5

「驚きました、私に、お電話いただけるとは」
 微笑して対面の席につく男は、やはり刑事ではなく、大学教授にしか見えなかった。
 濃いカーキ色の背広、ネクタイよりは、アスコットタイが似合いそうな男。
「実は今夜にでも、ご自宅に謝罪に出向こうと思っていたんですよ。電話でも申し上げましたが、先日は、狩谷が大変失礼いたしまして」
 灰原靖男。
 差し出された簡単な名刺に、社名役職の類は一切記載されていなかったが、凛世はようやく、男の名前をフルネームで知ることができた。
 狩谷の相棒で、以前、共に御堂家を訪れた男である。
 小柄で、人当たりのよさそうな柔らかい物腰。眉毛が長いのが、一昔前の総理大臣のようで、どこかチャーミングである。
 年は、五十歳をとうに越えているだろう。
「コーヒー、お嬢さんにはケーキをつけて」
 馴染みの店なのか、気楽に頼むと、灰原は微笑して、殆ど同じ目線から凛世を見た。
「で、私に聞きたい話とは、なんですかな」
 柔らかいが相手の真意を探るような目は、やはり刑事だ。
 狩谷登志彦のパートナー。
 凛世にとって敵ともいえる男に、今日、こうして霞ヶ関で会う約束を取り付けたのは、一点だけ、どうしても確認しておきたいことがあったからだ。
 運ばれてきたコーヒーに視線を落としながら、凛世は注意深く口を開いた。
「以前、灰原さんがうちに来られた時、伯父が言っていましたよね、以前、お世話になったことがあると」
「ああ」
 と、即座に笑んで、灰原が頷く。
「さしつかえなければ、その……伯父との縁をお聞きしてもいいでしょうか」
 もしかすると、灰原は、母の失踪事件を担当した刑事だったのかもしれない。
 伯父や朋哉が話してくれない何かを、灰原なら知っているのかもしれない。
 が、初老の紳士は、意外そうに眉をあげると、深刻さの素振りも見せず、頭の後ろに手をあてた。
「あれ? ご存知なかったですか。確かに、女の子には物騒な話ですからなぁ」
 邪気のなさそうな目で笑う。目を細めると、男は意外なほど若く見えた。
「僕は、所轄署時代、随分長い間、窃盗畑におりましてね。もう……かれこれ、二十年以上前になりますかなぁ。おたくの家に空き巣が入った話はご存じではないですかな? その時の担当が私だったんですよ」
 猫のような声だと、凛世は頷きながら思っていた。
 ひどく掠れたしゃがれ声なのに、流暢でなめらかでよどみがない。
「おたくの伯父様とは、それがご縁で懇意になったんです。仕事を離れた趣味の面で、妙に意気投合しましてね。最も、絵葉書を交換する程度のおつきあいは、二年足らずで終わりましたが」
「……そうだったんですか」
 違った……。
 相槌を打ちながら、凛世は、深い落胆を感じている。
 佳貴の申し出を、最後の一点で凛世は信じることができなかった。
 彼に本を渡してしまうことに、一抹の不安が拭いきれない。佳貴は、香澄の味方ではないのかもしれない。けれど、朋哉の味方でもないのだ。
(――この本のことは、誰にも申されてはなりませんよ)
 <怪物とお姫さま>は、イギリスから持ち帰った荷の中にある。梱包を解かないまま、鍵のかかった箱に収めてある。
 安易な決断をする前に、凛世はできうる限り、自分の足で事実をつきとめてみるつもりだった。事実というより、朋哉を縛る見えない鎖の正体を。
「同じ家の事件の担当になるなど、滅多にないことでしてねぇ。つくづく御堂さんとは、縁を感じましたよ」
 仕事を離れたつもりなのか、懐かしげに目を細める灰原は楽しそうだった。
「御堂邸の空き巣事件のことならよく覚えていますよ。何しろ、地元では有名な御堂屋敷だ。犯人がどうやってあの山城に潜入したか、当事の担当全員で、首をひねった記憶がありますから」
