3

 私の、見えない目撃者との戦いがはじまった。
 天罰というのは君、本当にあるものなんだね。
 あの騒動から一月も経たない内に、私の黒かった髪は半ば灰色に変じ、どうしたわけか目色まで、くすんだように色褪せてしまった。
 あれだけ社交的だった私が、すっかり人嫌いになり、ひたすら他人との接触を避け、家に閉じこもるだけの変人になってしまったのだ。
 だって、考えてもみたまえ、当夜、私の信頼する友人全てが御堂屋敷に集まっていたのだよ。
 言ってみれば全員が、目撃者足り得たわけなのだ。
 友人がいつ脅迫者に変じるかもしれない恐怖。何をしても、どれだけ仕事で成功しても、あの夜から一度も――私の気持ちが休まる日はなかったといっていい。
 無論、最初に疑ったのは朋哉だ。
 なにしろ、八歳とはいえ、御堂山の頂に登れるのは朋哉だけだからね。妻の遺体を運ぶのは無理でも、共犯者として先導していた可能性はある。
 が、朋哉にはほとんど完璧といえるアリバイがあった。
 朋哉は当夜、台所の手伝いに出ていたんだ。
 私が、妻がいないと騒ぎ出したのが十一時少し前。それまではずっと、メイドらの傍にいて、台所仕事の手伝いをしていたらしい。
 無論、メイドにしても入れ替わり立ち代りだから、ずっと目撃されていたわけではない。私自身が、当夜詰めていたメイドから詳細な情報を集めてみたが、姿が見えなくなった時間があっても、せいぜい十五分か二十分たらず。
 頂に登って降りるのは、実際朋哉が登った速さを見ているからはっきり判るが、少なくとも四十五分から一時間は確実にかかる。
 それだけの時間、朋哉が台所を空けたはずはないと、メイドの誰もが口を揃えて証言するんだ。
 当夜の客人たちのアリバイも、もちろん、警察が詳細に調べあげた。
 南側からの屋敷への出入りは、山道の監視カメラが確実に捕えている。パーティ会場に最後まで残った者たちの中で――結論から言うと、それほど長く席をあけたものは、一人もいなかったのだ。
 家の者たちにしても、同様だった。
 いったん部屋にもどった香澄は、退屈したのか、すぐにパーティに戻り、来客にピアノなどを披露していたし、メイドたちは、台所を拠点に忙しく動き回っていたのだから、互いが互いの監視者だ。
 当夜、はっきりとしたアリバイがないのは、凛世の傍にいたまさ代くらいだが、まさ代にしても、凛世のミルクやら散歩やらで、邸内の到るところで目撃されている。
 しかも、まさ代は身長百五十センチ足らず、体重は四十キロもない。子供にも等しい身体で、果たして四十五キロはあった妻の遺体を運ぶことができたかどうか。
 はっきり言えば、誰であっても、わずか一時間足らずで、寝室から妻の遺体を運び出し、遺品を裏山に運び、そして何食わぬ顔で戻ってくるのは――不可能なのだ。
 それから、動機だ。
 裏山に落ちていたストールとネックレス。
 大げさでなく、遭難する危険をおかしてまで、わざわざ小細工をした動機は、なんだろう。結果から言えば、私のアリバイ工作を、誰かが、命がけでやってくれたに他ならないじゃないか。
 なにしろ、雪中に埋まっていた動かぬ証拠により、私は無罪放免されたに等しいのだから。
 となると、ますます屋敷の者の仕業とは思えなくなる。まさ代にしろ、他のメイドたちにしろ、彼らが絶対に、私を庇うはずがないからだ。
 彼らは異口同音に言うだろう。
 それはそれはひどいだんな様でした、奥様がおかわいそうでした、と。
 朋哉にしても同様で、あの生意気な執事の子倅は、まるで親の敵でも見るような目で私を見る。
 遼太郎義兄は、当夜私がずっと監視していたし、もちろん彼が私を庇うことなど、朋哉以上にありえない。
 では、誰かが共謀し、アリバイを作りあって、妻を愛人の元へ逃がしたのか。
 裏山のトリックは、私を庇うためではなく、妻を逃がすためのフェイクだったのか。
 それもまた、あり得ないというほかない。
 当夜の監視の厳しさは、何度も書いたね。屋敷の入り口から、南側の麓へ、誰にも見咎められずに降りるのは不可能なのだよ、日野原君。
