7

「本当にもう、登紀子もどんなに喜びますことか」
 何度も頭をさげる白髪混じりの中年女を、凛世はまるで記憶してはいなかった。
 凛世が四つの年まで、住み込みで屋敷にいたという。
 村山芳子。
 この女の一人娘が、八年前、陰惨な殺人事件の犠牲者になったのである。
「御堂のお嬢様が、まぁ、こんなにご立派に成長されて」
 手放しで喜ぶ女は、痩せぎすの身体を何度も折り曲げ、潤んだ目で、来訪した凛世を見上げた。
 こうまで手放しで喜ばれる心境もまた、凛世には理解できない。
 この女の娘が死んだ時、凛世には所詮、他人事だったのだ……。
「申し訳ありませんでした、今まで、一度もご挨拶にうかがいませんで」
 仏壇に手を合わせ、凛世は元使用人に向きなおった。
 季節はずれの風鈴が軒下にゆれている。
 錆びた娘向けの自転車が、納屋の外に停めてあった。
「うちはお姫さまが、おいでくださるような家ではございませんのに……」
 女の細い目にひそむ憧憬は、亡くなった娘を、凛世の中に見ているからなのかもしれない。
 御堂屋敷の山裾で、いくばくかの田畑を持つ家は、確かに、そう裕福そうではなかった。開け放たれた縁側から、涼しい秋の風が吹き込んでくる。
「死んだお婆ちゃんがここにいたら、きっと卒倒してしまいます。うちは、祖母の代から、ずっと御堂の家に仕えてまいりましたからねぇ」
 冷茶と、精一杯のもてなしなのか、菓子を載せた盆が目の前に並べられる。
 仏間の壁には、その祖母らしい老女の写真と、壮年の男、そして、寂しげな目をした一人の女の写真が飾られている。年は、今の凛世ほどだろう。
 家に住んでいるのは、目の前に座す女一人のようだった。
 凛世は一礼して、出された茶を一口飲んだ。
「もしかすると、とてもご不快なことを、お聞きするかもしれませんけど」
 来訪の意は、電話で告げてある。
 ええ、と女は、肩を落としたまま、頷いた。
「死んだ登紀子のことですね」
 村木登紀子。
 享年十九歳。
 生きていれば、姉の香澄と同じ年だったろう。
「……先日、娘さんの事件を担当したという刑事さんと、……お話する機会があって、その時、すごく気になることを言われたんです」
 凛世はためらいがちに、本題を切り出した。
 御堂山の伝承と、犠牲者の遺体に刻まれた特徴の意味。
 元々御堂家に住み込んでいた犠牲者の母親に話を聞くほか、凛世に思いつく手段はなかった。
 しかし御堂家は、見方によれば、事件隠ぺいを画策した首謀者のようなものである。
 村木家では、最終的に、「悠木朋哉と娘は無関係です」と、警察に訴え出たようだが、どのような事情からそんな真似をしたのか。あるいは父が、金銭か脅迫で強要したのではないか……。そう思うと、たまらない気持になる。
 が、迷いながら、罵倒されるのを覚悟で電話したところ、相手は怒るどころか、逆に恐縮する始末だった
「私がお屋敷に伺います」と言い張る村木芳子をなだめ、こうして凛世が村木宅を尋ねる仕儀となったのだ。
「……あの……娘さんの傷と、うちの山の伝説のことで」
 無言で頷く女の目は、相変わらず優しげに潤んでおり、そこに、何かの感情を読み取ることは難しかった。
「お亡くなりになっていた時、片方の目に……傷を負っていたと……そう聞いたんです」
 葛藤を吐き出すように、言って、凛世はそのままうつむいた。
「……そうですねぇ」
 何か、遠い日の思い出でも探るような目で、女はのんびりと頷いた。
「なんですか、捜査の方針だとかで、あのむごい傷のことは、人様にお話してはいけないと。そんなことをいちいち言われなくても、話したりはしませんのにねぇ」
 とつとつとした声だった。
「むごたらしすぎて……登紀子が可哀想でねぇ……」
 うつむいたまま、凛世は何も言えなかった。
 想像するだけで、胸が痛む。
 犯人も、その動機も、全てが謎のままに終わった事件。一度は捕らえられた未成年の容疑者は、かつての主家の関係者だった。遺族としては、やりきれなかったに違いない。
「で、お嬢様は、何がお聞きになりたいのですか」
 優しい声に促され、凛世は勇気を振り絞って顔を上げた。
「昔……といっても、すごく昔のことらしいんですけど、このあたりで、そういった……目に絡んだ伝説、とでもいうんでしょうか。そのような話を、お聞きになったことはありませんか」
(子供の頃うんざりするほど聞かされました。悪い子は目を食われる、山の怪物に目を食われる)
「すいません、こんなことを聞くのは……不謹慎だと、判っているんですけど」
「いえいえ」
「うちの屋敷がある山に絡んだ言伝えと、お嬢さんの事件が……似ているような気がしたものですから、それが、どうしても気になってしまって」
 視線を下げて、女は頷く。
 それから、曖昧な微笑になった。
「そう言えば、警察の方にも、随分訊かれましたねぇ。……お山の伝説がどうとか、怪物がどうとか」
 はっと凛世は息を飲み、女の顔を注視する。
「なにやら、わけのわからないお話でしたが、私どもにはさっぱり……そんな昔の言い伝えを持ち出されても、どうお答えしたらよいのか」
 凛世を見上げた、糸のように細い目は、何を聞かれても、お屋敷の不利になることは何ひとつ申しておりませんよ、と訴えているかのようだった。
「いずれにせよ、下々の者が適当に流した噂話の類でございましょう。お嬢様が心配なさるような話ではございませんよ」
 にっこりと笑うと、村木芳子はそのまま立ち上がろうとする。
「これは、ただの偶然だと思うんですけど」
 凛世は、迷いながら、芳子を遮るように言葉を繋いだ。
「うちの執事をしている、悠木朋哉をご存知ですか」
「ええ」
 女の表情に変化はない。
「彼も、二年ほど前、左目を事故で失ったんです。目の怪我なんて滅多にあることじゃないし、……なんだかそれが、因縁めいていて恐ろしいような気がして」
 無反応に頷く女の目は、その話を事前に知っているように静かだった。
「……悠木家には、なんていうのか、これは、私の憶測というか、思いこみなのかもしれないですけど」
 膝で握り締める自分の手のひらが汗ばんでいる。
 凛世は思い切って顔を上げた。
「……一族だけに伝わる、病気、ようなものがあるんでしょうか」

