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※
子供の頃、お婆ちゃんに聞いたことがある。
御堂の山には魔物が住んでいる。
悪いことをしたら、山から怪物が降りてきて、目を食べられてしまうよ、と。
そんなの嘘だ。
私が笑って言い返すと、お婆ちゃんは真顔で私をにらみつけた。
本当だよ。
昔は何人も、女が攫われては目を食われて殺されたんだよ。
だからごらん、目を奪われた女の恨みが、ああして残っているじゃないか。
その時は意味が判らなかったけど、最近になって判ったことがある。
お婆ちゃんは、多分、執事のおじちゃんが死んだことを言っていたのだ。
詳しい事情は知らないけど、車同士がぶつかった事故で、顔の左側半分がひどく潰れていたとのこと。
顔……偶然かもしれないけど、多分、目も潰れている。それも、きっと片方だけ。
お婆ちゃんが言っていた。悠木の家には、昔から片目だけの中途失明者が多いって。
そして、みんな若死にする。
それが、目を食われて死んだ女の恨みであり、呪いなのだ。
でも、どうして。
どうして、朋哉の家だけが、お山の呪いを被るのだろう。
「偶然だよ」
朋哉は笑って否定したけど、本当にただの偶然だろうか。
「父さんは事故だし、うちの家系の者が片目を失ったというのも、すごく昔の話だからね」
けれど、母に聞いたら、先々代の執事だった人も、剣道の稽古の最中に、やはり左目の視力を失ったそうなのだ。
私は怖くなった。
もしかしたら朋哉も、いつか、その綺麗な目を失うことになるのかもしれない。
私はずっと考えていた。
どうして朋哉の家だけが、そんな悲しい目にあうのだろうと。
※
それは、古ぼけた大学ノートだった。
整然と書かれていたのは、それだけで、後は、ボールぺンの殴り書きのメモが続く。
人喰い山の化け物屋敷
御堂山の魔物
御堂山の神隠し
↑山の噂を元に書かれた民話と思われる。
六月十日
郷土研究家のS先生に話を聞く。
民間伝承は、実際に起きた事件を元に書かれた可能性が高いとのこと。
天正の終わり頃、一年に一度、娘が攫われて、片方の目が欠けた遺体が発見されたという文献を、何年か前に見た記憶があるとのこと。
事件ではなく、人柱、なんらかの儀式の生贄になったのではないか。
六月十八日
S先生から電話。
文献は、今はどこにも残っていないとのこと。
当事の領主→御堂
悠木家が祭事の執行者→殺人の実行者→たたり?のろい?
あるいは近親婚の繰り返しによる異変→精神異常→快楽殺人
凛世の心臓が、激しく収縮して、息がとまる。
なんだろう、このメモは。
いったい、どういう意味だろう。
お婆ちゃんの日記より
戦中にも、山で行方不明になった娘が数名あり。
悠木一族が関与しているのではないかという疑惑で、特高警察の取調べを受けている。
10
震える手でノートを閉じた凛世は、背後に座る女を振り返った。動悸で、心臓が壊れそうになっている。息が上手く繋げない。胸苦しいまでの圧迫感。
聞きたいことは洪水のように溢れていたが、逆に、全てを問いただす勇気もないような気がした。
それでも、ひとつひとつ、疑問を明らかにしていかなければならない。
「……戦時中に……山で行方不明者が出たのいうのは、本当の話なんですか」
<御堂山の怪物><人喰い山の化け物屋敷>
伝承の由来は薄々予感していたし、登紀子のメモは、その予感を裏付けしてくれるものだった。実際に――山で行方不明者、あるいは死者が出ていたのだ。
が、伝承として残るほどだから、それはもっと、昔の話なのだと思っていた。
戦時中といえば、昭和に入ってからだ。それほど古い話でもない。
「噂です、お嬢様、そういう暗い噂は、あの時代いくらでもあったんですから」
慰めるような芳子の声が、すぐに返ってくる。
「言いにくい話ですが、先の大戦で、御堂の家は、アカの疑いをかけられていたそうなんです」
芳子の口調が、わずかに翳った。
「アカ……?」
「先々代のご当主が、お若い頃からアメリカ贔屓で……戦争反対など、そういった活動家を支援していたのが、よくなかったそうなんでございます」
西洋かぶれだった曽祖父の影響なのかもしれない。
凛世は、焼き払われたというバラ園の話を思い出す。
「古い言い方ではございますが、共産主義の……ソビエトのスパイを匿ったという疑いをかけられたでございます。……若い娘さんがお山で行方不明になったとか、それが御堂家に関係あるとか。そういった性質の悪い噂が広まったのも、お屋敷を捜索する名目を得るために、当事の兵隊さんたちが作為的に広めたんだろうと、うちのお婆ちゃんが申しておりました」
「だったら、どうして」
凛世は、村木登紀子の書いたノートに、再度目を落とした。
「どうして、そこに、御堂じゃなくて悠木の名前がでてくるんでしょうか」
「私は、お婆ちゃんから聞いただけなんですよ、本当に」
村木芳子は、困ったように嘆息した。
立ち上がり、少し冷えてきたせいなのか、開け放たれていた窓を閉める。
