第五章「約束の楔」
1
お城は大騒ぎになりました。
結婚のために閉じ込められていたお姫さまが、塔を抜け出して消えてしまったのです。
シーツをつなぎあわせたロープで、高い塔から、命がけで脱出したのです。
次女たちは泣いて訴えました。
「姫さまは山の怪物に魅入られているのです」
「ずっと、山に住む男の人のことを言っておられましたが、あれは、怪物が変化した姿にちがいありません」
「きっと、怪物にさらわれてしまったのですわ」
意地悪な継母と義姉は、今度こそ、お姫さまを殺すチャンスだと思いました。
兄王子と父王は、いまだ遠い国にいます。
兄王子のいいつけで、お姫さまを他国に嫁がせることを決めたものの、継母と義姉は、美しいお姫さまが、内心憎くてたまらなかったのです。
ただちに討伐対が組まれ、山に押し寄せます。
その中には、命令をうけ、お姫さまを殺そうとする騎士たちもまじっていました。
怒涛のような騎馬や、騎士たちの足音が、ふもとの町にとどろきます。
松明がこうこうとたかれ、山は真昼のように明るくなります。
逃げ出したお姫さまは、幸いなことに、彼らより随分早く、山の頂にたどりついていたのでした。
「お前はどこ?」
「私はここよ、どこにいるの?」
お姫さまは、必死で怪物の姿を探します。
しかし、なんということでしょう。怪物は、一足ちがいで、すでにこの山を去っていたのです。
なぜなら、魔力をなくし、食事をすることもできなくなった怪物は、このままでは死を待つしかなかったからです。
お姫さまがふもとにいる山では、怪物は、どうしても食事をすることができなくなっていたのです。
山で何かがおきているのだ。
燃えるように明るい山に、旅のとちゅうの怪物は、不安にかられてふりかえりました。
戦だろうか。
とすれば、お姫さまは無事だろうか。
戻ろうか。
けれど、もう俺に戦えるだけの力はないぞ。
せっかく、闇にまぎれてここまで逃げてこられたのだ。
見つかってしまえば、殺されるだけじゃないか。
その時です。
まるで、幻聴のように、月の光が、歌声を運んできたのです。
それは、お姫さまの声でした。
山から聞こえてくる歌声でした。
怪物は、最後の力を振り絞って、元来た山に向かって駆け出しました。
俺はバカだな。
俺はもう助からないだろう、しかし、それでいいのだ。
「怪物だ」
「あらわれたぞ」
沢山の矢が、雨のように降り注ぎます。
牙をむき出し、目をらんらんと光らせて、怪物は馬を薙ぎ、兵を串刺しにし、ひたすら山の頂目指して走り続けたのでした。
2
「凛世は知っているのかしら」
「確かめた方がいいと思いますね」
「どうやって? こうみえて頑固な子よ」
「聞き出しましょう、彼女の気持ちを利用すればいい」
「あなたも、ひどい人ね」
「気がついた……?」
息を引くようにして、凛世は、はっと目を開けた。
ひどく嫌な夢を見ていた。怖くて――寂しくて、心ごと冷えていくような夢。
思い出すだけで、胸が引き裂かれそうになる。
姉と……そして朋哉が。
「大丈夫かい?」
最初に聞こえた確かな声が、凛世を現実に引き戻す。
手を握りしめ、心配そうに覗き込んでいる男の人
凛世は驚きのあまり、息が止まりそうになっていた。
「日野原……さん?」
日野原佳貴。
ネクタイのないシャツに、細身のパンツ姿。髪もさばけ、雰囲気もくだけていて、まるで大学生のようである。
ようやく、周囲の景色が凛世の中に入ってくる。ここは、御堂家の自室だ。いったい何時、自分は部屋に戻り、そしてベッドに入ったのだろう。
「起きられるかい」
身を起こそうとすると、背中に手が差し入れられた。
一瞬嫌悪したものの、すぐに警戒が解けてなくなるのは、心細さが先だっているせいかもしれない。
佳貴に背を抱かれまま、凛世は、不思議に懐かしい香りに身をゆだねた。
「私……どうして」
「夕べ、気を失って、倒れていたそうなんだ、薔薇園の中で」
凛世をそっと抱きしめながら、佳貴が耳元で囁いた。
夕べ。
凛世は、内心の驚きを隠し、窓の外に視線だけを向ける。
濃い夕闇、今は、じゃあ、翌日の夕暮れなのだろうか。
――朋哉は?
