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「物語としては、まるで期待していなかったけど」
 先を歩く、佳貴の背中は楽しそうだった。
「なかなか読み応えがあったよ。怪物とお姫様、少なくとも、素人の作品じゃないね」
 薔薇園に、月の光が燦然と飛び散って、星屑のようにきらめいている。
 幾万とも知れぬ薔薇の花びら、花片を濡らす無数の夜露に、月光が映えているのだろう。
 闇にたちこめる、芳醇で高貴な香り。
「面白かったよ。最近読んだ伝承ものの類の中では、あれが一番面白かった」
「どう思ったの」
 凛世は、先ほどまで自分の部屋で――心を奪われたように何度も同じページをめくっていた佳貴の姿を思い出していた。
「どうとは?」
「すごく……楽しそうな目をしていたから、日野原さん」
 本を読んでいる時の佳貴の目。
 凛世が初めて見るような、幼い子供にも似た輝きがあった。
「だから面白かったんだ。謎解きという点だけではなく、色んな意味で」
 佳貴は笑って、植込みの影で足を止めて振り返った。
「絵に関してはプロの作品だね。ただし、文章はいただけない。少なくともプロの作家のものじゃないだろう。子供向けのものだか大人向けのものだか、ふり仮名もないし、時折、非常に難解な漢字が使われている」
「そう……ね」
 怒涛と言う字があったり、決心という字がひらがなだったり、どこかアンバランスだったのを、凛世も漠然と記憶している。
「おそらく素人が、絵本の文体を真似て書いたものじゃないかな。君は、身近な人の手によって書かれたものではないか、と言っていたね。確かにそうかもしれないが、僕は、もしかすると」
 言葉を切ると、佳貴は陶酔を帯びた眼差しを空に向けた。
「<怪物とお姫さま>は、女性へのプレゼントとして描かれた物語ではないかと思ったんだ。非常にロマンチックで……美しい。怪物の切ない恋情が伝わってくるようじゃないか」
「そんなものじゃないと思うわ」
 凛世は、暗い声で反論していた。
 どういう経緯で描かれたものかは知らない。が、この本は佳貴が言うような、綺麗な背景を持つ物語ではない。
「……ようやく判ったの。<怪物とお姫さま>は、御堂山の景色を、ただモデルにしただけの物語じゃなかったんだわ」
「とは?」
 凛世は黙る。村木登紀子のノートを見て、気がついたこと。
 目を食う怪物の正体。
 御堂山に伝わる伝承。
 <怪物とお姫さま>は、それらを暗に示しているのだ。――気づいてから、凛世は、むしろ、絵本を手に取るのも忌まわしくなった。
 一体、誰が、どんな思いをこめて、こんな手のこんだ美しい絵本に、残酷な真実を書き残したのだろうか。
「君はもしかしてこう言いたいのかな。民間伝承として史実をディフォルメして書かれた物語の、より真実に近い暴露をしたのが、この絵本だと」
 風が甘い、むせかえりそうなほどの香り。
 凛世は黙り続けていた。
 佳貴に本を見せてしまった後悔が、今更ながら押し寄せてくる。
「……美女と野獣を知っているかい」
「ディズニー映画の……?」
「そう」
 戸惑う凛世を尻目に、佳貴は軽い足取りで歩きだした。
 美女と野獣。
 野獣になった王子とお姫さまの物語。イギリスで、DVDを鑑賞した記憶がある。
 佳貴はかすかに笑って首だけを傾けた。
「美女と野獣は、もともとは、フランスの異種婚姻譚を描いた民話なんだよ。人間と、異種の動物が結ばれる物語」
 人間と、異種の生物。
「異種……婚姻譚」
 数日前に耳にしたばかりの聴きなれない言葉を、凛世は口に出して繰り返している。
「そう、異なる種同士が愛し合うことで、様々な事件や葛藤が起こる物語。たいていは、邪魔や妨害が入って、悲恋に終わるパターンが多いんだけどね」
 佳貴は、足を止めたまま、話を続けた。
「フランス民話やギリシア神話に、よくそういう伝承が見受けられる。呪いをかけられて怪物になった男、もしくは女が、人間と恋をする物語。かえるの王子様なら、凛世も知っているだろう」
 凛世は頷く。
 魔女の魔法で蛙になった王子が、お姫さまのキスで人間に戻る物語。
「あれは、ハッピーエンドだわ」
「そう、もともと異種のものの正体が人間だった場合、魔法が解けて人間に戻れば、そこで確かに大団円だ」
「民話の怪物は、じゃあ、もともとは人間の場合が多いの?」
「いや、むしろ逆が多いんだ。日本の民話や古典は特にそうだね。鶴の恩返し、浦島太郎……南総里見八犬伝は読んだことがあるかな? 鶴は野鳥だし、乙姫様は明治までは亀姫様だった、八犬伝の犬は、やはり獣だ」
 佳貴は言葉を切ると、暗い微笑を浮かべて凛世を見下ろした。
「全て結末はアンハッピー、異種のものと人間の恋は、結実しない」
「……………」
「朋哉君は」
 朋哉。
 不意に出てきた名前に、凛世はかすかに震えて、咄嗟に視線を下げている。
「もともと人間だったものが、魔法にかけられて怪物になってしまったのか。それとも怪物が人の姿に化けているのか」
 佳貴が何を揶揄しているか察し、凛世はさっと顔に血が上るのを感じた。
「おかしなことを言わないで!」
「どうして? 君がずっと心配しているのは、実はそのことなんだろう?」
 凛世の憤りを、佳貴は再び歩き出してやりすごす。
「前者であれば、魔法が解ければ大団円だ。後者なら、やがて、化けの皮が剥がれて悲劇的な結末が待っている」
「もうその話はよして、日野原さんが知りたいのは、もっと別のことでしょう」
 凛世を遮るように、佳貴は笑った。
「君はこう思ったんじゃないのかな? 御堂山の怪物は、悠木家そのものを指している。御堂山の姫は、御堂家の姫としか読みようがない。とすれば、姫を命がけで守る怪物は、悠木家しかないじゃないか」
「やめて……」
 耳を塞いでしまいたかった。
 子供の頃。
 怪物に朋哉を、お姫さまに自分をあてはめ、何度も夢想にふけっていた。
 物語に、そんな恐ろしい伝承が隠されているとは考えもせず。
「忌み嫌われた家系、君主の過ぎた寵愛も、憎まれた原因だったのかもしれない。ただし、<怪物とお姫様>は、悪意ある噂を、単に物語として書きとめただけとも思えない。何故なら、君も推測したとおり」
 二人の視界の前に、行き詰まりの袋小路が現れる。
「<怪物とお姫さま>は、御堂家か、もしくは悠木家の者が書いたとしか思えないからだ。屋敷の内情に深く精通した者が、その秘密を、暗喩の形で残したとみる方が的確だろう。でも、なんのために、いったい誰が」
 佳貴が、胸元から手帳を取り出す。
「櫻井さんだと思っていたわ」
「違うね、彼がそうだったら、とっくにこの謎は解けていたはずだ」


