正常と異常の境目があるとすれば、そこからの私が、まさに正常だったのだろうね。
私は動顛した。部屋中を探したよ、ベッドの下、カーテンの陰、クローゼットの中、人が身を潜めそうな場所は、何もかも、だ。
しまいには半狂乱になって、カーペットまで引き剥がそうとした。
そして、ようやく気がついた。
もしかすると、妻は生きていたのではないか?
確かに首に手をかけた、が、さほど強く締めたわけではない。あっけないので驚いたくらいだ。脈はなかった、けれど、本当になかったのか? 手をかけていた時間は? ごくわずかだった気もするし、永遠のように長かった気もする。
つまり、私も、その程度には冷静さを欠いていたのだ。
落ち着きを取り戻した私は、部屋を元通りに片付けると、妻の化粧台を確認した。
少しばかり驚いた、ネックレスとストールがなくなっているからだ。
どちらも私が贈ったもので、今夜、妻が待ちだすには最もふさわしくないものなのに。
棄てたのかもしれない。
私は思いなおし、階下に下り、浴室をのぞいた。
片付けをしているメイドに「妻の姿が見えないんだが、誰か見かけたものはいないかね」と声をかけ、三階のまさ代と凛世、そして香澄の部屋も覗いてみた。
やがて、家中の者が、妻を探し始めた。
この時点で、私はかなり楽観していた。
私が先に、妻を見つけるにこしたことはないだろうが、誰が見つけたとしても、妻が今夜の不貞を明らかにし、夫の行為を公にするとは思えなかったからだ。
また、騒がれたとしても、気を失わせる程度の行為で罪に問われるとも思わなかった。
たとえ今宵、妻がどこに隠れていようと、最早私には関係ないのだと。いってみれば、そんな気楽な気持ちだったのである。
しかし、妻の姿はどこにもなかった。
メイドたちが総動員で探し回っても、どこにも姿が見えなかった。
悠木邸を含め、屋敷中のどこにも、である。
当夜、屋敷が、どれだけ厳重な警備網を強いていたか、あらためて説明するまでもないだろう。
監視カメラを確認するまでもなく、車が運転できない妻が、自力で家を出ることなどできないのだ。しかも、こんな豪雪の夜に。
「明治の頃は確かに、……隠し部屋だの隠し通路だの、そういったものがあったと聞いてはいるが」
騒ぎを聞いて起きてきた遼太郎義兄は、雪の中、庭にまで出て妹の姿を探し回ったせいか、蒼白な顔になっていた。
「今は、そんなものはない。第二次世界大戦時、スパイを匿った容疑で、うちの屋敷は、憲兵の手で徹底的に暴かれて壊されたそうなのだ。数年前に窃盗が入ったとき、隅から隅まで警察の方に見てもらったろう、あれが全てだ」
深夜を過ぎ、一時を回った頃から、少しずつ、恐怖が私の裡に積もり始めてきた。
妻はどこに消えたのだろう。
生きて、どこかにひそんでいるならまだいい。
もしかして、部屋の鍵を持っていたのは私だけではなくて。
もしかして、誰かが、妻の遺体を運び出して。
この家のどこかに――妻が、死体のまま、隠されていたのだとしたら。
「だんなさま」
警察に連絡した方がいいのではないか、いよいよそんな声が、メイドたちから上がりはじめた時だった。
「朋哉が、山頂を探してみると申しておりますが」
おずおずと申し出たのは、凛世を抱いているまさ代だった。
山頂?
