 階段の下に立つ、香澄の声が震えている。
 幽鬼のような形相に、黒の、喪服にも似たパンツスーツ。
 凛世は、想像もしていなかった展開に、言葉もなく立ちすくんでいた。
――お姉様が、どうしてここに。
 今日は日野原家と示談の話し合いだと聞いていた。仕事の打合せもあって帰りは明日になると、確かに何度も確認したのに。
「もう茶番はたくさん、もうおしまいよ、私がバカだった」
 取り乱したように、上げた両腕を振り下ろし、香澄が声を荒立てる。
「朋哉が……逃げたそうよ」
 それには、凛世が凍り付いていた。
 朋哉が――逃げた?
「ついさっきよ、警察から会社に連絡があったわ。ニュースではもう大騒ぎよ。護送中に逃走しようとして拳銃で撃たれて……」
 苦しげに言葉を切り、香澄は頭痛をこらえるようにこめかみに指をあてた。
「治療先の病院から、怪我を負ったまま、消えてしまったって」
 ――……朋哉。
 黒い眩暈。
 凛世はよろめいた身体を、壁で支える。
 そんな、どうして。
 どうしてそんな、馬鹿な真似を。
「もう朋哉はおしまいよ。何もかも私のせいよ、私が、この家の秘密に拘ったばかりに」
 両手で頭をかかえるようにして首を振り、香澄は充血した目で、伯父を見上げた。
 その鋭い眼差しに、一筋の涙が伝う。
「伯父様にかわって自首すると朋哉が言い出した時、もっと反対すればよかった、こんなことになるなんて!」
 凛世は息を引いている。
 伯父の背は落ち着きはらっていた。
「私が、何をしたというのかね」
「櫻井厚志を殺したのも伯父様、佳貴を殺したのも伯父様」
「なんのために、ばかばかしい」
「秘密を守るためによ!」
「なんの」
「伯父様が」
 香澄の唇がわなないた。
「……お父様を、殺したという秘密よ」
 凛世の視界には、広い伯父の肩が見える。
 痩せているようで、しっかりとした骨格を持つ肩。
 お父様を……殺した?
 それが、秘密……?
「まいったな、何を言い出すかと思ったら」
 ゆらり、とその肩がゆれる。
 垣間見えた横顔は、いつもの貴族然とした、美しい伯父の微笑だった。
 いきなり、その背中が獰猛になる。
 凛世が悲鳴を上げたとき、香澄の喉に、伯父の両手がかかっていた。
 激しい音がして、姉の背中が壁に押し付けられる。
「あの男が、枝理世を殺したからだ」
「……ちがう、わ」
「やめて、伯父様!」
 我に返った凛世は、伯父の背に組み付こうとする。
「凛世は下がっていなさい!」
 激しい口調で凛世を遮断し、伯父は、目に優しさの欠片を滲ませて振り返った。
「香澄はここで、私が始末する」
「…………」
「お前は安心していなさい。さぁ、早く下に降りるんだ、凛世」

