パーティの夜、私は上機嫌であった。
 末娘の凛世だけは、数日前からの風邪が治らず、まさ代が傍につきそっていたが、凛世を除けば家族全員が、当夜のパーティに参加していた。
 今夜のために特注で作らせた真珠とダイヤの首飾りを、私は妻の首にかけてやった。
 隣では、小学生とは思えないほど大人びて美しい香澄が母の手をとって誇らしげに笑んでおり、膝の手術をしたばかりの義兄は、車椅子ながら、精力的にホスト役を務めてくれた。
 私たちは、さぞ幸せそうな家族に見えていただろう。おかしなもので、私にはそれで、十分な満足だったのだ。
 その夜、私は、随分アルコールを口にした。接客に忙しく、パーティの間中、婦人たちの中にいた妻のことなど、気にもとめていなかった。
 妻の姿がないことに気がついたのが、九時少し前。丁度、建設大臣夫妻が遅れて到着された時である。
 今夜最大のVIPを前に、女主人がいないのでは話にならない。私が、慌ててメイドに聞くと、八時半に眠たいと言い出した香澄を子供部屋に連れて行って、いったんは戻ってきたものの、気分が悪くなったから休むと言い、そのまま会場を出て行ったらしい。
 私は無論、妻の部屋に、メイドをやって呼びに行かせた。
 いくら気分が悪かろうと、挨拶だけでもさせなければ格好がつかない。
 が、数分後、メイドが困惑顔で戻ってきた。
「奥様のお部屋に入れません」
「鍵がかかっているのか」
「はい、中におられるようなのですが、何度呼んでもお返事がなくて」
 私の隣には、折よく義兄も居合わせていた。
「成彦君、私が呼びに行こう。君が抜ければお客様が寂しがるだろう」
「いえ、僕が行きます、すぐに戻ってきますから」
 私は、兄の申し出を断った。元貴族という名称がどこからみても似合う優雅な義兄は、妹には滅法甘く、どう考えても、気分が悪いと隠れているような女をひっぱりだして来るとは思えなかったからだ。
 なんとわがままな女だ。
 その前年に、妻のお目付け役でもあった、女執事の悠木三千代が亡くなっていた。
 私にしてみれば、邪魔者がいなくなっただけだが、妻には衝撃だったのだろう。今夜のように、行動に歯止めがきかなくなることが、これまでも度々あったのである。
 私は、憤りを感じながら、自室からマスターキーを持ち出し、二階にある妻の部屋兼寝室に向かった。
 酒も入っていたし、少しばかり、通常ではない心境だったのかもしれない。
 部屋に入ると、中は真っ暗だった。
 廊下から洩れる灯りで、今夜妻が身につけていた真紅のストールや、私が贈ったネックレスが、彼女の化粧台の上に投げ出されているのが確認できた。
 扉を閉め、電気を点けてから、私はベッドのほうに足を進めた。てっきり寝入っているのかと思えば、そうではなかった。
 寝室の隅の窓際で、妻は膝を抱えるようにしてうずくまっていたのである。
「何をしているんだ、こんなところで」
 何かあったのかと、一瞬心臓がドキリとしたが、妻の衣服には格段の乱れもなく、髪も美しく結いあげたままである。
 が、私の呼びかけには一切応じず、膝を抱いて顔を伏せたまま、細かに肩を震わせている。
「おい、返事をしないか」
 細い肩をゆすっても返事はない。
 苛立った私は、少し乱暴に抱き起こした。妻は鼻水をこぼすほど激しく泣きじゃくっていた。私は驚いた。
「出ていきます」
 唐突に妻は言った。
 顔色は青ざめ、目は真っ赤に充血している。全身は小刻みに震え、唇を噛み締めた後には、血の筋が浮いている。
 狂ったか。
 即座に思った。
 狂気のような妻の変容ぶりを目の当たりにし、私が、どれだけ驚いたか、想像に難くないだろう。
「私は、あなたの妻でいていいような女ではないんです。出て行きます、今すぐに」
「何を言っているんだ」
