第六章「君を守るためだけに」



     1

 
怪物は、一心不乱に駆け続けました。
 すでに身体中に毒矢を受け、刀傷からは絶えず血があふれています。
 お姫さま!
 彼の心には、もうそれしかありませんでした。
 お姫さまに会いたい。
 これが最後になってもかまわない。
 どうしても、会いたい。
 走りながら、彼は昔、彼自身がどうしてもわからなかったことの、その答えが、ほんのわずかだけど、わかったような気がしました。
 ああ、そうだ、そうだったんだ。

 その時、山から降りてきた騎士の一団が、怪物の前に立ちふさがりました。
「矢を放て!」
「射殺せ!」
 ざくざくと痛みが、身体を突き抜けていきます。
 咆哮をあげた怪物は、するどい牙をむき出しにして、騎士たちに踊りかかりました。
 陣形が乱れ、わーっと先頭集団が散り散りに逃げ出します。
「お姫さまが、逃げたぞ」
 そんな声が聞こえたのはその時でした。
 怪物ははじめて、この一団の中に、捕らえられたお姫さまがいたことに気がついたのです。
 白いひらひらとした衣装が、山奥の方に向かって消えていきます。
 怪物はあとを追いました。
 数人の騎士が、お姫さまに向かって矢をつがえているのがわかったからです。
 きっと、悪い継母の手先に違いありません。
 ここを出て、安全な場所までつれていかなければ、危険です。 
「きゃああっ」
 けれど、目の前に立ちふさがった怪物を見て、お姫さまは恐怖の声をあげました。
「私です」
 怪物は必死で訴えました。
「あなたを安全なところにお連れします、私の背に、お乗りください」
 けれど、お姫さまは、首を横に振り、憎しみのこもった目で、怪物を見上げるのでした。
「人食いの化け物、お前があの人を殺したのね」
 そうではないと言ったところで、どうして信じてもらえるでしょうか。
 怪物はすでに、人間に変化する術を失っているのです。
 お姫さまは、身をひるがえして逃げ出しました。
「お待ちください」
「こないで!」
 木の上から、一本の毒矢が放たれたのはその時でした。
 怪物を狙ったものだったのか、お姫さまを狙ったものだったのか。
 けれどそれは、まっすぐに、お姫さまの心臓を射抜いたのでした。
 怪物は、絶望と怒りの雄たけびを放ちました。
 お姫さまの亡骸をかき抱き、怪物は、山の頂目指して駆けはじめました。
 走りながら、ひとつしかない怪物の目から、涙がぽろぽろあふれました。
 なんということだ。
 どうすればいい、どうすれば、この方を生き返らせることができるのだ。
 月明かりの下、怪物ははた、と足を止めました。
 そうか、わかった。
 方法が、ひとつだけ、あるじゃないか。