「じゃあ……犯人は」
 つい、つられて聞いていた。
「はは、怠慢なようですが、見つかりませんでした。空き巣はねぇ、現行犯でなければ、別件で捕まえて吐かせるしかない。プロともなると、なかなか証拠を残しませんからなぁ」
「……当時、御堂の屋敷の中も、お調べになったんでしょうか」
 ふと気づいて、凛世は訊いた。その時に、何か出てきたということはないだろうか。
「ええ、それはね」
 頷いて、灰原。
「ただ、御堂家の皆さんには……随分協力を渋られた記憶がありますなぁ。警察に被害届を出されたのは先代のご当主でしたが、伯父さんと奥様が猛反対されたそうでね。まぁ、いわれのありそうなお屋敷ですから、警官などに踏み入れられるのは、我慢ならなかったんでしょう」
 灰原はコーヒーに口をつける。それから、何かを思い出すような目になった。
「賊にしても、随分周到に用意していたんじゃないかと思いますね。当時、派手に仕事をしていた窃盗団がいくつかありまして……。捕まえた連中から聞き込んだ話だと、その筋の人間には“御堂屋敷”は、ある種のステイタスであったそうなんです」
「ステイタス、ですか」
「昔から言い伝えのある、難攻不落の城という意味ですよ。監獄でいえばアルカトラズ、少し例えがクラッシックですが」
「いえ……わかりやすいです」
「御堂屋敷があの山にできたのが、明治の中ごろと聞いています。が、もともと山は、地元では御堂山と呼ばれていた。当事も色々調べたのですが、戦国初期から末期にかけて、あのあたり一帯は、御堂という屋号が領主として支配していたそうですな」
「私は、あまり……詳しくは知らないんですけど」
 曖昧に逃げながら、その実凛世はここに来る前、郷土資料館、図書館などを回って当時の新聞記事、御堂山の伝承などを調べている。
 御堂山の伝承については、何一つ――本当に何一つ、探し出すことは出来なかった。
 郷土資料館の館長まで訪ねたが「以前は確かにあったように記憶しておりますが、何年か前、御堂のお屋敷の方が、ご事情があって引き上げられたとお聞きしております」とのことであった。
 伯父だろう。
 いったい、こうまでして、伯父が隠したかった伝承とは、何だったのだろう。
 <人喰い山の化け物屋敷>
(――御堂山には、人を食う怪物がいる。迷い込んだら、片方の目を食べられる。そんな不気味な伝説を、聞いたことはありませんか)
 狩谷の言葉。
「いくら思い出の地とはいえ、人里離れた山中に……わざわざ、あのような屋敷を建てられたのは、いったいどういう理由だったのですかなぁ」
 当事の疑問を思い出したのか、灰原は不思議そうに目をすがめる。
「まるで、下界の一切を遮断して、何かを守っているかのような……そんな印象を受けたのをよく覚えていますよ。まぁ、言ってみれば現代の御伽噺ですな、御堂屋敷そのものが」
 何かを、守る。
 何をだろう。
 宿命のような使命は、御堂ではなく、むしろ悠木家に強く感じる。
 彼らは下界との交わりを一切絶ち、ひたすら主家に仕え、御堂山から一歩も出ることなく、その短い生涯をまっとうするからだ。
 目に懐かしげな笑みを浮かべたまま、灰原は凛世を見据えた。
「狩谷に何か、言われましたかな」
 言葉に詰まり、凛世は思わずうつむいている。
「あまり、狩谷の言うことを真に受けない方がいい。言ってみれば、我々は相手から情報を聞き出すプロです。そのためなら、多少の嘘は平気でつく」
 軽く息を吐き、灰原は初めて、わずかに憂鬱そうな目になった。
「狩谷はね、休暇中です。簡単に言えば謹慎というやつですが」
 謹慎――。
 驚きと同時に、凛世の中に、姉の相貌がよぎるように掠めた。
