4
「……薔薇の墓」
佳貴は呟き、かすかに嘆息してから立ち上がった。
「それは本当に、ここなんだね、凛世」
「……そうだと思うわ、というより私が思いつくのは、この場所しかないから」
凛世は言い差して、佳貴の影になっている部分を見た。
薔薇の墓標。
つい先日、朋哉に教えてもらったばかりの場所。
迷路のように入り組んだ薔薇園の袋小路に、ひっそりと目立たないよう重ねられた黒い御影石。
夜露でわずかに湿った石は、硬質の光を帯びて静かに佇んでいる。
「第二次世界大戦の時に、焼き払った薔薇の……墓、か」
周囲を見回した佳貴が、低く呟いて眉根を寄せる。
「確かに、いわくはありそうだね。偶然にしては出来すぎだし、薔薇の墓なんて、常人では思いつかないだろうし、ただ……」
それきり黙りこむ佳貴から、凛世はぎこちなく目を逸らしていた。
「お姉様に確認されたらいいと思うわ。もしかしたら、私より詳しくご存知かもしれないし」
「凛世は、どうして知っていたんだい」
「以前、教えてもらったことがあったから」
「誰に」
「伯父様だったと思うわ」
「へぇ……」
遠くを見たまま、佳貴は黙る。
凛世は、心臓の痛みを堪えるように、胸にかかったクルスを押さえ、そっと思いつめた吐息を漏らした。
嘘をついたという心苦しさより、見抜かれてしまう怖さの方が強かった。
自分が辿り着いた場所に、おそらく佳貴は、ほんのささいなきっかけさえあれば、簡単に行き着いてしまうだろう。
「薔薇の墓……か」
呟いた佳貴の唇に、あるかなきかの苦笑が浮かんだ。
「簡単すぎると思ったら、それが二重の暗号か。確かに少々やっかいそうだな」
暗い眼差しに微笑を浮かべ、ようやく佳貴は振り返った。
「ミスディレクト。暗号の解読を誤ったか、薔薇の墓には何か別の意味があるのか」
「……どういう意味?」
正門の明かりが灯る。
凛世ははっとして、目をすがめた。
伯父が戻ってきた。愛車のシーマが、緩やかに傾斜を超えて、門扉の中に入ってこようとしている。
「ミスディレクトとは、意図的に誤った方向に導くこと」
見つめられて、凛世は思わず視線を逸らす。
「例えば推理小説の作家が、読者を、誤った犯人に辿り着かせるための手法だよ」
「…………」
「ここは、薔薇の墓じゃない。薔薇の墓は別にあるんだ、多分」
佳貴は冷ややかに言い切ると、手元の腕時計に視線を走らせた。
「無理なら今夜でなくてもいいから、山頂のクローバー畑に、僕を連れて行ってくれないかな」
クローバー畑。
「どうして……?」
「どうして?」
佳貴は笑った。
「そこが僕たちのゴールだからさ。最後の手紙はその時に渡すよ、君が知っている秘密と引き換えにね」
5
初夏に花を咲かせたクローバーは、今は全て散って、枯れかけた緑の葉だけがさわさわと揺れている。
風が少し強かった。
凛世は髪を手で押さえ、灰色の雲が浮かぶ夜空に視線を向ける。
久々に坂を登ったので、額には汗が浮き出していた。
御堂家を有した山の頂は、屋敷の位置からみると、あたかも急勾配の丘陵のようだ。
裏口から続く野生の木が密生した欅道を抜け、二十分も入り組んだ勾配をあがると、ようやく頂上付近に出る。
山頂は、一面のクローバー畑。中央には湖がきらめき、白い長方形の祠が隣に建てられている。崖側の木々の陰には、本物の墓標が並んでいる。
何故この場所を最後の地に選んだのか――悠木家の墓だ。
「思ったとおりだ」
先に頂上に出た佳貴が、明るい声をあげた。
「ここが、怪物とお姫さまが出会った場所なんだろうね。小さいけど湖水もある、この水はどこに流れているんだろう」
中央にある水溜りまがいの小さな湖を指さし、佳樹は凛世を振り返る。
「川があるの、崖下に……そこに続いているわ」
「すごいな、まるで秘密基地にたどり着いた探偵の気分だ」