       2

「こんな時間に、何をしておいでです」
 背後から、息を弾ませた声がした。
 凛世はかまわず、冷たい水の中に足を踏み入れる。
 誰の声も、聞きたくなかった。もう、誰も。
「凛世様」
「放っておいて、呼んでもいないのに、どうして来たの」
 振り返らずに凛世は叫んだ。
 朋哉。
 今は、その顔を見るほうが恐ろしい。
「お姿が、見えませんでしたので」
 感情のこもらない声が返ってくる。
 月明かりが眩しいほどだった。風が吹いて、クローバー畑が、ざわり、と生き物のような声をあげる。
 凛世は、水の中に脛の半ばまで歩を進めた。
 背後から、草と、泥濘を踏むしだく足音が近づいてくる。
「何をするおつもりなのです!」
「こっちに来ないで!」
 激しい口調で言って、初めて凛世は、朋哉を振り返った。
 外から帰ったばかりなのか、黒いスーツ姿。
 襟元で、半ば外しかけたネクタイが、風に強くあおられている。
 月光が、朋哉の背後で、妖しいほど白く輝いていた。
「凛世様……こちらへ」
 白々とした額から、汗が一筋、伝って頬に落ちる。
 よほど全速で駆けてきたのか、息は荒く、肩はまだ苦しげに上下していた。
「……来ないで」
 凛世は呟いて、一歩下がった。
 朋哉の前髪が乱れ、下からグロテクスな傷跡が垣間見えている。
 瞼の右斜め上から、ざっくりと裂かれた無残な傷。傷痕は、ケロイド状になって、潰れたままの瞼から、白眼がわずかに覗いていた。
 ――怪物……
 ぞっと鳥肌が立つのを感じ、凛世は背後の湖に後退した。
 もう、判らない。
 何を信じて、何を疑ったらいいのか。
「凛世様」
「来ないで!」
 強く叫ぶ。朋哉の足が止まり、表情に焦燥が浮かんだ。
「お怪我でもなさいましたか」
「ここは大丈夫よ。深い所で、膝までもないの」
「知っております」
「……落し物をしたの、日野原さんから誕生日にもらったペンダントよ、この辺りで落としたの」
「私が、明日探しましょう」
「誕生日にもらったの、命より大切なものなのよ」
 後ずさりながら、凛世は声を震わせた。
「誰にも触らせないって日野原さんと約束したの。来ないで、お願いだから放っておいて」
「………」
「……私に、近づかないで」
 朋哉に背を向けた凛世は、ざふざぶと、冷たい池の中に、膝まで足を踏み入れた。
 一人になりたい、今夜は。
 取り返しのつかないものを、永遠に失った今夜だけは。
「凛世様!」
「ここは、うちの敷地の中よ。人なんて入ってこないし、迷うこともないから、一人で帰れるわ!」
「それでも、夜は、危のうございます」
「……危ない?」
 再度振り返った凛世は、悔しさで言葉を詰まらせていた。
 何が、今更――。
 今更――何を確認したくて来たの?
「日野原さんに、言われて来たのね」
「……いえ」
 それでも、佳貴の名前を出した途端、朋哉の表情が、目に見えて沈んだのが判った。
 いったい佳貴は、朋哉になんと言って、ここへ迎えに寄越したのだろう。
「日野原さんなら、一人で屋敷に戻ったわ。彼らしいわ、登りの途中、帰りの道標を残しておいたんですって」
「お屋敷に帰りましょう」
「お姉様は?」
「お仕事のトラブルで、今夜は泊まりになるそうです」
 朋哉の声が、苛立っていた。
「とにかく、戻りましょう。あなたは昨日倒れられたばかりです。まさ代さんがひどく心配している」
「まだ判らないの」
 凛世は、冷ややかに、朋哉の声を遮った。
「……まだ、とは?」
「お前の顔なんて、見たくないと言っているのよ」
 眉をひそめた朋哉の眼差しが、わずかに翳った。
「そんなに心配なら、まさ代さんに迎えにこさせて。朋哉とは帰りたくないの、傍によらないで、二度と私に近寄らないで!」
 沈黙。
 そして、諦めを帯びたため息。
「……ご自由になさいませ」
 呟くような声の後、躊躇いを残した足音が、遠ざかる。
 再び戻った静けさの中、凛世は零れた涙をぬぐった。
 悔しい。
 苦しい。
 裏切られても、踏みにじられても。
 それでも、朋哉しか、凛世には見えない。
 こんなに、怖くて憎いのに。
 それでも、気配が消えた途端、朋哉が恋しくてたまらなくなっている――。

