11
御堂家の敷地内に、扇形のバラ園を繋ぎとめるように建てられている――悠木邸。
住む者がいなくなった館は、今は無人の廃墟である。
深夜二時。
今夜、姉の香澄は出張で戻らない。まさ代もさすがに寝入っている。
夜着にガウンだけを羽織り、懐中電灯を手に屋敷を抜け出した凛世は、むせるほどの薔薇の間を縫うようにして、子供の頃、よく遊んだ懐かしい館へ向かった。
扉に手をかける。無論、鍵がかかっている。
硬い感触を確かめてから、凛世は、手にした合鍵を、鍵穴に差し込んだ。
子供の頃、朋哉から預かった鍵である。換えられていたらそれまでだったが、扉は音をたて、軋みながら開いた。
悠木低。
暗い扉の向こうから、湿った黴の匂いがあふれ出す。
どこか、ひどく遠くから、ガシャン、ガシャンと、壊れかけたぜんまい仕掛けの人形が、無機質に歩いているような音がする。
それは、悠木邸壁面にある巨大な時計盤がたてる音で、館が無人になっても、時計だけは、過去とかわらぬ速度で、音を刻み続けているのだった。
何年も忘れられた虚無が、黴と埃と沈黙になって、館全体に潜んでいる。
――真っ暗だわ……。
凛世はそっと、後ろ手に扉を閉めた。
窓には、黒いカーテンがかかっている、そのせいか室内は暗黒で、足元さえおぼつかない。が、同時に、中の光が外に漏れることもないだろう。
背後で、扉が軋む音が響いた。
心臓が止まるほど驚いた凛世は、すぐに風のせいだと気づき、深く息を吐いて、気持ちを鎮める。
――急がなきゃ……。
懐中電灯をゆっくりと巡らし、凛世は、室内を見回した。
全ての家具に黒い布がかぶせてある。その上に埃が降り積もり、まるで雪が積もっているようだ。
今いる部屋は、元客間だ。ここが、かつて凛世の遊び場であり、悲しいときの避難場だった。朋哉がこっそり鍵を預けてくれていたから――いつでも入っていけたのだ。
凛世は、記憶を頼りに、そろそろと部屋の中央にあるはずの階段を探した。
記憶が確かなら、塔状の建物を中心から貫くように、狭くて急な螺旋階段があるはずなのだ。
手探りで、最初の位置をさぐり、凛世は二階に続く階段をあがった。
階段はすぐに壁に覆われ、まるで狭苦しい筒の中を、進んでいるような気持ちになる。
凛世が、螺旋を登って先に進んだのは一度だけ。
二階にある朋哉の死んだ母の寝室で、<怪物とお姫さま>の本を、見つけた時だけである。
やがて、筒の壁に、緑の扉が浮かび上がってくる。
おそるおそる扉を開くと、思いのほか、記憶のままの風景が目の前に広がった。
部屋の模様も、家具の配置も変わらない。アンティークな家具に黒い布は掛けられておらず、埃も綺麗に払われている。
朋哉の母親が亡くなった部屋。
朋哉にとっては、まるで神殿のように神聖な場所。
窓に光が直接当たらないように注意しながら、凛世は、そろりそろりと懐中電灯を巡らせる。
透明なビニールで覆われたベッド、本棚とクローゼット、鉄の格子で覆われた暖炉。
昔と、何ひとつ変わらない。
ある一点に光が当たった時、凛世は危うく声を上げそうになっていた。
すぐに、ああ――人形だ、と安堵する。
壁際の棚に沿って、朽ちかけた西洋人形がぎっしりと並んでいる。手のひらほどの大きさから、乳飲み子ほどの大きさまで、全部で百体はあるだろうか。
朋哉の話では、悠木家の女たちが、代々受け継がれる趣味として作り続けていた西洋人形。
無機質な瞳のひとつひとつが、じっと侵入者を凝視しているような怖さがある。子供の頃も心臓が止まるほど驚いたが、今はむしろ恐ろしくて悲しい。
主を亡くした部屋で、人形たちだけが――ひそやかに生き続けていたのかと思うと。
化粧台の上に、褪せた写真が飾られている。
死んだ朋哉の母、悠木三千代。
目元が、朋哉とよく似ている。切れ上がった黒い瞳は、瓜二つといってもいい。
ある意味、少し怖くなるほど。
くじけそうな気持ちを振り絞り、凛世は照明を戸棚に向けた。
小さな小瓶が、そこには無数に並んでいる。子供の頃のかすかな記憶に誤りはなかった。鍵がかかった扉の奥の、薬壜。
震える手で、凛世は懐中電灯の照準を戸棚の奥に向けた。
無数に並ぶ小さな壜。
全てにラベルが貼られ、細かな文字で内容が記されている。ただし、壜の中は殆どが空だ。
ルテイン、サポニン、タニソン、クロロフィル、ジギトキシン……
「何をしておいでです」
心臓が、止まるかと思った瞬間。
一瞬びくっと身体を震わせた凛世は、無様なほど怯えて、そのまま壁際に逃げていた。
「……お嬢様?」
「……とも、や……」
階段に立つシルエット。その影すら闇に溶け込み、気配しか感じられない。が、半開きになった扉の向こうに立つのは、紛れもなく朋哉だった。
薄暗い電灯が、黒い執事の姿を照らし出す。
闇に映える白磁の肌、水よりも澄んだ恐ろしい瞳、しなやかな肢体――まるで、夜を住処にする獣のような。
「鍵を閉めるところでした、気がついてよかった」
朋哉は、静かに言って室内に入ると、閉めきっていたカーテンを開け放った。
月明かりが、二人を照らす。
「どうして、こちらへ」
「……朋哉を、探して」
「私にご用でもございますか」
心臓が、まだ動悸を早めている。
言葉を詰まらせたまま、呼吸だけを繰り返す凛世に、朋哉は静かで冷ややかな目を向けた。
「私なら、ずっと自室におりましたが」
「………………」
「どうなさいました」
胸が、苦しい。
「朋哉は……どうして、こんな所に」
「私の家ですから、理由はありません」
冷たい表情は微動だにしない。
「……櫻井さんを、殺したの?」
「なんのお話です」
「登紀子さんを殺したのも、朋哉なの?」
不思議そうに眉をあげた朋哉が、わずかに微笑んだような気がした。
その冷笑に、凛世は背筋が凍りつくのを感じた。
「言って」
自分の声が震えている。
「本当のことを言って、朋哉」
「聞いて」
薄く笑ったまま、朋哉が一歩、前に踏み出してくる。
「聞いて、どうなさいます」
凛世は、自然に後退していた。
「どうして、そんなに、怯えておられるのですか」
また一歩。
同じだけ、凛世は下がる。
「……怖い、から」
「では、私などには近づかないことです」
「……朋哉が、……殺したの」
「誰に聞きました」
「……本当に、朋哉、なの」
殆ど息が触れるほどの距離。
凛世は崩れるように、朋哉の胸にすがり落ちた。
無言のまま、朋哉の腕が凛世を支える。
「……逃げて、朋哉」
「………………」
「私と、一緒に……」
それだけ言うのが精一杯だった。
怖い。
けれど、それ以上に愛している。
「凛世様、どこにおいでです」
外から、まさ代の声が聞こえる。
目ざとい女は、早くもこの珍事に感づいたに違いない。
「……早く……」
朋哉は何も言わない。
凛世は、今夜、朋哉の共犯者になる覚悟を決めたのだった。
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