楽しそうに周囲を見回した佳貴は、湖の畔まで足を進めた。
「浅いけど、かなりぬかるんでいるの。服が汚れるわ」
「平気だよ、凛世もおいで」
仕方なく、佳貴の後について、湖の傍まで歩いていく。
「意外に浅いね、この水はどこから湧き出しているんだろう」
「……日野原さん」
「草に覆われているから判らなかったけど、随分勾配がきついんだね。雨でも降れば、ここは、相当水が溜まるんじゃないかな」
しゃがみこんだ佳貴は、湖を囲む丸い岩を動かし始める。
凛世は、再度、日野原の名前を読んだ。
「手紙は、もってきてくれているの」
「持っているよ」
「早く……戻らないと、伯父様が心配するわ」
「あの辺りの土が、随分と新しいね」
「そうかしら、夜だから判らないわ」
立ち上がった佳貴は、墓石のある方に歩いていく。
凛世は、月の明るいことを恨んだ。
「最近、整地でもしたのかな。一面に、草を引き抜いた跡があるね」
佳貴が、歩み寄ってくる。咄嗟に後ずさっていた。
互いの沈黙に、互いの秘密が隠されているような気がした。
「君に、薔薇の墓のことを教えたのは、朋哉君だね」
「さっき、私の枕元で、お姉様と話していたのは日野原さんね」
「何の話だろう」
「手紙の話なんて……嘘よ」
どうして、すぐに気づかなかったんだろう。
例え夢でも、朋哉が私を裏切ることなどあり得ない。
(聞き出しましょう、彼女の気持ちを利用すればいい)
あれは夢でも、朋哉の声でもない。
月光の下、自分を見つめる佳貴の目を見た時、凛世ははっきりと理解した。
あの声は――佳貴だ。
「最初から三枚目の手紙なんて、なかったんだわ」
佳貴の背後で輝く月光が、男の表情を覆い隠している。
「私が、薔薇の墓標を知っているかどうか、お姉様は、日野原さんを使って確かめようとしていたのよ」
「意味がわからないよ。どうしたんだい、いきなり」
「やっと判ったわ。お姉様が一度は本を見たいと仰っておきながら、あっさりと諦めた理由が。お姉様は、本の内容をご存知だったのよ、何らかの方法で――読まれたのよ」
後退しながら、凛世は続けた。
方法ならいくらでもある。
凛世はイギリスで、寄宿舎暮らしだった。部屋を決めたのは父親であり、実質、御堂家の管理下にいたも同然だった。
凛世の留守中、保護者の名を借りて、姉が中に入ったとしても――凛世に知らされることはなかったはずだ。
「日野原さんも最初から知っていたのよ。きっと、以前に読まれたことがあったんだわ。だから、あんなにあっさりと暗号を解いたんでしょう? 私の前で……私が、本当に秘密を知っているかどうか、確かめるために」
凛世は、言葉を切って、近づいてくる佳貴を見つめた。
「まわりくどい発想だね」
「なんのために? 暗号は解けても、肝心の薔薇の墓標が見つからなかったから?」
「…………」
「でも、これで判ったでしょう? 私だって知らないのよ。本は持っていても、暗号の意味なんて、考えたこともなかったわ」
くるぶしが冷たい水に浸かる。
凛世は足を止めて、佳貴を見上げた。
「……お姉様が、好きなの?」
「意味が判らないよ、凛世」
影になった顔、唇だけが笑っている。
「さっきから君は、いったい何を言っているのかな」
「こないで!」
身の危険を感じ、凛世は声を張り上げる。もう背後は湖だった。
「何故、<怪物とお姫さま>は、ラストの数ページが破られているんだろう」
「帰るわ、私」
「ページの下側が、擦り切れるほどに読み込んである。まるで何度も何度も、繰り返し開かれた教科書のように」
くるぶし深くまで、水に沈む。
泥に足をとられ、凛世は思わずよろめいていた。佳貴の腕が伸ばされる。
「ようやく僕には判ったよ。悠木朋哉の正体が、――彼は」
「離して、怪物はあなたよ!」
強い力で腕を掴まれる。凛世は悲鳴をあげていた。
「僕が?」
佳貴が笑う。