顔をあげた私の前に、執事の一人息子が立っていた。
悠木朋哉。
女のように綺麗な顔をした少年である。
頭もよく、理知的で礼儀正しい。が、私は、この少年が苦手だった。そう――死んだ三千代の眼差しと気質、そして父親の面立ちをそのまま譲り受けたような、彼の存在全てが。
「まさか、あんな場所へ」
雪よりも白い肌を、さらに白くさせたのは遼太郎だった。
「うちの者で、頂に迷うことなく登れるのは、朋哉だけですから」
まさ代は、まだ八歳の少年に大役を任せる気後れから、戸惑ったように進言する。
「奥様は、私より鮮明に、山道をご記憶です」
落ち着いた眼差しで、朋哉が初めて口を開いた。
「私は、目印がないと登れませんが、奥様は目隠ししてでもお行きになれます」
「わかっている」
私はうるさげに、執事の息子を遮った。
妻は幼少時、幼馴染の執事と一緒に、山頂を遊び場のようにして育ってきたのだ。そうだ、頂だ、どうしてそこに、気がつかなかったのだろうか。
「私が行く」
車椅子を押しながら、悲痛な声を発したのは遼太郎だった。
「若い頃は、私も頂に登ったことがある、大丈夫だ」
冷静さを失っていた彼は、すでに、最悪の事態を予想していたのだろう。
「いや、義理兄さんには無理です、私が朋哉と行きましょう」
私は、外套を掴んで立ち上がった。
そして、おどおどしているまさ代に、すぐに指示を出した。
「朋哉と二人では危険だ。警備員に同行してもらえるよう、頼んでみてくれ」
第一発見者は、常に第一容疑者だ。
私はその危険を、未成年の朋哉とわかちあうのでは足りないと判断した。結果、第三者を立会わせたことが、私への疑いを晴らすことになるのだから、ふふ、私の気転もなかなかのものだろう。
幸いにして、雪は止んでいた。
朋哉を先頭にして、大人三人が後に続くようにして、我々は雪に覆われた山路を登っていったよ。
正直言えば、恐ろしかった。何も知らない警備員には気の毒をしたが、御堂山が、迷い込んだら容易に出られない悪路続きだということは、よく知っていたからね。
朋哉にしても、道をはっきりと記憶しているわけじゃない。八手で雪をかきわけて、目印を確認しながらの道程だ。頂につくまでの三十分あまり、本当に不安でならなかったよ。
山の頂につくと、湖水がきらきらと、月明かりに輝いて――まぁ、綺麗なものだった。が、そんなものに見とれている暇は無論、ない。
最初に、赤いストールの切れ端が、積雪の合間からのぞいているのが見つかって、あとはやたらめったら、周辺の雪を掘り返した。で、十センチも下のあたりから、私が贈った妻のネックレスがでてきた。
どちらも、見つけたのは警備員でね、しかも、綺麗に雪が降り積もった下にあって、人為的に埋められたものとは違うと、はっきり証言してくれたんだ。それが私には幸いした。
雪面の状態に関しては、実際、私の目からもみても証言の通りだったしね。
山の頂には処女雪が広がり、足跡ひとつないほど綺麗な、なだらかな流線を描いていたよ。もし、妻が、ネックレスを落としたのだとしたら――積雪の深さからいって、二度目の雪が降る、少し前だろう。
あの夜は、七時すぎから雪が本降りになって、九時にはいったんやんだ。再び激しく振り出したのが、十時過ぎてからだ。
妻が会場を抜けて、私と言い合いになったのが、九時。
私が、妻の部屋に再び戻ったのが、十時半前。
部屋から妻がいなくなったのは、その一時間半の間でしかあり得ないのだから、妻が頂までたどり着いて、身に着けていたものを落としたとすれば、時間的には辻褄があう。
その晩、現場からでてきたのは、ネックレスとストールだけだった。
朋哉をのぞく男三人で、あたりの雪をみな掘り起こしてみたんだがね。妻の遺体めいたものは、どこからも出てはこなかった。湖は夜にもはっきりと澄んでいたが、せいぜい膝までで、子供でも溺れるのは難しい深さだ。
いずれにせよ、妻がどういう理由で頂まできたのか、説明できるものは誰もいなかった。私を含めて、誰も。
私にしても、冷静を装うのがやっとで、本当に意味が判らなかったのだから。
明け方早々に警察が来て、あとはもう大騒ぎだった。
結論から言えば、妻の姿はどこからも出てこなかったのだよ。
