第七章「薔薇の墓標」


    1

 雨粒が窓を叩いている。
「ひどい天気だ、今日は朝から振り通しだな」
 駐車場から玄関までの間に濡れたのか、伯父は顔をしかめながら、リビングに入ってきた。
 ほとんど目立たないが、足をわずかに引きずっている。
 御堂遼太郎。
 若い頃煩った結核は完治したようだが、過酷な療養生活の後遺症が、今でもいたるところに残っている。
 それさえなければ、美丈夫で見目麗しく人望も厚い伯父は、完璧な御堂家の当主になっていただろう。
「メイドの姿が見えないようだが」
「今日は、全員、午後から暇をとってもらったの」
 凛世は何気ない風に言い、キッチンに立った。
「警察の事情聴取で……みんな、疲れているようだから」
「しかし、不便だろう、凛世一人では」
「コーヒーを淹れるわ、食事はもう少し後でもいい?」
 所在なげに周囲を見回した伯父は、疲れたようにソファにその身を深く沈めた。
「食事はいいよ……疲れてしまった、今夜はもう休みたい」
「警察へは、まだ?」
「いや、今日は弁護士に会ってきたんだ。朋哉をあのまま、ほうっておくわけにもいかないじゃないか」
 苦々しげに呟き、遼太郎は、凛世の出したコーヒーを持ち上げる。
「香澄は、日野原家へ連日赴いて平謝りだ……うちの主要事業の一部を、慰謝料として日野原に移譲することになるかもしれん」
「そう……」
 葬儀の日、カメラの前では男泣きに泣き、凛世たちの前ではむしろ冷めていた佳貴の父親は、すぐに香澄に、慰謝料の話し合いを求めてきた。
「私も実業家のはしくれです。できれば、会社間の実益を兼ねた話し合いにしたい」
 しれっとした顔でそう言っていたが、実質、御堂家が要求されたのは、金銭に換算すると、何百億にも昇る膨大なものだろう。
 香澄は、それを無条件で飲むつもりらしい。
「新聞報道が出て以来、株価は下がりっぱなしだよ。うちはもうおしまいだ、朋哉の奴……どうして、あんな真似をしでかしてくれたんだか……」
 眉間に苦悩を滲ませて、遼太郎は、老いてもなお端整な顔を暗く翳らせる。
 いっそう激しくなった雨音が、静まり返った室内に響き渡った。
「……伯父様は」
 凛世は、軽く深呼吸をした。伯父の対面に座り、少しだけ視線を下げる。
「お姉様のことを、どうお思いになっているの」
「どう、とは」
 いぶかしげな目が、凛世を捉える。
「朋哉は、もしかすると」
 凛世は、勇気を振り絞って言葉を続けた。
「お姉様を……庇っているんじゃないかと思って」
「庇う?」
「……朋哉があんな真似をしたのは……もしかして、お姉様のためだったんじゃないかと思って」
「日野原君のことかい」
 凛世は、こくりと頷いた。
「驚いたな、何を言い出すかと思ったら」
 動揺を双眸に浮かべたまま、伯父はカップをソーサに置いた。
「じゃあ、凛世は、日野原君を殺したのは香澄の意思だとでも……そう言いたいのかね」
「こんな本があるの」
 凛世は用意していたものを包みから取り出し、そっと伯父の前に置いた。
「これは」
 はっと、青くくすんだ端整な目が見開かれる。
「怪物とお姫さま、という本よ。ずっと以前、朋哉のお母様の部屋で見つけて、私が朋哉から譲り受けたものなのだけど」
 伯父は、わななくような手で、そっと深い緑色の表紙に触れた。
 いつにない伯父の表情で、凛世は察した。
 伯父は、この本のことを知っている。しかも、彼にとっては、相当思い入れがあるものに違いない。
「ご存知でいらしたのね」
「……知っているよ、もう……とうに処分したものだと思っていたが」
 伯父の指が震えている。
 懐かしいとも忌まわしいとも、どちらともとれる、潤んだ眼差し。
「<怪物とお姫さま>は、そもそも、どなたが描かれたものなの」
 凛世の問いには答えず、伯父は痩せた指で、表紙を何度も撫でている。
「この本には、うちの屋敷から山頂に抜ける、秘密の抜け道が記されているようなの」
 が、続く凛世の言葉には、その指も横顔も固まった。
「日野原さんも櫻井さんも、もしかすると、抜け道の秘密を知ったから殺されたのかもしれない。理由はわからないけど……もしかするとお母様の失踪と、何か関係しているのかもしれない……伯父様、私も」
 凛世は震えを堪えるように、自身の身体を抱きしめた。実際、腕にはそそけだつような鳥肌が浮いていた。
「私も、絵本の謎を解いたの。……抜け道の扉を開く呪文の謎を」