「君は頭がいいようだが、やはりまだまだ子供だね。何が本当で何が嘘か、君にはまるで見えていない」
「手を離さないと、人を呼ぶわ」
「ヒントをあげよう。秘密を暴きたい者と、人を殺してでも隠したい者がいる。驚くほど簡単な選り分けじゃないか」
秘密を暴きたい者と。
隠したい……者。
「暗号の秘密は二の次だよ。そんなものより、香澄さんにはもっと大切な目的がある。だから彼女は、凛世が持っている本が欲しかったのさ」
凛世は、抵抗するのをやめて、佳貴を見上げた。
どこか暗い、空洞を宿した笑顔を見つめた。
「……お姉様が、好きなの」
「そんな陳腐な言葉では語れない」
「…………」
「僕は、自分の人生に深く絶望している。生まれた時から周りには全てがあって、他者からの要求があり、それに応えた時だけ存在を認められる僕という存在があった。僕自身には、なんのアイデンティティーも価値もない……その意味がわかるかな、凛世」
凛世は首を横に振る。
「香澄さんと出遭った時、僕は自分の分身を見た気がした。以来、僕らはずっと、精神的な同志であり盟友だった」
「離して……」
腕をつかまれたまま、凛世は弱々しく身をよじらせる。それは、簡単に佳貴に抱きとめられる。
「彼女が僕より利口なのは、意に沿わぬ人生を自ら受け入れることで、自己の生き方にまで昇華させてしまったことだ。僕を縛るのは父が残そうとしている組織だが、彼女を縛るのは、古い因習と祖先の残した負の遺産だ。僕はあの人を……解き放ってあげたかった。できることなら」
月だけが見ている世界。
「君もまた、彼女を縛るツールのひとつだ。そして、僕の役目は、それを断ち切ることだと思っている」
佳貴の暗さに不吉な影を感じ、凛世は渾身で身をひるがえそうとした。
背後から抱きとめられる。もつれあって、湖の半ばで膝をつく。
「誰か……助けて!」
たとえ、この声が屋敷まで届いて、仮に――あり得ないことだけど、朋哉が駆けつけてくれたとしても。
屋敷から頂まで、朋哉の足をしても十五分以上はかかる。無論それ以前に、声など絶対に届かない。
草の濃い匂いがした。かろうじて佳貴を振り払った凛世は、半ば這うように、逃げ場を求めて湖に逃れた。
「君だって、僕を愛してはいない。僕は、隻眼の執事の代役じゃないか」
足をとられ、腕が半ばまで泥濘に沈む。
「いや……っ」
背後から抱き起こされ、もがいた凛世は、佳樹の手によってクルスの鎖が千切れたのを認め、悲鳴をあげた。
「朋哉が来るわ!」
凛世は叫んだ。
「彼は来ないよ」
「来るわ、私がいないことに気づいたら、絶対に来てくれるわ」
あの日のように――灰色の靄で隠されていた、八年前の夏のように。
「来るはずがない」
笑うような声が、耳元で返された。
「そもそも、君を一日も早く結婚させるよう、香澄さんに提言したのは彼なんだよ、凛世」
信じない。
そんなこと。
「彼にとっては、香澄さんが全てなんだ。君は……そう、邪魔者だよ」
「………………」
「だから同じく邪魔者の僕と、無理にでも早く結婚させようとしているんじゃないか」
「………………」
「彼は、香澄さんのためなら、悪魔にだって魂を売るような男なのさ」
凛世は、息をつめたまま、自分を見下ろす朋哉の目の冷たさを思い出していた。
わからない。
確かだったものが、もろく揺れ始めている。
夢で聞いた声は、本当に朋哉のものだったのだろうか――?
「君を、それなりに好きになりかけていたんだ……本当だよ」
佳貴の囁きは優しかった。
「互いに執着がない僕らは、結婚しても幸せになれる。それでいいじゃないか」
凛世の身体から、抵抗する力が抜けた。
「僕が、君を守るよ……」
月が、白く輝いている。
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