ただ、頂から北の崖岸に続く鉄柵の鍵が開いていて――崖伝いに、妻が麓に降りようとしていたのではないか、と、推測されるに留まった。
死体はとうとう見つからなかった。いや、そもそも本当に山中で死んだのか、疑わしいとさえ警察は言っていた。靴にしろ、衣服にしろ、他の遺留品が一切見つかっていない上に、崖から転落した形跡も何もないとのことでね。
私が疑われたのは、当然だよ。
なにしろ、私には愛人がいて、しかも最後に妻を見たのも、おそらく私なのだから。
無論、妻の首に手を掛けた事実は言わなかったが、当夜、彼女が出て行きたいといった経緯だけは正直に話したしね。
妻の愛人だという、櫻井厚志と名乗る男が、自から警察に赴いたのは、それから一週間後……だったかな。
それまで私の話を疑ってばかりいた警察も、櫻井の登場で、ようやく私を信用してくれるようになったんだ。
結局、妻は、失踪した、という結論になった。
地元の新聞は、神隠しだと書きたてたよ。
御堂山の人攫い、だったかな。それとも人喰いの山だったか。
他県育ちの私は知らないが、昔からそういった伝話が、御堂山にはあったらしいね。
実際に、似たような事件が、あったのだとも聞いた。明治か大正の頃、迷い込んだ子供が死体で見つかったとか、若い娘や人妻が、攫われては殺されたとか……まぁ、真偽のほどは判らないが、御堂山には、そんな噂が尽きなかったらしい。
なんにしろ、それは余談で、表向きは、全てが円満に解決した。
が、私一人が、ひそかに確信していたことがある。
はっきり言えば、警察から放免された日が、私の苦悩の日々の始まりだったのだ。
妻は、自分の意思で、山頂に向かったのではないのだ。
私はやはり、本当に妻を殺してしまったのだ。
それを知っている誰かが、私に代わって、証拠を隠滅してくれたのだ。
考えてもみたまえ、夫を棄てて別の男の元に走ろうとした女が、どうして私が贈ったネックレスなど持っていくだろう。
警察は、発作的に家を出た妻が、山頂でネックレスとストールを棄てたと見做してくれたが、私一人がそうではないと知っている。
だって日野原君。
私はそれが、彼女の化粧台の上に投げてあったのを、ちゃんと確認しているんだからね。
2
「驚かないね」
佳貴の声で、凛世は、はっとして顔をあげた。
窓の外は夕暮れが濃い。
室内の明かりが、妙に白々として感じられる。
「すごく衝撃的な事実が書いてあると思うんだけど、君にとっては」
傍らで指を組む佳貴は、そう言う彼自身が、場違いに涼しげな目をしていた。
「……薄々だけど、察していたから」
「出生のこと?」
無言のまま、凛世は頷く。
逆に、これでようやく、曖昧に苦しめられていた迷宮の中から、救い上げられた気分だった。
私は、父の本当の娘ではなかった。
事実だというなら、もう受け止めるほかない。むしろ、苦しめてしまった父に対して申し訳ないとさえ思う。
驚いたというなら、母の失踪に関してだ。
失踪というより、父の犯した罪について。
驚きというより、思考が停止してしまった状態だ。今知った事実を、どう受け入れていいのか判らない。
「日野原さんこそ、どうして」
凛世は、読みかけの手紙を置いて、傍らの佳貴を見上げた。
「こんな私と、結婚しようと決めたんですか」
「結婚を決めたのは僕じゃないよ、僕の両親」
佳貴は笑った。
「僕の人生は僕のものであって、そうじゃない。どうでもいいんだ、僕自身のことはね」
「……………」
佳貴が垣間見せる虚無に、やはり凛世は狩谷と同じ影を見ている。
「君の親父さんとは……御堂成彦氏とは、彼が主催するクラブでご一緒してね。月に一度集まっては高額な賭け事をする、まぁ、犯罪すれすれの秘密クラブのようなものだが、僕らは妙に馬があって、よく、特別なルールで賭けをしていたんだ」
佳貴は楽しそうに目を細め、両指を顎の下で組んだ。
「御堂さんが出す犯罪トリックを、僕が解けば僕の勝ち、解けなければ負け、というルールでね。負けたことなど一度もなかったけど、思えばその時から、彼は僕という男を値踏みしていたんだろうね」
「値踏み……?」
凛世は眉を寄せる。なんのために?
佳貴は唇の端で淡く笑った。
「まぁ、続きを読みたまえ」
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