          2

「薔薇の……墓、か」
 背後から、伯父の、どこか空ろな呟きが聞こえた。
「確かにそんな話は母から聞いたことがある。庭に、焼き払った薔薇園を奉った祠があると」
「ええ、でもそれは違うの、多分」
 凛世は言い差し、目の前にそびえる悠木邸を見上げた。
 薔薇の墓。
 八年前の夏に掛ったベールが落ちた時、凛世は同時に思い出していた。
 事件の前日、こっそり二人で登った山頂で、朋哉と交わした秘密の会話。どうしてそんな大切な話まで、私は忘れてしまっていたのだろう。
 多分、家庭教師の記憶ごと、朋哉の存在も忘れてしまいたいと思ったからだ。
 自分がひどく汚れたような気がして、二度と朋哉に……会えないような気がしたから。
(――凛世様、悠木の家をここから見てごらんなさい。ほら、まるで)
 そう、本当の――薔薇の墓は。
「悠木屋敷の形は、まるで長方形の塔のようだわ。……山頂からみおろすと、それは、薔薇に囲まれたお墓のように見えるのよ」
 薔薇園の間を縫って歩きながら、凛世は背後の伯父に説明した。
 山頂に上るものにしか判らない、美しくて不吉な隠喩。
 朋哉は無論、交わした会話を覚えていたに違いない。そして佳貴が、言葉巧みに聞きだしにかかるのを予想してもいたのだろう。
 その上で、あえて凛世の口から佳貴に伝わる事実を誤誘導したのだ。おそらく――凛世に、過去を思い出させたくないという意図もあって。
 凛世は全てを理解したから、むしろ日野原佳貴を積極的に<薔薇の墓>にいざなった。
 朋哉が絶対に隠したい秘密なら、それは凛世にとっても誰にも明かせない秘密である。
 いってみれば、朋哉が凛世を使って仕掛けたミスディレクト。
 頭のいい佳貴は、すぐにそれと気づいたに違いない。
 ようやく悠木邸に辿り着く。
 凛世は鍵を開け、玄関脇のテンパールをあげた。暗い室内に、何年かぶりに灯りが瞬く。
「ひどい埃だな」
 背後の伯父が、不快気に呟いた。
 黒のシーツがいたるところで異様な形を刻んでいる。歩くたびにもやのような埃が舞う。家具のひとつひとつが主をなくした静物画のようだ。まるで死者のためにあつらえた部屋。
 狂った時計の奏でる不協和音が、静まり返った室内に不気味に響く。
「それで凛世は、絵本の……暗号とやらを解いたんだね」
「薔薇の墓の謎さえとければ、あとはとても簡単だったわ」
「……しかし……あれが、本物の暗号だったとは」
「伯父様も読まれていたのね」
「随分前のことだがね」
 内心の動揺を抑え、凛世は無言で螺旋階段を上がる。
 部屋の中央で螺旋状になった階段は、幅狭く急で、一人が通るのがやっとの幅しかなかった。
 さほど高さがあるわけではないのに、ふと気を許せば、はるか奈落に一直線に落ちてしまいそうな危うさがある。
「三つの棺……とは、どういう意味だろう」
「三階を指した暗喩だと思うの。このお屋敷は、床の形がまるで西洋の棺のようでしょう」
 それも多分、朋哉から聞いた。自身の家を墓だと言う朋哉に、凛世はひどく寂しくなって「そんなことを言うものじゃないわ」と反論した。その時に、そもそもデザイン自体、西洋の棺を模しているのだから――と苦笑して説明されたのだ。
「灰の跡地というのは……では、なんだ」
 伯父の、くぐもった声が背後で聞こえる。
 二人は一列になり、薄暗い照明だけを頼りに、螺旋状の階段を登る。
「この館には、一階と二階、同じ位置に暖炉があるの。判らないけど……三階にも同じものがあるなら、多分」
 それが、おそらく灰の跡地だ。
 暗号を佳貴が解いた時、記憶の糸も同時に解け、凛世は即座にここまでは理解した。
「なるほど、確かにな、しかし、扉を開く石をもて、というのは……どういう意味だろう」
 正直言えば、灰の跡地にしてもあてずっぽうで、自信はない。一度も入っことがない三階に何があるのかも、凛世は知らない。
 ここから先は、駆け引きだ。
 凛世は質問には答えず、横目で伯父を見る。
「その前に教えて、絵本は、本当は誰のものなの」
「怪物とお姫さまか」
 伯父の口調には、どこか苦いものがあった。
「……あれは……、もともとは、いなくなった枝理世のものだ」
「お母様の?」
 凛世は足をとめ、思わず伯父を振り返っていた。
 陰鬱な目で、伯父は頷く。
「それを私が取り上げて、三千代……朋哉の母親に引き渡した」
「どうして」
「あの本を描いたのは、三千代の夫、つまり朋哉の父親だからだ」
「…………」
「枝理世は結婚してもまだ、悠木からもらった本を後生大事に隠し持っていた。我が家の秘事に通ずるような内容にも驚いたが……私が本を取り上げた理由はそれだけではない。判るだろう、凛世」