 さらに言えば、妻が愛人の元へたどり着けなかったことは、後日出頭してきた彼女の恋人の口から明らかにされているのだ。
 妻の所持金はゼロ、通帳も、株式も宝石も、何ひとつ持ち出されてはいなかったし、七年後の失踪宣告の日まで、一円も使われることはなかった。
 もし彼女が生きていたなら、生活の痕跡全てを消し去ることなどできるはずがない。
 一番自然な考え方で、しかも極めて蓋然性が高いのは、妻が、当夜自ら頂へ逃げ、そして、誤って渓流に転落して死んだという可能性だ。
 実際、警察は(むろん、彼らは私が妻を殺したとは知らないので)そう結論づけている。
 が――そこで、思考は振り出しに戻るのだよ、日野原君。
 それならどうして、妻はネックレスとストールを、わざわざ選んで持っていったのだろうか。
 金目のものなら、宝石箱にいくらでも残っている。あえて、私が贈ったあの二品を選んだのは何故だろうか。
 あの夜、妻が最も憎んだ者がいたとしたら、それは私だというのに……。
 何故――。
 理解できない。
 季節がめぐり、全てが過去に流されようとする中で、私一人が、最初から、そして何年もずっと、あるひとつの可能性を疑い続けていた。
 妻はまだ、この屋敷のどこかにいるのではないだろうか。
 屋敷のどこかで、妻の身体は、ゆっくりと朽ちているのではないだろうか……。
 そうして、全てを知る脅迫者が、神の視点から、私を常に監視しているのではないだろうか。
 そう考えると、ストールとネックレスの謎も説明がいく。
 あれは、「お前のやったことを俺は知っているぞ」という、無言の脅迫なのだ……。
 恐ろしいことに、それをやりそうな人間なら、いくらでも心当たりがある。香澄を除き、あの屋敷に住む者全員がそうだ。
 彼らにはアリバイがある、が、それも共謀して仕組めば、簡単に作れるではないか。

 翌年、私は香澄をつれて日本を出た。仕事の拠点も海外に移した。
 日野原君、私が、当時、性格も顔つきも一気に変わるほど、不安に怯え、恐怖した理由が判るだろう。日々、妻と似てくる次女が、いかに恐ろしかったかも。
 正直に言えば、私は現実から逃避したのだ。
 自分が犯した罪と、妻が遺した罪の証から。
 凛世に罪はない。
 判っていても、殺した妻と瓜二つの眼差しで見上げられると、私の中に、恐怖に近い憎しみが膨れ上がる。
 私にとって凛世は、どこへ行っても逃げようがない、永遠に終わらぬ妻の幻影だったのだ――。

 妻の遺体は、屋敷のどこかに隠されているのではないか。
 その思いは、パリに在住している間、ますます強く、確信的になった。
 もちろん警察は、邸内も山中も、徹底的に捜索したはずだ。が、そこに盲点があったとしたら――?
 御堂屋敷に、通常では判り得ない形で、何かの仕掛けがあったとしたら……?
 数年をそうやって鬱々と過ごした後、私は、香澄と共に帰国した。それが今から遡って六年ほど前のことだ。
 君も承知だと思うが、当時、我が家に様々な不祥事が持ち上がってね。凛世と朋哉のことだ。詳しい事情は後述するが、私が戻らねば、どうにも事態が収まらなくなったのだ。
 しかし、本当の理由は、留守を任せている義兄から「都から屋敷の取り壊し勧告が出そうだ」と、相談を受けたからだ。
 こちらのほうが、私には一大事だった。理由は、説明する必要はないだろうね。
 帰国した私は、すぐに議員を使って取壊し勧告を先延ばしにさせた。とはいえ、もちろん先延ばしにも限界がある。タイムリミットまでに――そう、私は腹を括ったのだよ、日野原君。
 私自身が長年抱き、恐ろしさのあまり黙殺し続けてきた疑惑を、私の手で解決してみようと。
 つまり、「この屋敷のどこかにいる」妻を捜してみようと決意したのだ。
 帰国した私が、まず始めたのは、屋敷のからくり、つまり<歴史>を調べることだった。
 試みはすぐに頓挫した。私がいた頃、倉庫に山と積まれていた先人の遺物や家系図などの類は、義兄の手により、大半が処分されていたのだ。
 黴と湿気がひどかったというのが、義兄の言い分であったが、私は密かに、言い訳であろうと看破した。
