「もう痛くはないですか?」
 優しい声で、怪物は目を覚ましました。
 心配そうな目で見下ろしてくれているのは、湖のほとりで倒れていた、あの美しいお姫さまです。
 お姫様の表情で、怪物は、最後の力を振り絞った自身の変化が上手くいったのだと気がつきました。
 人間の姿を得た足には、布切れが巻きつけられています。
「私を助けてくれてありがとう」
 春の風のような、かろやかな声でした。
 宝石のような瞳が優しい光をたたえて、じっと怪物を見下ろしています。
「あなたはどなた? どうしてこんなところにいらっしゃるの?」
 怪物は答えることができません。
 それは怪物が、いつも思っていたことだったからです。
 だから同じ質問を、お姫さまに聞き返しました。
「私はこの国の王女です」
 お姫さまは、自分の身の上を語り始めました。
 驚いたことに、お姫さまは怪物と同じで、とても孤独な方のようでした。
 生まれてすぐに母王妃を亡くし、継母と義姉にいじめられ、友達もおらず、広いお城でいつも一人きりだったというのです。
 お姫さまは、色々なことを話してくれました。
 今、国は戦で、父王と兄王子は、遠い異国で戦っていること。
 その留守中に、継母と義姉が国のお金を好きなように使っていること。そして、それを知ったお姫様が、兄宛に手紙を書いたこと。
「それが、お継母さまに知られてしまったのです」
 お姫さまは、悲しそうな目で言いました。
「もう、お城へは戻れません。戻れば私は殺されてしまうでしょう」
 ふもとには、かがり火が見えました。お姫さまを探すためのものなのか、怪物を追うためのものなのか、怪物には判りません。
 どのみちこの山は、もう怪物にとっては危険な場所でした。
「どうやって、ここまでこられたのですか」
「それは……言えませんわ」
 お姫さまは言葉を濁し、うつむきます。
「お一人でいらっしゃったのですか」
 こくり、とお姫さまは頷きます。
 一人で。
 それは、信じることはできないぞ。
 さすがに怪物の心に、わずかな疑いが生じました。
 お姫さまのお城は山のふもとにあって、確かに距離はそう離れてはおりません。
 それでも、ここにたどり着くまでには、険しい峠があり、獣が横行する迷路のような森があり、腕の覚えのある勇者でも単独では難しいくらいです。
 なのに、足を汚すでもなく、傷を負うでもなく、こんな頂までどうやってお姫さまが一人でやってきたというのでしょうか。
 しかし、今は、そんなことを気にしている暇はありませんでした。
「どこかへお逃げになってはいかがですか」
 お姫様はすぐに、首を横に振りました。
「お兄さまが、きっと戻ってきてくださいます。私はお兄さまを、ここで待つつもりです」
「それは無理です」
「いいえ、ここは我が王家にとっては聖なる山、絶対に神様のご加護があるでしょう」
 神の加護などないことは、ここで何人もの餌を食べてきた怪物が一番よく知っております。
 けれど、どんなに言葉を尽くして説得しても、お姫さまの水晶のような目は、かたくなな決意でりんと光るだけなのでした。
「では、私が、あなたをお守りいたしましょう」
 根負けした怪物は、ついにそう言ってしまいました。
 何故そんな馬鹿なことを言ってしまったのか、自分でもよくわかりません。
 ただ、お姫さまの目を見ていると、そうしなければならないような、そんな不思議な気持ちになったのです。
「ただし、私がお守りできるのは月の夜の間だけ、昼はじっとお隠れになっておられなければなりません」
「まぁ、どうしてかしら」
「私の姿を、お見せすることができないからです」
 怪物が言うと、お姫さまはくすくすと笑いました。
「面白い方、きっとあなたが神様からつかわされた精霊なのね」
 おなかはぺこぺこでした。なのに、不思議と食べたいとは思いませんでした。
 それより怪物は、いつまでもお姫様の声を聞いていたいと思っていたのでした。


 深い山の、さらに深い森の中で、二人は幸福に暮らしました。
 月の夜、若者に変化した怪物は、お姫さまの庵を訪れ、二人は朝まで色々なことを語り合い、心を通じ合わせました。
 歌と音楽が好きなお姫さまのために、怪物は木のつると枝で楽器をつくり、お姫さまはそれを奏でて歌います。
 まるで天の音色のような素晴らしい音に、怪物はうっとりと聞き惚れます。
 そしてお姫さまに教えられるままに、自分もはじめて歌うことを覚えたのでした。
 最初に出会ったクローバーが咲き乱れる山頂で、光がしずくのように降り注ぐ月の下、怪物とお姫さまは、夜があけるまで、二人きりの時間を楽しんでいたのでした。
 けれど、幸福に過ごせるのは、深夜からあけがたまでのほんのわずかな時間です。
「その怪我は、どうしたの?」
 お姫さまは、会うたびに傷を作っている怪物を見て、不安そうに囁きます。
「なんでもありません」
 昼間、お姫さまがぐっすり眠っている間、怪物は庵に誰も近づかないよう、両目を光らせ、毛を逆立てるようにして、侵入者と戦い続けます。
 新たな傷は絶えることがなく、侵入者の数は日々増えていくばかりです。こうしている時でも、決して油断はできません。
「もしかして、私のため……?」
「そのようなことは、決して」
「本当に?」
「本当に」
 傷は本当になんでもないことでした。痛みはしますが、一晩で治ります。
 それも怪物の持つ、二つの心臓の不思議な力のおかげです。心臓の力がある限り、怪物は人間に変化できるし、決して死ぬこともないのです。
「それよりも、昼間は決して庵から出てはいけません」
 怪物は、それだけは念を押していいました。
「外を見てもいけません。そうなれば、私はおそばにはいられなくなりますから」
「あなたは不思議な人ね」
 お姫さまの指が、怪物の頬をそっと撫でました。
「いったい、いつ眠っているの? いったい、いつ食事をしているの?」
「あなた様が、お眠りになっている間にです」
 常に腹が満ちている怪物は、もうお姫さまに食欲をそそられることはありませんでした。
 しかし、「食事」をしている姿だけは、決して見られるわけにはいきません。
 見られてしまえば、お姫さまは、永久に怪物を許してはくれないでしょう。
「お兄さまが、ゆっくり戻っていらしたらいいのに」
 怪物の背に自分の背中をあずけながら、お姫さまは恥ずかしそうにつぶやきました。
「もう少しここで、あなたと一緒に暮らしたい」
 そんなことが、できるはずもありません。
 雨風はどうにかしのげるものの、食事も粗末で、満足な暖もない庵。家事仕事のせいでしょうか、お姫さまの絹を練ったような指は、荒れてかさかさになっています。
 怪物はむしろ、日に日に痩せていくお姫さまが心配でなりませんでした。


