6

「あなたが日野原氏と山に登ったのは、七時少し過ぎでしたね」
 警察署の取調室。
 まともに歩けないほど緊張していた凛世だったが、それは入ってきた見慣れた顔をみて和らいだ。
 灰原靖男。
 御堂家の事情も凛世の体調もよく知っているのか、男は終始優しく、そして今も、丁寧な対応に徹してくれている。
「……それくらいだったと思います、ずっと時計を見ていたわけじゃないですけど」
「彼が、山頂を見てみたいといった、だからあなたが案内した」
「はい」
「おおよそでかまいません、山頂で日野原氏と別れたのは、何時頃だったでしょうか」
「……はっきりとは……」
 凛世は身体を震わせる。
 朋哉が山頂に現れ、クルスのペンダントを渡してくれたことは、凛世は頑なに口をつぐんで黙っている。同時に、朋哉が決して言わないであろうことも知っている。
「……八時には、なっていなかったと思います」
「それでも、随分長い時間ですね。何をお話されていたんですか」
 凛世が黙ってうつむくと、灰原はかすかに嘆息した。
「悠木朋哉が、外出先から戻ったのが八時過ぎ、それは屋敷の監視カメラで確認できています。あなたを探すために屋敷を出たのが八時十五分頃、それは笠原まさ代さんが証言している」
 本当は、佳貴と別れた時刻を、凛世はよく記憶している。八時十五分。奇しくも朋哉が屋敷を出たのと同時刻だ。
「一方、日野原佳貴の死亡推定時刻は八時三十分から五十分の間。……悠木は、あなたを捜すために山に登る最中、下山途中の日野原氏と行きあったと言っている。日野原氏が下山したのが八時だとすると、時間的には辻褄があいますね」
「…………」
「それで、間違いないですね」
 どう隠しても、結局は朋哉の犯行として結論づけられるのだろう。
 凛世はただ、黙って薄汚れた事務机を見つめ続ける。
 二度目に、朋哉が戻ってきた時。
 朋哉の衣服は明らかに泥で汚れ、頬には擦り傷まで作っていた。そして、おそらく佳貴が拾いあげて持って行ったのだろう――理由は今でも判らないが――クルスのペンダントを、凛世に返してくれた。
 あの時の、朋哉の寂しげな笑い方が、今でも凛世には忘れらられない。
「……裏山で、日野原氏と何か、ありましたか」
 囁くような声で灰原。
「言いにくいですが、……生前の日野原氏に最後に会ったのはあなたなんです。悠木をのぞけば」
 凛世は目を閉じている。
 声は――届いていたのだろうか。あの夜、山頂で行われていたことを察した朋哉が、もし、私のために日野原佳貴に手をかけたのだとしたら。
「言ってもらえませんか、日野原氏とあの夜、一体何を話していたんです」
 灰原の声は、凛世の頑なな気持ちをほぐすように柔らかだった。
「もしかすると、それが、悠木の本当の動機なのかもしれない。悠木は櫻井殺しをその理由にあげていますが、……僕は、そうは思えない」
 それでも答えない凛世を、気の毒そうに見つめてから、灰原は微かな溜息をついた。
「もしかすると、あなたのお母様の失踪に掛る何かを……、日野原氏はつきとめたんじゃないですか」 
 ――お母様の……?。
 しばらく眉を寄せていた凛世は、はっと目が覚めたように顔を上げている。
 そういえば、そうだ。
 自分のことで頭がいっぱいで、考えも及ばなかったが、朋哉の動機は、本当に私だけだったのだろうか。
 ヒントをあげよう。
 凛世の耳に、ひらめくように、佳貴の言葉が蘇った。
 隠したい秘密がある、その秘密を暴きたい者と、人を殺してでも隠したい者がいる、驚くほど簡単な選り分けじゃないか。
 佳貴は、では、あの時すでに、殺人者の素顔を知っていたのだ。
 秘密を暴きたい者と。
 殺してでも隠したい者、それが朋哉だと……。
 待って、違う。
 凛世は自分に言いきかせて首を振る。佳貴は、朋哉を救えると言った。そのための魔法の言葉が手紙に書かれていると言った。人が怪物になったのか怪物が人になったのかで、物語の結末が分かれるとも。
 佳貴は――あれほど疑わしい朋哉が殺人者ではないと、そう言いたかったのではないだろうか。
「大丈夫ですか」
「ええ」
 眩暈をこらえ、凛世は両手で額を支えた。
 もし、殺人者がほかにいたとしたら?
 動機が、十八年前の秘密を守るためだったとしたら?
「日野原さんは……どういう状態で亡くなられていたんでしょうか」
 その質問には、少しためらってから、灰原は答えてくれた。
「……直接の死因は絞殺です。五センチ幅程度、布状のもので締めた痕が、首にはっきりと残っていました」
「…………」
「現場は泥濘んだ水たまりのような場所で、泥の中で争った跡が、悠木、日野原氏双方の衣服に残っていました。確定的だったのが、悠木が当夜身につけていたネクタイが泥の中から発見されたことでして……。現在照合中ですが、おそらく凶器に間違いないでしょう」
 灰原は言いにくそうに、咳払いをした。
「いずれにせよ、櫻井厚志殺しも含め、悠木は全面的に罪を認めています」
 深い絶望で、視界が一時、暗くなる。
 朋哉は本当に、人殺しの怪物だったのだろうか。
 怪物が人間に化けていただけだったのだろうか。
 口づけを交わした唇が、その数刻前、血に飢えた化け物に変じていたのだろうか……。
 でも。
 お幸せですか。
 あなたが、幸せなら、私にはそれで十分なのです。
 あの時の、澄んだ、儚げな朋哉の目――。
 違う。
 絶対に、違う。
 暗い闇の中にかすかに差し込んだ淡光を凛世は強い力で引き寄せた。
 たとえ、世界中の人が朋哉を殺人者だと決めつけても、私だけは朋哉を信じて守り続ける。
 佳貴を殺したのは、朋哉ではない。
 朋哉は――誰かを庇っているのだ。
 灰色の靄が、今、はじめて綺麗に晴れたような気がしていた。靄の向こうには最初は朋哉がいた。けれど今は、二人の人物が立っている。
そうだ、どうして最初から気づかなかったのだろう、
 相手は、たった二人。凛世をのぞけば世界に二人しかいなかったのだ。
 香澄か、伯父の潦太郎。
「肝心なのは、朋哉君の動機ですよ、凛世さん」
 嘆息まじりの、灰原の声がした。
「あなたが、朋哉君を救いたいと思っているのはよく知っています。僕の質問もそのためなんです、場合によっては情状酌量になる余地は十分ある。隠さずに、全てを話してもらえないでしょうか」
 凛世は黙って灰原を見上げる。
 この人なら、信じてもいいのかもしれない。
 判ってくれるかもしれない。
「実は、事件当夜、こんな言い方をするのはよくないですが、アリバイが在る者は誰もいないのです。あなたも含めて、御堂香澄さんも御堂遼太郎氏も」
 どうすればいいだろう。
「ネクタイなど、悠木君ならいつでも現場に置くことができたでしょう。悠木朋哉が、その中の誰かを庇っている可能性も、僕はあると思っています」
 凛世の内心と同じ言葉が、彷徨う思考に光を与える。
「朋哉に、会わせてもらえますか」
 凛世は、覚悟を決めて顔をあげた。
「そうしてもらえたら、私が知っていることは全部、灰原さんにお話します」