      8

 初めて村木芳子の細い眉が、ぴくりと動いた。
「はっきり言えば、今も警察は、うちの執事を、娘さんを殺した容疑者として疑っているんです」
 凛世は勇気を振りしぼるようにして一気に言った。
「御堂山は、昔から人喰いの山と呼ばれています。ある人が、怪物に片方の目を食われるという言い伝えがあると、私に教えてくれました。どうしてそんな不気味な伝承が生まれたか、何かご存じありませんか」
 忌まわしい伝承のとおり、片目を奪われる殺人事件が起きた。
 伯父が屋敷に残る文献その他を処分したのは、それらの中に――伝承と事件の繋がりを示す、何かの証拠が残っていたのではないだろうか。
「その理由を、私、知りたいんです」
 御堂山の伝承と朋哉を、何故、伯父が繋げたのか。
 父の手紙に記されていた、<悠木家に伝わる奇病>の意味を。
「……よく似ておいでですねぇ」
 不意に、村木芳子が呟いた。
 凛世は驚いて顔をあげる。
「なくなった奥様に瓜二つ。まるで、そこに奥様がおいでのようで、おそろしゅうございます」
「…………」
「不思議なご縁でございますねぇ」
 女の細い目が、縁側の外の空に向けられた。
 はじめて凛世は、ただ、柔和にしか見えなかった女の目に、無機質な怖さを見て取った。
 それは、狩谷と佳貴の中に、共通してあるものの一部のような気がした。
 何かを捨て去った後に残る、闇にも似た空洞。
「亡くなられた奥様も、随分悠木の先代にご執着でございました。私はねぇ、娘の時分には、相当奥様に嫌われたものですよ。なにしろ私は、先代の執事だった悠木さんに、それは夢中だったものですから」
 ほほ、と目以外の筋肉だけで女は笑った。
「……娘さんは」
 凛世は、言葉を詰まらせた。
 目の前の女に見透かされているようで怖くはあったが、狩谷の話が本当なら、村木芳子の娘と朋哉は。
「登紀子は朋哉が好きでねぇ。娘心と思ってお許しくださいませ、それはそれは、夢に見るほど恋していたのでございますから」
「おつきあい、されていたんですか」
「さぁねぇ」
 女は曖昧に微笑して首を振った。
「……それが、朋哉のためになると思ったんでしょうねぇ。あの子が、色々……死んだお婆ちゃんに聞いて、色々ねぇ、お屋敷のことを調べていたのは事実です」
「朋哉の、ためですか」
「あまりお屋敷のことに首をつっこむもんじゃない、と、私が叱ると、本気で怒って言い返してくるんですよ。私は、あの家から朋哉を自由にしてあげたいんだと」
「……………」
 朋哉を、自由に。
 胸を衝かれ、凛世は黙る。
 死んだ女の思いの深さが伝わってくるような言葉だった。
「私には、意味が判りませんでしたけどねぇ……思春期とはそういうものかと、それくらいにしか思っていなかったんですけどねぇ」
「お嬢さんは、何を調べていたんですか」
「今、お嬢様がお聞きになったのと、同じお話だと思いますよ」
 女は、やはり、曖昧に微笑して立ち上がった。
「私が説明するより、娘が書き残したメモがあるので、それをごらんになってください。もちろん、警察の方には一切お見せしていません」






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