 心配していたことは、ついに現実になりました。
 長い雨が続いたある日、食事を一切受け付けなくなったお姫さまは、高い熱を出して動けなくなってしまったのです。
「お兄さまは、まだかしら」
「もうじき、もうおそばに」
 けれど、山のふもとには、軍隊の影さえありません。
「もう、そろそろいらしてくださるかしら」
「もう、馬のひづめの音が聞こえています」
 うわごとのように呟くお姫さまの手を、怪物は強く握り締めました。
「おお、あなた様を呼ぶ声が聞こえる。すぐにお連れいたします、このまま、しばらくお待ちください」
 飛び出した怪物は、変化を解き放ち、獰猛な勢いで地を蹴り、天を駆けました。
「怪物だ、姿を見せたぞ!」
「毒矢を射よ、火を放て!」
 ふもとを警護している騎士たちが、一斉に矢を放ちます。
 背に幾筋もの矢を受けながら、それでも怪物は、一心不乱に駆け続けました。
 隣の国へ、そしてさらのその奥へ。
 お姫さまの兄王子が、戦のために滞在している山中に。
「化け物め、この私が成敗してくれる!」
 陣中で暴れる怪物の面前に、美しい王子は、血気盛んに飛び出してきました。
 怪物は再び変化し、血まみれの身体で地面にはいつくばり、必死で頭を下げました。
「私は、あなた様の国に住む怪物です、無礼な真似をお許しください」
 不思議な変化におどろいた王子は、怪物の言うとおり、その場で二人だけになり、詳しい話を聞いてくれました。
「妹が……」
 しかし王子は、話を聞き終わり、苦しげに眉を寄せました。
「確かに妹からの手紙は届いた。しかし、今、そのようなことにかかわりあっている時間はないのだ」
 なんと残酷な言葉でしょうか。
「それに姫は、その気になれば、自分の力で城に帰れる」
「あのようなお体で、無理でございます」
「お前には言えぬが、おそらく、あれは呪術を使って山に登ったのだ」
「例え、どのような呪文があろうとも」
 怪物は必死で訴えました。
 お姫さまが一人で戻れば、王妃さまに殺されてしまうに違いありません。
「今、お助けいただかなくては、お姫さまは死んでしまいます。どうか私の背に乗り、お姫さまの元までお帰りください」
「ばかなことを言うな、そうなれば私が、お前の仲間だと思われてしまうではないか」
 王子の国で、何人もの人間を食べている怪物には、何も言い返すことができません。
「悪いが、お前の言葉を信じることはできぬ。ここで成敗してもよいくらいだが、その怪我に免じて見逃してやる、去れ」
 マントを翻して陣に戻る王子の頭には、今は、敵国との戦争だけしかないようでした。
 しかし、この王子に見捨てられれば、お姫さまは本当に死んでしまいます。
「お待ちください」
 ほとんど迷わずに、怪物は言っていました。
「ひきかえに、私の心臓をひとつ差し上げましょう」
「心臓だと?」
「私の心臓には、不思議な魔力がございます。私が不死身のまま何百年も生きながらえているのも、人間の姿に変化できるのも、全てはこの心臓の力」
「まことか」
 頑なだった王子の表情が、はじめて動きました。
「人が口にすれば、どのような傷もたちどころに癒えましょう。お城に戻ってお姫さまをお救いくださいますれば」
「……よかろう」
 王子の返事を聞くと、怪物はにっこりと笑って、自身の左目に指をあてました。
「あっ、何をする」
「心臓とは、すなわち、私の目」
 えぐりとった瞬間、変化力は消えて、怪物はもとの醜い姿に戻りました。
 おそらく二度と、人間の姿に戻ることはできません。
 それは怪物が、もう決して、お姫さまに会えないこと意味していました。
「約束は果たしました。お乗りください、ものの数分でお姫さまのところへお連れいたします」
 王子は、薄気味悪そうな目で、怪物の手の中にある、どくどくと息づく「心臓」を見つめていました。
「そしてお約束くださいませ。私のことは未来永劫、決してお姫さまに話してくださいますな」

         
                   





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