       3

 雲が流れてきて、月が灰色の夜空に溶けようとしている。
 輪郭が、藍に滲んでいく視界。
 凛世は、湖の畔に腰を下ろしたまま、ぼんやりと、煌めく湖面を見つめていた。
 失ったものは、多分、永遠に出てこない。
 今夜、無くしてしまったものと同じ様に。
 闇に沈んでいくような後悔と疲労、そんなものよりなお、惨めで虚しい気持ちの方が勝っている。
 両手で顔を覆って、凛世は泣いた。
 いっそ、永遠に、この場所から消えてしまいたい――二度と朋哉に会わなくてもいいように。
 静まり返った湖面には、クローバーの葉が無数に浮いている。
 不意に吹き抜けた風が、湖面に波紋を広げた時だった。
「戻りましょう」
 弾かれたように、凛世は振り返っていた。
「お探しのものは、これですか」
 月光を背に立つ朋哉の手に、鎖が絡まってゆれている。
 雫を帯びて輝いているクルス。
 立ち上った凛世は、言葉が何も繋げないまま、呆然とその場に立ち竦んでいた。
「……どこに、あったの」
 答えない朋哉の足元は、泥と水で重く濡れている。衣服は乱れ、開かれた襟には、ネクタイはなかった。
 陶磁のような頬に、かすめたような擦傷を見たとき、凛世はようやく理解した。
「……もしかして、日野原さんから、取り戻してくれたの」
 やはり何も言わず、朋哉はどこか寂しげに微笑した。
「鎖が切れています。私が、後で直しましょう」
 ――朋哉……。
 凛世の視界が、みるみるぼやけた。
「……どうして」
 でも、どうして。
 朋哉には、嘘を言ったはずなのに。失くしたのは、佳貴からもらったペンダントだと言ったのに。
「随分、大切にされていたようでしたから」
「……ごめんなさい」
 うつむいた凛世は、零れた涙を指でぬぐった。歩み寄ってきた朋哉の頬に出来た傷。姉のためではなく、私のために出来た傷。
 朋哉が――誰のためでもなく、私だけのために闘って出来た傷。
 新しい涙を手のひらで拭い、凛世は無理に作った笑顔で、朋哉を見上げた。
「返さなきゃ……」
「……返す、とは?」
 不思議そうに目をすがめる朋哉の前で、凛世は、クルスの側面からのぞく、針の先ほどの突起を押さえた。
 カチリ、と小さな音をたて、銀色の十字架が二つに開く。
 空洞になったその中から、褪せた錆色の、小さな銀の欠片がこぼれ出た。
 楔。
 私を守ってくれる楔、朋哉からもらった宝物。
 十二歳の時、首にかけてもらったそれを、凛世は片時も離したことがない。
 十字架の中に入れることを思いついたのは、そうすれば、誰にもあやしまれることなく、始終身につけていられるからだ。
「もう……お持ちではないのかと、思っていました」
 片方しかない朋哉の目が、湖の水面を映して揺れている。
「朋哉の……お母さんの形見だわ」
「あなた様に、差し上げたものでございます」
「ううん、もう……」
「………………」
「私には……」
 資格が。
 新しく零れた涙を、朋哉が指で払ってくれた。
「朋哉……」
 好き。
 大好き。
 互いの指先が触れて、そのまま絡む。長くて細い、けれど関節だけが無骨な指。
 少しためらってからかぶさってくる唇を、凛世は必死に受け止めた。
 触れ合う唇が冷えている。
 水と草の匂いがする口づけ。
 このキスに、何の意味があろうと、構わない。
 例え、意味さえなかったとしても。
 指と指をしっかり握り締めたまま、繰り返し繰り返し、唇を開いて求め合う。
「……朋哉……」
 唇を離した、朋哉の目が沈んでいる。
 無言のまま、頭を抱かれ、そのまま胸元に抱き寄せられた。
「……私と、一緒に……」
 凛世は、呟いて、その背に腕を回して抱きしめる。
 逃げて。
 どこか、遠くへ。
 二人だけで、生きていける場所へ。
 朋哉は何も言わず、ただ、髪を撫で続けてくれている。
 けれど、やがて身体を離した朋哉は、静かな眼差しで、手にした鎖を、凛世の手のひらにそっと預けた。
「このまま、お持ちになっていてくださいませ」
「……いいの?」
 朋哉の意を解しかね、凛世は、不安にかられてその顔を仰ぎ見る。
「……お幸せですか?」
 不思議なほど優しい声だった。
 その言葉にどう答えていいか、判らない。
「あなた様がお幸せなら、私には、それで十分なのです」
「………………」
「前も、申し上げました」
 ざわり、と密集したクローバーが、音を立てた気がした。
 陰を帯びた朋哉の微笑に、一時、絵本の怪物が重なった気がした。
「私は、そのためだけに生まれてきたのですから」
                  


 
怪物は、動かなくなったお姫さまの身体を横たえました。
 胸にささった矢を引き抜き、青白い死に顔を、ただじっと、見つめました。
「私の、心臓をあなたに」
 指を、残ったひとつきりの目にあてると、怪物はためらうことなくそれを抉り取りました。
 お姫さまの、停まってしまった小さな心臓に、怪物は、最後の力を捧げたのでした。
「おおっ、姫様がおられたぞ」
「生きていらっしゃる、息をしておられる」
「怪物め、ようやく息絶えたか」
「念のため、ここで首をはねてしまえ」
 赤く染まった視界の中で、けれど怪物は、とても幸福な気持ちでした。
 怪物は、自分が生まれてきた意味をようやく知ることができたのです。

 僕は――君を守るために生まれてきた。
 君を、守るためだけに。




>top  >next >back