         7

 雨音が、しだいに激しくなっていく。
 朝は晴れていたのに……。
 凛世は不安な面持ちで、窓ひとつない薄暗い室内を見回した。
 目の前には、声だけを通すための穴が開いた透明な板。
 六畳もない狭い部屋には、ひどい臭気がたちこめていた。この薄い板の向こうに、沢山の被疑者が留置されているという。
 東京拘置所。
 三十分以上待たされた後に、ようやく朋哉が現れた。
 部屋を隔てる板の向こう、背後には、刑事らしき男二人が同行している。
 ――朋哉……
 別人のような姿に、凛世は、ただ、口元を押さえて目を震わせた。
 胸が詰まって言葉が何も出てこない。
 逮捕されて、今日で三日。
 褪せた萌黄色の衣服をきた朋哉は、頬のあたりが痩せ、顎には薄く無精髭が生えていた。
 凛世を観て、一時不思議そうな目をしたものの、ほとんど表情を変えないまま、無言で用意された席につく。
「……朋哉……」
 口に出した途端、涙が零れそうになった。
 あの夜のキスの熱が、まだ唇に残っている。でも今は、決して手の届かない場所に朋哉はいる――。
「ご迷惑を、おかけしました」
 わずかな沈黙の後、落ち着いた声が返ってきた。
「全て私がやったことです。あなたは、もう、ここへは来ない方がいい」
「…………」
「お帰りください、話すことは何もございません」
 凛世の背後には、背を向けるようにして、灰原刑事が同席している。
 朋哉の背後にも、見知らぬ刑事が控えている。会話は全て記録されるのだろう。
「大丈夫よ」
 凛世は、朋哉の目だけを見つめながら、言った。
 立ち上がりかけた朋哉が、足を停める。
「……私、わかったから」
 朋哉が、わずかに眉を寄せる。
「明日、薔薇の棺を開けるわ、私」
 表情は変わらない。しかし、片方しかない目に、はっきりと動揺が走ったのを、凛世は察した。
「出てきて……朋哉、本当のことを言って、そこから出てきて」
 感情に耐えかねて、凛世は立ち上がり、透明な板に手をあてた。
 朋哉の手が、その向こうに重なる。
「いけない……」
 声を出さずに、唇だけが苦悩に満ちて囁いた気がした。
「大丈夫……刑事さんに、傍にいてもらうつもりだから」
 朋哉がうつむいたまま、わずかに首を横に振る。
 強い否定をこめた眼差しが、一瞬鋭く凛世を捉える。
「大丈夫……私を、信じて」
 凛世は目を閉じ、重ねた手に熱をこめた。
「絶対に……朋哉は私が、助けるから」






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