          5

 何を……言ってるんだろう、この人は。
 凛世は、呆然として、背後にわずかによろめいた。
「本当に……伯父様がしたことなの?」
 それでも、震えながら凛世は訊いた。
「いいや、朋哉だ」
 振り返らずに、伯父。凛世は必死でかぶりを振った。
「朋哉は、日野原さんを殺してなんかいない。絶対に朋哉じゃない!」
 もはやそれは、祈るような叫びだった。
 ゆっくりと凛世を見上げた伯父の目が、少しだけ寂しそうに笑った。
「何故、そう思うんだね」
「許して伯父様……私、伯父様を、試そうとした」
 本を手に入れ、通路の秘密を知りたがっていたのは香澄と佳貴。
 隠そうとしていたのは――伯父の遼太郎。
 倉庫の古書をひそかに焼いていたという父の手紙、さらには郷土史料館の古書まで始末し、灰原に対し、屋敷の中を捜索することを頑なに拒否していた伯父。
「秘密の通路を開けると言ったら、伯父様が困るだろうと思ったの。伯父様は……その場所を知っていて、大切なものを……そこに隠しているんだと思ったから」
 だから凛世は、今夜、伯父の目の前で、通路の秘密を暴こうと企てたのだ。話の途中で、伯父が真実を吐露するか、もしくは暴挙に出る可能性に賭けて。
 けれど、その自信は途中から揺れ、崩れかけていた。
 伯父はむしろ積極的に扉を開けようとしており、そこに母の遺体が隠されているとすれば、朋哉しか成し得なかったという。
「……大切なものとは、枝理世のことを言っているんだね」
 口元に微笑を浮かべたまま、伯父は静かな目で凛世を見上げた。
「私が、妹の死体を秘密通路に隠したと……そう疑っているんだね」
 が、今それは、香澄の乱入という思わぬ形で、決着を迎えようとしている。
 しかも最悪の決着を。
「残念ながら、凛世」
 伯父の腕に力がこもる。
 苦しげにもがく香澄の頬が紅潮した。
「そのどちらも、ここにいる女が仕組んだことだよ」
 灰原さんは……。
 凛世は震えながら、扉に向かって後ずさる。
 どうして出てきてはくれないのだろう。彼はずっと二階に潜んでいるはずなのに。
 危険があれば、すぐに出てきてくれる約束になっていたのに。
「もう一度言おう。枝理世を殺したのは、成彦とお前と、そして朋哉だ」
 伯父の怖い目が、再び香澄に向けられた。
 苦しげに顔を紅潮させた香澄が、あえぐように首を振る。
「朋哉は自らの罪を悔いて、贖罪する道を選んだのだ。当然だ、お前と朋哉と、そして成彦が枝理世を殺した。私の大切な妹を、永遠に暗い穴底に閉じ込めたのだから」
「誰に……そんなことを、聞いたの」
 香澄の問いには答えず、伯父はただ、薄く笑う。
「次はお前の番だ。凛世が成人するまでは生かしてやろうと思ったが、もういいだろう。何年もこの時を待ち続けた、いい加減に待ちくたびれたさ」
 首から手を離す、そのまま伯父は、香澄の髪を掴みあげるようにして、壁に強く叩きつけた。
「この、薄汚い母親殺しが!」
 深い憎しみのこもった声。
 一瞬蒼白になった香澄は、けれど、すぐによろめいた体勢を戻し、冷静な目で伯父を見上げた。
「そう、……知っていらっしゃったの」
「手をかけたのは、成彦だ。けれど、本当の意味で枝理世を殺したのはお前だ、香澄」
「その通りよ、私が、あの汚れた淫婦に引導を渡してやったのよ」
 開き直ったように、形相を変えてまくしたてる香澄。
 飛び交う言葉の異常さに、凛世は思考を失ったまま、ずるずるとしゃがみこむ。
「貴様……」
「いいの? 凛世がそこにいるのよ!」
 再び、伯父の腕が、香澄の喉元にかかろうと飛び掛る。
「やめて、伯父様!」
 我に返った凛世は、弾けるように伯父の腕にしがみつく。
 それよりも俊敏に、香澄は階段を駆け上がり、二人より上の場所に立った。
「汚いのは……あなたよ!」
 香澄の目に、憎悪と嫌悪の炎がゆらめく。
「警察に何もかも話すわ。朋哉が何を守るためにあんな怪我を負ったのか、何のためにあなたのような男を庇っているのか、何もかも」
 凛世の腕を振り切った伯父が、再び香澄に踊りかかろうとする。
 妙な匂いに気づいたのはその時だった。
 不安にかられ、凛世は暗い階下を見下ろす。
 ――なに……?
 近くで、鋭く、けれどひどく単調な音がひとつ弾けた。
 何が起きたのか、判らなかった。
 凛世の目の前にある背中が、痙攣でもするように震え、そのままもがくように崩れ落ちる。
 仰向けになった伯父の身体は、階段を数段落ち、角に頭と肩をぶつけるようにしてようやく止まった。
「……伯父様?」
 苦悩と苦痛に満ちた目が、わずかに揺れて、最後の力を振り絞って凛世を見上げたような気がした。
「正当防衛ですよ、御堂さん」
 ひどく落ち着いた声がした。
 もう一度、乾いた音が動かない伯父の胸元で弾ける。
 凛世はただ、呆然と、無表情で拳銃を構えている男を見上げた。
 足元の暗闇で、何かがかすかに爆ぜる音がした。
 漠然とした不安と共に、闇の中から白い煙が這い上がってくる。
「……それは、正当防衛とは言わないわ」
 あえぎながら呟いた香澄を見下ろし、灰原は静かに苦笑した。
「さて、そろそろ一階に仕掛けた火が回る。煙で中毒死する前に、秘密の通路とやらに案内してもらいましょうか、お嬢様方」






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