「お嬢さんの大学に押し掛けるなど……やりすぎたんです。もともと素行に問題ありと、公安から目をつけられていた。捜査に私見を挟みすぎる、気の毒な奴ですが」
「狩谷さんは、朋哉を犯人だと……」
 ためらいながら口を挟む。灰原は、眉を寄せたまま頷いた。
「確信していますな。それはもう、妄執ともいえる。誰が何を言っても、耳をかそうとしない」
 むしろ、狩谷を非難するような口ぶりに、凛世は内心驚いていた。
「八年前の事件で、朋哉の逮捕は、もう時間の問題だと言われました」
「狩谷一人が思いこんでいることですよ。新たな証拠もないのに、どうして逮捕などできますか」
「…………」
 では――嘘だったのだろうか。全ては、姉の言うところの狩谷のブラフだったのか。
 凛世は眉をひそめたまま押し黙り、灰原は、憂鬱気なため息を吐いた。
「私も、この仕事を長くやってきたから判りますが、自分の勘でたどり着いたホシというのは、なかなか捨てきれないものなんです」
 冷めたコーヒーを、狩谷は苦そうに一口飲んだ。
「刑事とは因果な仕事でね。いつしか犯人を追うことが、自分の人生そのものになる。狩谷は、ずっと悠木朋哉を追い続けてきました。刑事になって初めて手掛けた殺人事件で長蛇を逸した悔いが、どうしても捨てきれんのでしょう。……なんというのかなぁ、刑事でありつづける意味のようなものを、悠木の事件に重ね合わせているのかもしれません」
 凛世は、狩谷の暗い目を思い出していた。暗い、空洞のような眼差し。
 何を信じたらいいのだろう――凛世はまた、判らなくなる。けれど、狩谷が故意に凛世を追い詰め、何かを聞きだそうとしたのだけは間違いないような気がした。
 窓の外は、灰色の曇天。今にも雨が降り出しそうな天気である。
「狩谷が刑事になりたての頃、面倒をみてやったのは私でね。なんの因果か、今もまた、狩谷の暴走を止めるためのお目付け役を仰せつかっている。……まぁ、これも、縁なのでしょうがね」
 灰原の言葉が、凛世の胸に沁みていく。
 言葉を切り、灰原は、そろそろいいですかな、とでも言いたげな目で凛世を見た。 
「櫻井厚志殺しの件では、狩谷は担当から外れましたよ。二度と、お嬢さん方にお目にかかることはないと思います」
 殺し。
 その言葉が、曖昧な感傷を彷徨っていた凛世を、はっと我に返させた。
「その方は、……やはり殺されたんでしょうか」

        6

 立ちあがりかけた灰原が、表情を止める。
 櫻井厚志。
 凛世にとっては、間違いなく、血をわけた本当の父親。
「少なくとも、中毒死……であることは、間違いないでしょうな」
 わずかに考えてから、椅子に座りなおした灰原は、ゆっくりと答えた。
「こればかりは、狩谷の執念が生んだお手柄といってもいいのかもしれません。飲み残しの酒壜から、少量のジキトキシンが検出されましてね。強心作用のある薬物で、多量に摂取すると死に至ります。ただし、それは、櫻井自身が調合した可能性もある」
 ジキトシン。
 凛世は初めて聴く単語を、胸のうちで反芻した。
 何かの記憶が瞬時に蘇り、きらめくように消えていく。
「櫻井はね、合法ドラッグのプロダクターだったんですよ」
 灰原の口調は穏やかだった。
「インターネットを通じて、精神高揚剤などを闇取引していたようなんです。病院を通じて入手したものもあれば、自分で合成していたオリジナルもあったようでね。まだ確定ではありませんが、毒薬なども、インターネットで横流ししていたた可能性もある」
「彼が……自分で毒薬を作っていたということですか」
「そうです、野草などから調合してね。しかし、元画家が……そういう技術を、どこで身につけていたんですかなぁ」