 理由は、朋哉だ。
 私を裏山に案内してくれた、八歳の執事の息子だ。
 大人しげな美少年は、今や十八歳を超え、嫌味なほど、死んだ母親とそっくりの気質になっていた。
 先ほども触れたが、当時、御堂家は、二つの忌わしい事件に巻き込まれてしまっていてね。
 ひとつは金でかたがつく傷害事件だが、もうひとつの――世間を賑わせた殺人事件で、朋哉がよりにもよって、容疑者として任意同行されてしまったんだよ。
 私はすぐに、あらゆる手を尽くして圧力をかけた。
 朋哉が逮捕され、万が一迂闊なことでも喋られたら、私にとっては身の破滅だ。それに、加えて言えば、香澄がなんとかしてくれと言って聞かなかったのだ。
 香澄が、朋哉に必要以上の関心を持っていると知ったのはその時が初めてだ。
 私は、「朋哉との交際は絶対に認めない」という条件を飲ませ、彼の釈放のために尽力した。
 今でも――正直、私には判らないのだよ、日野原君。
 私は無実の青年を助けたのか、それとも兇悪な犯罪者を世に放ってしまったのか。
 脱線が長くなったが、話を戻そう。
 義兄が、古文書一切を始末した理由は、おそらく<悠木家に伝わる奇病>と、御堂山に関して伝わる、ある忌まわしい伝承のせいだ。
 朋哉が、<伝承>によく似た事件で、容疑者にあげられたことが、おそらく原因だったのだのではないか。
 馬鹿馬鹿しいと、私はむしろ、義兄の迷信深さに腹がたったが、朋哉の件では、むしろ義兄の判断が正しかったのかもしれないと、最近になって思い知らされるようになった。
 もしかすると、私と義兄は、とんでもない怪物を、それと知りつつ、庇おうとしていたのではないだろうか――。

         4

 凛世は便箋に書かれた用紙をめくる。
 下は白紙だった。
 動悸がする。軽い眩暈に襲われたような気分だった。
 悠木家に伝わる奇病……?
 とんでもない、怪物……?
 わからない、どういう意味なんだろう。
 謎を解くためヒントなら、思わせぶりに書かれているのに、肝心の結論は曖昧にぼかしてある。手紙そのものが、父が佳貴に出した謎かけだというなら、確かに難題には違いなかった。
「続きは、後のお楽しみというやつかな」
 硬直した凛世の手から、ひらりと紙片が抜き取られる。
「手紙はあと一枚ある。君の持っている例の絵本と交換だ。今となっては、僕に見せると約束したのを、君は後悔しているだろうからね」
 佳貴は不思議な微笑を浮かべて立ち上がった。
「これはね、御堂さんの死後に届いた手紙なんだ」
「……死後?」
「そう」
 自身のデスクに戻り、佳貴は手紙を手提金庫に収めて鍵を掛ける。
「弁護士を通じてね、つまり、僕宛の遺書みたいなものだよ」
 凛世は黙って、佳貴の横顔を見上げる。
 窓の外から見える高層建物の、照明の光が目立ち始める。
「だって考えてもみてごらん。生きている間に罪の告白をするほど、自分の父親が愚かだと思うかい?」
 佳貴は楽しげに肩をすくめる。
「彼はお得意の賭けをしたんだ。人生で最後のゲームが、僕が彼の手紙を開くか開かないか、だったわけだ」
 賭け――。
「……じゃあ、お父様は、ご自分の死を予感されていたと、いうこと?」
「誰にだって、保証された明日なんてないよ」
「…………」
 お父様の死因は、心臓麻痺だったはずだ。
 もともと、心臓に病気を抱えていて、でも――。
(君のご両親も、もしかすると殺されたのかもしれないんですよ)
「これで判ったろう、絵本の存在を、僕が知っていた理由が」
「で……?」
 凛世は、用心深く居住まいを正した。
「で、とは?」
「日野原さんは、この手紙を読んでどうしたの」
「正直いえば、面倒だったし、僕は推理小説の探偵じゃない、放っておこうと思ったよ」
「でも、放っておけなかった」
「そうだね、好奇心には勝てなかった」
「先週になって、いきなり本のことを言い出した理由は何故?」
 初めて佳貴は、諦めたように、けれど楽しげに嘆息した。
「本の存在を、君のお父さんに教えた男が死んだからさ」