    3

 朋哉のお父さんが……。
 凛世は驚いたまま、苦い眼をした伯父を見つめる。
 <怪物とお姫さま>は、朋哉の父親が描いたものだった。
「あの本はな、凛世。朋哉の父親が三千代と結婚する前に、枝理世の十六歳の誕生日に贈ったものなのだ。家来ふぜいが、一体どういう意図であんなものを主家の娘に贈ったか……判るかね、凛世」
 早口で言い募る伯父の声に、はっきりとした嫌悪と怒りが浮かぶ。
 凛世は、佳貴の言葉を思い出していた。
(プレゼントとして、女性に贈ったものじゃないかな)
(切ない恋心が、伝わってくるようじゃないか)
 ――では……、では。
「絵本には……裏表紙に、SAKURAIというアルファベットが刻まれていたわ」
 凛世は、三階へ続く階段を上がりながら呆然と呟いた。
 もしかして、私の本当の父親とは、朋哉の父だったのだろうか。
 が、その疑念は、すぐに解ける。朋哉の父親は、凛世が生まれる何年も前に死んでいる。それだけはあり得ない。
「確かにあった」
 頷いて、伯父。
「金の刺繍で……でも、朋哉にイギリスに送ってもらった時、文字は綺麗に消されていたの」
 忘れかけていた記憶の欠片。
 凛世の記憶の中の絵本には、裏表紙に金文字でSAKURAIと刻まれていたはずだった。
 だから、最初にサクライという名を聞いたとき、はっとしたし、漢字名を見せられたとき、その閃きは一瞬で褪せたのだ。
「私……だからあの本は、櫻井厚志という方か、そのご親族が書かれたものだと思っていたわ」
「櫻井というのは朋哉の父親の旧姓だよ。あれは悠木家の傍系で、養子縁組で悠木に入ったのだ。知っての通り、悠木の直系は朋哉の母の三千代しかいない」
「じゃあ、櫻井……厚志さんと、朋哉のお父様は」
「養子縁組前は従兄弟同士だったのだろう。顔かたちもよく似て、親友のように仲がよかったと聞いている……そんな男と枝理世が偶然再会したのも、何かの悪縁だったのだろうが……」
 では母は、朋哉の父の面影を、櫻井という男に求めていたのだろうか。
 そうして生まれたのが自分なら、遠くても、自分と朋哉は血が繋がっているのかもしれない。
「あの本を描いたのは朋哉の父親だが、絵はおそらく櫻井厚志が手を入れたものではないかと思う。奴はまがりなりにも画家だったのだからな」
「……最後のページが、破られていたのは?」
「最後?」
 物語の内容には、ほとんど関心を示さなかった伯父は、いぶかしげに眉を寄せた。
「それは……わからない。枝理世はあの本を、宝物のように大切にしていた。私が見た時は、破損はしていなかったはずだと思うが」
「そう……」
 凛世は眉を寄せる。
 では、朋哉の母親か、もしくは朋哉が破ったのだろうか。
 誤ったとか、そういう風ではなく、きれいに一直線に、最後の数ページだけが破りとられている。
 そこには一体何が書かれていたのだろう。
「本の内容を知っているということは、櫻井さんも伯父様も、うちに秘密の通路があること自体はご存知だったのね」
 登りきった階段。
 人一人が通るのがやっとのせまい螺旋階段。窓ひとつない圧迫感と息苦しさに、凛世は息をあえがせた。
 三階、最上階の灰色の扉が、目の前に迫る。
「むろん、私は知っていた……というより」
 かすかな嘆息が背後で聞こえた。
「通路の件は、代々悠木と御堂家の当主のみが知る秘事なのだ。元々は、天守閣があった頂から麓に脱出するためのルートだったと聞く……戦国の頃の話だがね」
「じゃあ、どうして」
 凛世の疑念の意を察したのか、伯父の口調がやや強くなった。
「凛世、私も手をこまねいていたわけではない。枝理世が失踪した時、万が一の可能性を考え、先人の古書も漁り、通路の入り口を必死に探した。けれど、どうしても判らなかった」
「お父様はご存じじゃなかったの」
 凛世の問いに、叔父は苦く首を振る。
「確かに御堂家の当主は成彦君だが……死んだ父は、外姻の彼に秘事を漏らしはしなかったのだろう。失踪しただけが、父から秘事を受け継いでいたのだ」
「絵本のことは思い出しもしなかったの?」