 野草などから調合してね。
 凛世は顔を強張らせていた。
 悠木の家の者なら、それは子供の頃から身につけている。門外不出の手法によって。
「本来なら、このようなことを申し上げるのは問題なのですが」
 黙りこんだ凛世を慰めるように、灰原は労りを帯びた声で続けた。
「ご存知かと思いますが、悠木君が月々櫻井に渡していたのは、さほど多額のお金ではなかったんです。しかも、出所は間違いなく御堂家であって、彼個人ではない。殺すほど追い詰められていたかといえば、正直、疑問もありましてね」
 言葉を切り、灰原はわずかに迷うような眼になった。
「二年前、御堂の家に侵入したのは櫻井です。それは申し訳ないが、間違いない。ただ……悠木君の目を傷つけたのが……本当に櫻井だったのか、そうなると、疑義の残る余地はある」
「……朋哉が、抵抗しなかったから、ですか」
「まぁ、そうです」
 朋哉は抵抗しなかった。腕に抵抗傷を受けることなく、人間が最初に庇うはずの目に、深い傷を負った。
 凛世の胸に、閃くように、一人の女の顔が浮かんだ。
 まさか、でも。
 けれど、姉以外に、朋哉が庇おうとする者が、この世界にいるだろうか。
 姉が、朋哉の目を切り裂いて、その現場を、櫻井厚志に目撃されていたとしたら……?
 理由は判らないし、想像だにできない――が、これで全て辻褄が合うのではないだろうか。
 その後、金銭的な援助を続けていた理由も含めて全て。
 凛世の出生のことだけではなく、次期当主のスキャンダルを、そういう形で握られていたとしたら。
 ――でも……
 凛世は考える。
 確かに事業家としては致命的な醜聞ではある。が、当の朋哉は例え死んでも、その事実を認めたりはしないだろう。とすれば、間違っても刑事訴追には至らないはずだ。
 痴情の果てに、仮に恋人の目に怪我を負わせ、それを目撃されていたとしても――どうだろう、あの頭のいい香澄が、殺人の危険までおかすだろうか。
 香澄には動機がない。
 凛世が、出生のことで――いくらショックであっても、それだけで秘密を知る櫻井を殺す気にはなれないように、香澄も、それだけで殺意を抱くには弱すぎる。
 が、もし朋哉が。
 凛世は、朋哉の虚無の目を思い出す。狩谷とも佳貴とも違う。自我を全て捨て去った、純粋なまでに透明な眼差し。
 もし――朋哉が。
 香澄と凛世を、醜聞から永遠に守るために、過剰な行動に出ていたとしたら。
 第三者では、凛世にしか理解できない、朋哉の中の暗い深淵。
 それを――姉も知っていて、朋哉の忠誠心を利用していたとしたら。
 激しい動悸で、胸が潰れそうになっていた。どうしたら、いったいどうしたら、自分は朋哉を救えるのだろう。
「今、櫻井が売りさばいた薬物の中に、今回検出された毒物と同様のものがあるか否か、鋭意捜査中です。結果によっては、自殺という認定になるかもしれない。あまり、ご心配なさらないほうがいい」
 灰原の慰めを聞きながら、凛世の頭は、まるで別のことを考えていた。
 御堂山の頂。
 あそこには、朋哉が植えた薬草が沢山ある。
 もし、踏み込まれたら――朋哉に薬物を調合する技術があると知られたら、間違いなく、それで終わりだ。
「どうしました、顔色が」
「いいえ」
 立ち上がった途端、軽い立ち眩みがした。
「私、そろそろ失礼します」
「狩谷に、注意してください」
 背後から、灰原の声がした。
「捜査を外されたことで、狩谷は自棄になっている。我々も監視を強めますが、十分に警戒するよう、お姉さまにお伝えください」







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