けれど、その疑問は、口には出せない。
記憶が夢の一部でなければ、最後にいたのは朋哉の部屋だったはずなのに。
凛世を両腕で抱き支えたまま、佳貴が、顔を近づけてきた。
「先日も倒れたばかりだと、香澄さんが心配していたよ」
――お姉様……。
凛世はふと眉を寄せる。
悲しい夢の中で聞いた声。
(どうやって? こうみえて頑固な子よ)
(聞き出しましょう、彼女の気持ちを利用すればいい)
あれは、――本当に夢だったのだろうか。
「もしかして、……さっきまで、お姉様がここにいらしたの?」
佳貴は、不思議そうに眉をあげる。
「いたよ。僕に、君の容態の説明をしてくれた。仕事があるからと出かけたのが……もう三十分も前かな」
佳貴の視線が、ちらり、と室内のテーブルに向けられる。
そこには、一人分のティーセットが並べられていた。
「執事の彼と出て行ったよ、今夜は遅くなるそうだ」
「……朋哉も、この部屋にいたの?」
凛世の問いに、佳貴はあきれたように肩をすくめてみせた。
「どうしてそんなことを?」
立ち上がり、佳貴はテーブルの上のカップを持ち上げる。
「……枕元で……お姉様と、朋哉の声を聞いたような気がしたから」
自分でも何を言っているのか判らなくなって、凛世は額に手を当てた。
あの声は――本当に夢だったのだろうか。
「やれやれ、君の夢にまで、僕は嫉妬しないといけないのかな」
佳貴は笑って、一人がけのソファに腰を下ろした。
「香澄さんの計らいで、階下で軽い食事をいただいてね。その間、朋哉君と香澄さんが、この部屋に二人でいたと思うよ。僕と入れ替わりで二人は出て行ったから」
「…………」
「彼は片時も、香澄さんの傍を離れないんだね。僕と彼女を、絶対に二人にさせないような、無言の圧力をひしひしと感じたよ」
それ以上聞くのが耐えられなくなり、凛世はただ、うつむいていた。
判らない。
どこまでが夢で、どこまでが現実だったのだろう。
「日野原さんは、……どうしてここに?」
男は目をすがめ、かすかに笑う。
「忘れたのかな。今日が、君の家にお邪魔する約束の日だったじゃないか」
それは、本当に忘れていた。
「ごめんなさい、私」
「いいさ。丁度、人嫌いの伯父様もでかけているという話だし、まぁ、見舞いがてら寄ってみようと思ってね。というより、僕のリミットはもう明日一日しかないじゃないか」
ああ、そうだ。
凛世はようやく、現実の時の流れを思い出す。佳貴は、週明けにはロサンゼルスの人になるのだ。
「………お茶を、入れ替えてくるわ」
凛世はベッドを降りて、立ち上がった。
「果物でも持ってくるわ、日野原さんはコーヒーでいいかしら」
「それは、何をしても本を見せたくないという、君の意思の表れだと思っていいのかい」
凛世は答えず、視線だけで佳貴の問いを拒絶した。
「何を恐れているんだい?」
「なにも……なにも恐れてなんかいないわ」
震える声で、呟いてうつむく。
「君はもう、何が本に書かれていて、それが何を意味しているのか、ほぼ理解しているんだろう?」
「…………」
「忘れたのかい? 僕は君の未来の夫だ。将来を見込んで、君のお父さんは、僕に秘密を託したんだよ」
肩を抱かれて、引き寄せられる。
凛世はあらがわず、ただ、身体を硬くしていた。
「僕は、自分の知的好奇心を満たしたいだけだ。そして、君のお父さんに掛けられた謎を解きたいと思っている。君が心配するようなことにはならないよ、多分」
凛世はうつむいたまま、考える。
この場合、どうすべきなのだろう。
佳貴を信じるべきなのだろうか、それとも――。
「手紙の続きを、読みたくはないのかな」
「…………」
読んだところで、そこに、何の救いがあるのだろうか。
「本は……探してみるわ」
凛世は、曖昧に言って、佳貴から身体を離そうとした。
「もう少し……、もう少し一人で……よく考えてみたいの」
「凛世の目的は、朋哉君だろう?」
肩を抱かれて、遮られる。行動よりも言葉に驚き、凛世は顔を上げていた。
「はっきり言ってもいいかな。君の切り札もまた、僕が持っている手紙の、その最後の一枚なんだよ、凛世」
「……どういうこと?」
意味が、判らない。
「君は香澄さんに勝ちたい、そして悠木朋哉を手にいれたい、結局はそういうことなんだろう? 違うのかい?」
「…………」
「僕が持っている手紙にはね」
「…………」
「君の望みが全てかなう、魔法の言葉が書かれているのさ」
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