「探したさ。しかし、どこにもなかったのだ」
 ――朋哉だ……。
 凛世は、暗い気持ちで理解した。
(――この本のことは、誰にも申されてはなりませんよ)
 初めて<怪物とお姫さま>を見つけた時に、朋哉にはっきりと言われた言葉。
 朋哉は最初から、本の存在が鍵だと知って、その上で隠し続けていたのだ。
「では、通路への入り方は、一体誰がご存知だったの」
「……悠木家では、当然三千代が知っていただろう。三千代が死んだ時……秘事を朋哉に打ち明けないはずはないのだが、当の朋哉は一切知らないと言っている」
 しかもだ。
 伯父は続けた。
 灰色の扉の前に、凛世は立ちふさがり続けている。開けてしまえば、凛世の虚構が崩れてしまう。もし、そこに暖炉などなかったら――。
「祖父の話では、通路を封印しているのは悠木家で、封印の解き方もまた、悠木家の者だけしか知らないそうなのだ」
「どういう意味なの」
 予想外の言葉に、凛世は眉をひそめている。
 悠木家の者しか……知らない?
「理由は判らないが、そういう取り決めを何代か前の両家が交わしたということなのだろう。私の父も、祖父も、だから通路の開き方までは知らなかったはずなのだ」
「つまり……悠木家の人しか、通路の開け方を知らないということなのね」
 凛世は念を押す。伯父は頷いた。
「そうだ、しかし朋哉は、絶対にそれを言わない」
「…………」
 主家にさえ隠された通路。
 いったい、それは……何を隠すためだったのだろうか。
「もっとはっきり言えば、香澄は朋哉のことなど少しも愛してはいない。あれは、通路の秘密を聞き出すために朋哉を傍におき、同時に秘密が外に漏れないよう、鳥籠に閉じ込めるようにして監視しているだけだ」
 かすかに嘆息し、伯父は、豊かな灰色の髪に、自身の指を差し込んだ。
「ここまで明かしたら、私も正直になろう。……香澄は、恐ろしい女だよ、凛世」
 美貌の紳士は、物憂げに眉をひそめたまま、端整な目で凛世を見下ろした。
「あれは、お前のことを、妹などとは髪ひとすじも思っていない。お前を日本に呼び戻したのはなんのためだと思う。お前が通路の秘密を朋哉から聞いていないか確認するためだ。そうでないと判れば即座に婚約をまとめ、家から追い出そうとする。しかも、相手の日野原佳貴は、元々は……香澄の」
 迷うように言葉を濁らせる伯父に、凛世は無言でうなずいてみせた。
 そして、ふと不思議に思う。
 同じ屋敷で、随分長く住み暮らしていても、他者を受け入れない性格のせいか、どこか他人のようだった伯父。
 この老紳士が、自分に生の声をぶつけてくれたのは、母の失踪について聞かされた時以来初めてのような気がする……。
 姉の味方でもなく、当然、凛世の味方でもない。
 いつも中立の立場で、一歩引いた場所から姉妹を支えていた男。
「そうまでして、何故香澄が通路の秘密に拘るか……私は、むしろ、それを考えるのが恐ろしいのだ」
「伯父様は……じゃあ、どうして、そんな通路がある可能性を」
「凛世、とにかく中に入らないか。全ては通路の謎を見てからだ」
「そうね」
 ノブにかける手の指が震えた。それでも凛世は手を止めて振り返る。
「伯父さまはどうして、秘密の通路のことを警察におっしゃらなかったの。お母様がいなくなった時に」
 遼太郎の目が、苦くすがめられる。
「それは……秘事だから、としか言いようがない。我々の祖先が決して明かそうとしなかったものを、軽々しく私が口にできるかね、凛世」
「……………」
「けれど凛世、仮に……枝理世の遺体が、秘密の通路に隠されていたとしたら、隠したのは間違いない、朋哉だよ」
 最後に、伯父は苦い口調で言って、口を閉じた。
 ノブを掴んで回しながら、凛世にはまた判らなくなっている。
 この秘密の扉の向こうに待っているのは―― 
 絶望だろうか、それとも一縷の希望なのだろうか。
「動かないで」
 鋭い声がしたのは、その時だった。






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