怪物の支えは、お姫さまがベッドの下の隠しておいてくれた、一枚の手紙でした。
 これで、いつでも私に会いに来てちょうだい。
 それは小さな壜につめられ、床とベッドの狭い隙間に押し込まれていました。
 急いで書き残したものでしょう、字は乱れ、何が書いてあるのかわかりませんでしたが、兄王子から話を聞いていた怪物には、それが、呪文なのだと理解できました。

 ボロナ ホコ
 メッツ ミナ ヘツゲ
 ホイナ オタ チェネ
 ノンジェ オエスル マナネ ソソグ
 ケンドン ナ タベロ
 ヘロク エシェ ワ マテイ 

 この呪文が、もしかすると、この山と城を自由に行き来できる魔法なのかもしれません。



 差し出された佳貴の手帳には、呪文の言葉が書き写されている。
 父の手紙を読んだ時から、凛世にも予想はついていた。
 山と城を自由に行き来できる魔法の呪文。
 この呪文が、おそらく、十八年前に起きた、失踪事件のからくりなのだ。
「君のお父さんに、本の存在を話したのは櫻井氏だ。つまり櫻井氏は、本があることは知っていたが、詳しい内容までは知らなかった。そういうことになるんじゃないかな」
 佳貴は、花壇の影にある、石畳の前で膝をつく。
「櫻井さんは、どうして本のことを知っていたのかしら」
「僕が思うに可能性は二つだ。君のお母様から聞かされたことがあるか、もしくは、彼の身近な人間が書いたものか」
 佳貴の手が、黒く平たい石柱を撫で、そして繁みの周辺を探っている。
「簡単な暗号だよ。櫻井氏にしろ、君のお父さんにしろ、知っていればおそらく解けた。君もそう思うだろう」
「……どうかしら……」
 部屋で、佳貴が眉をしかめていたのは、ほんの三十分足らずだった。
 アルファベットや数字を並べては組み替え、そんな作業を何度か繰り返してから、彼はおもむろに答えに辿り着いたようだった。
「私には、想像もできなかったわ」
「そうかな、アルファベットに置き換えるのは、暗号解読の基本だよ」
 ボロナ ホコ
 BORONA HOKO
「後は、そこに、なんらかの法則を探せばいい。共通した言葉を捜して、母音を組み替えてみる。意味のある言葉に置き換えてみるんだ」
 メッツ ミナ ヘツゲ
 METTU MINA HETUGE
「メッツは、数字を意味しているように思えた。とすれば、メッツは三つ、MITTU。ツだけが共通してそのとおりに読める。Uは、母音の丁度中央だ。あとはそのバターンをいくつかの単語にあてはめてみればいい。簡単に判ったよ、母音を逆に組みかえればいいんだ」
 A→O
 I→E
 U→U
 E→I
 O→A
 凛世は、佳貴の手帳を再度見た。
 そこには、彼が解き明かした呪文の言葉が書き綴られていた。

 BORONA HOKO
 BARANO HAKA
 薔薇の墓
 METTU MINA HETUGE
 MITTU MENO HITUGI
 三つ目の棺

 灰の跡地に
 なんじが愛するものに捧ぐ
 禁断の扉を開く鍵をもて



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