「こういった所で悠木の名前が出てくるのは……なんていいますか、昔からそうなんです。例えばこの辺りで、何か理解できない不思議なことが起こるといたしましょうか」
芳子の背中から、独り言でも言うような声がした。
「そうすると、まず、お山の悠木家が疑われていたそうなんです。戦前は特に」
「どうして、でしょう」
小さな背中に凛世は問う。
窓を閉め終えた芳子は、お茶を入れ替えて、再び席に戻ってきた。
「言いにくいんですけど、それは、悠木の家が、少し変わっているからではないでしょうか」
変わっている。
「……近親婚を、しているということですか」
「それも、あるとは思いますけど」
芳子は、わずかに眉をひそめた。
「悠木の家は元を正せば忍びの家なんでございましょう? ……武士とは頑なに差別された……いってみれば、蛇のように忌み嫌われた一族だということでございます。それが、領主のお気に入りだということで、ますます他の家臣からは疎まれたとか」
「…………」
「人間ではない、何か化け物のように虐げられていた時代もあったとか……ですから、御堂の山で何か恐ろしい事件が起こりますと、たいがいが、悠木家の仕業だろうと、まぁ、そういう時代が長かったそうなんでございます」
「悠木の家に……病気のようなものが伝わっているとか、そういったことも、やはり噂だったんでしょうか」
沈鬱な気持ちで、凛世は訊いた。
登紀子のノートに記された一文が、まだ心を重苦しく縛っている。
あるいは近親婚の繰り返しによる異変→精神異常→快楽殺人
「それは……言いにくいですけれど」
芳子の声のトーンが落ちた。
「噂がたったとしたら、やはり近親婚のせいではないかと思います。……実際、流産が多かったと聞いていますし、ほかにも……」
細い目が、曖昧にそらされる。
「なんといいますか、人間離れした美しい血筋のせいもあると思いますけれど、少し、近寄りがたいといいますか、まるで抜き身の刀のような、雰囲気が恐ろしい方が多うございましたから」
狩谷は、なんと言っていただろう。
(彼は、一種の……病気なのではないかというのが、当時の少年課の見解でした)
触れれば倒れそうなほど儚げな美貌の中に、毒を含んだするどい刃を隠し持っている、それが、凛世の知っている朋哉だ。言い換えれば、正常の中に、常に異常を抱きかかえているような。
「それから、娘が書き残しているように、途中失明が多かったり、短命であったり……そういうことも、色々な憶測のもとになっていたのでございましょう」
女は目をますます細め、柔和な、けれど取り繕った笑顔で、凛世を見上げた。
「ただ、全ては不幸な偶然でございますよ。失明にしろ、お亡くなりになった原因にしろ、ご病気ではなく事故が多いと聞いておりますし、そういったことは、ままあることなのでございましょう」
偶然だろうか、本当に。
朋哉もまた、左の目を失った。
それは事故だ。確かに偶然だ。
でも、本当にそれだけだったのだろうか……。
「村木さん」
凛世は、まだ何か言おうとしている女を遮って顔を上げた。
それが、不幸な偶然で、悪意に満ちた中傷であったとしても。
「あなたの娘さんが、……実際に、あのような死に方をされたことについては、どう思われましたか」
八年前、実際に一人の女性が、御堂山の麓で、片方の目をえぐられて殺されていたのである。
「もしかして」
「お嬢様」
今度は芳子がきっぱりと遮り、凛世を見上げて微笑した。
「偶然でございますよ。この地方に生まれついたものなら、誰でも思いつく悪戯です」
「…………」
偶然。
悪戯。
そうだろうか、本当に。
もしかすると、女は、そう思い込むことで、拳を上げることなく耐え続けているのかもしれない。
恨み続けることさえできない、空洞のような虚無を抱えて。
「……最後に、聞いても、いいですか」
退去の間際、凛世は、崩れそうな自分を堪えて村木芳子を見つめた。
「どうしてあのノートを、警察にお見せにならなかったんです」
事件当時――警察が、ノートの存在を知っていたら、おそらく。
どこか寂しげな笑顔を浮かべた女は、それでもきっぱりと即答した。
「娘が死んだのは、自業自得でございますから」
凛世は息をつき、目を眇めたまま女を見る。
「悠木の者には血も感情も通わない。ただ、御堂の家を守るためだけに存在している。……私が、身に染みて知っていたことが、あの子には判らなかったんでございますから」
眩暈がした。
それは、暗に、朋哉の行為を知った上で、全てを諦めているということではないだろうか。
「……失礼しました、長々と、すいませんでした」
「おかまいもしませんで」
絶望的な気持ちのまま、凛世は待たせていたタクシーに乗り込んだ。
登紀子のノート、その最後の一文が、凛世の胸に、黒雲のように澱んでいた。
八月二十一日 明日、ようやく朋哉と会う。
村木登紀子が殺されたのは、まさに翌日、八月二十二日のことである。
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