「櫻井厚志さんね」
「ご名答」
 ははっと、初めて佳貴の口から、弾けるような笑いが零れた。
「驚いたよ、僕には今日のことが、驚きの連続だ。君は頭がいい、香澄さん以上に賢い女性だ。こればかりは、想像してもいなかった」
「お姉さまに、本の存在を話したのはあなたなの?」
「君は最初から、それを聞きたかったんだろう? 違うね、香澄さんが知っているのなら、彼女は別ルートで調べたんだろう」
「……………」
「僕と彼女は無関係さ、昔も今も、何ひとつ繋がらない」
 笑顔を浮かべたまま、佳貴が不意に歩み寄ってくる。
 凛世は、不吉な影を感じた。
「櫻井さんは……どうして死んだの」
 ソファが佳貴の重みで軋む。
「心不全、ただし、警察が司法解剖までしたから、毒物でも検出されたんじゃないかな」
 心臓が、鼓動を刹那に止めた。
 心不全、心臓、死因がお父様と同じなのは、ただの偶然なのだろうか。
 毒物――毒、悠木家が得意としていた毒物の調合。
(君のご両親がお亡くなりになったのは、本当に単なる事故や自然死だったと思いますか)
 まさか。
 背中を抱かれ、柔らかく押し倒される。
 我にかえった時は、大きな佳貴の体に組み敷かれていた。凛世は硬直したまま、婚約者の顔を見上げた。
「君が、僕から探ろうとしていることを当ててみようか」
 耳に唇が寄せられる。
「日野原さん、やめて」
 抵抗はやんわりと抱きすくめられて、封じられた。
「判ってるよ。僕が香澄さんの味方か、それとも君の味方か、それを確かめたかったんだろう」
「そんなこと、ない」
 言葉はそこで遮られた。
 キスの間、ずっと照明の光がまぶしかった。
 やがて唇を離し、佳貴は不思議な微笑を浮かべた。
「賭けないか、凛世」
「賭け……?」
 何よりもまず、この罠から逃れられるだろうか。焦りながら、凛世は必死で身をよじる。
「僕は、君の家の秘密を解く、君の母親の居所を探し当てる」
 驚きを込めて、凛世は目の前の佳貴を見上げた。
「君には判らないかな。御堂さんの手紙には、ある種のミスディレクトが含まれている。そう、彼は犯人を知っていたのさ、これを書くときに、すでに」
「………………」
「判るだろう、僕が言っている意味が」
 それが朋哉という意味なら、理解したくもない。
 顔をそむけた凛世の耳に、佳貴は軽く唇を当てた。
「今、僕は、君に初めて欲情している。僕はある種の変態なのかもしれない、普通のセックスより、大切な何かを賭けた女性を征服することに、無常の喜びを感じてしまう」
 恋愛も、愛を確かめ合う行為でさえも、佳貴にはゲームでしかないのかもしれない。
 男の底知れない虚無に、凛世は強い嫌悪と、同時にいくばくかの悲しさを感じる。
「僕は君を助けると言っているんだよ、凛世」
 佳貴の手がスカートの上から腿に触れる。
 凛世は全身で抗い、逃げようとした。
「君を助けるということは、悠木朋哉を助けるということじゃないか」
 朋哉を。
 朋哉を助ける?
 佳貴を見上げた凛世は、抵抗するのをやめていた。
(彼を動かす根を見つけることは、同時に、彼を救うことになるとは思いませんか?)
 狩谷もまた、同じようなことを言っていなかったろうか。
「君の本と、手紙のラストを交換しよう。彼を守りたいなら、それがどんな真実であっても、君は知らなければならないはずだよ」
 朋哉を守るために――。
「報酬は、君の秘密でいい」
 思考が止まったままの凛世に、もう一度、キスが被さってきた。
 心の中で必死に抵抗する。凛世の目じりに涙が浮かんだ。
 いつの間にか、胸元のボタンが外されている。
「まだ、その古いクルスをつけているんだね」
 からかうように払いのけられたクルスのペンダントを手で押さえ、凛世は顔だけを逸らし続けた。
 ――朋哉……。
「今夜は、ここまでで赦してあげるよ」
 からかうような男の声を聞きながら、凛世は、溢れそうな涙を必死で耐えていた。






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