 乱暴な力で私を跳ね除けた妻は、別人のような勢いで立ち上がると、ハンドバックを掴んで、身支度めいたことをやり始めた。
 何を言っても首を横に振るばかり、話の間ずっと、目から陰鬱な涙を零し続けている。私は、言葉が通じないことに苛々した。
「お前は、頭がどうかしているのか」
 しだいに時間が気になりはじめた。私は声を殺して、妻を叱りつけた。
「出て行くなら、勝手しろ、しかし今はだめだ」
「もう、この屋敷にはいられないのよ!」
「いい加減にしろ!」
 そんな問答を繰り返したのを覚えている。
「あなただって、別宅に女の人がいるんでしょう?」
 妻を殴ったのは、それが初めてだった。
「じゃあ、はっきり言うわ。言ってしまえば、あなたも、もう、私の顔など見たくないと思うから」
 妻の弱々しい目に、青い光が揺らいでいるように見えた。
「凛世はあなたの子じゃないのよ」
 衝撃で、私はものが言えなかった。
 頭が白くなるとは、ああいうことを言うんだろう。
「じゃあ、誰の子だ」
 私は、そんなバカなことを聞いたのを覚えているよ。
 凛世が生まれたのが、四年も前なら、私は悠木家の、若くして死んだ美貌の執事を思い浮かべていただろうね。
 まるでを守るために生まれてきたような男は、不幸にも交通事故で夭折したが、妻が、夫の私より、執事に惹かれていたのは間違いのない事実だったろうから。
 今でも、執事の忘れ形見の朋哉を、妻はわが子のごとく可愛がっているのだから。
「麓で知り合った方よ」
「嘘をつけ、お前にそんな相手がいるものか」
「本当です、絵の先生で、悠木の家の遠縁にあたる方よ」
 悠木、という言葉が、私にはとどめだった。
 そこで、理性の何かが、ふっつりと切れてしまったんだろう。
「私は、今から、彼のところに行きます。探さないで、もう二度と戻らないから」
 私は妻を愛していたのだろうか。
 今思っても、その真偽だけは判らない。
 しかし、はっきり言えるのは、その刹那――妻の喉に手をかけた刹那、確かに私は、この女を愛していたと、<錯覚>でも、そう思い込んでいたということだ。
 あるいは、愛よりもっと自己的な、どす黒い感情だったのかもしれないがね。
 殺した――。
 動かない妻を見下ろした時、私はそれでも冷静だった。
 さぁ、日野原君。
 これで私は、人生最大の秘密を君に打ち明けてしまったわけだ。
 君は常々言っていたね。「どんな犯罪談を聞いても、あなたは冷めていらっしゃる、まるでご自身が、最大の犯罪に手をお染めになったようだ」と。
 君の推理は正解だよ。
 そう、私はこの世で最も重罪たる<殺人>の実行者だったのだ。
 君が、どれだけの見識者かは知らないが、さすがにその一点では私にかなわないだろう。ふふ……無論、自慢するつもりはないのだがね。
 後学のために、詳細にお伝えしよう。
 私も初めて知ったがね、人は、異常というべき興奮の極地に達すると、おそろしいほど冷静になれるものなんだ。いや、冷静というのは違うかな。そうではなく、ひどく現実的だということなんだ、全てがね。
 ここにある死体をどうしよう。
 すごく現実的だろう。悔恨でも恐怖でも後悔でもなく、私の頭の中には、それだけしかなかったのだよ。
 私は妻の脈と呼吸を確認し、彼女の遺体を抱き上げて、ベッドに運び、丁寧に布団をかけてやった。
 半開きの瞼を閉じさせてやり、手を胸の上で組ませてやった。
 さて、これからどうすべきだろうか。
 とりあえず、扉の鍵を閉め、階段を降りながら、冷静に計算するほど、まだ私には余裕があった。ある意味異常の極地にいるがゆえの余裕だよ。気持ちが正常だったら、きっと泣き叫んで恐怖に震えていただろうがね。
 階下では、ミニオーケストラが演奏をしている。声も物音も、下に届いた形跡はない。子供部屋は三階で、しかも反対方向にある。凛世に付き添っているまさ代にも、香澄にも、私たちの声が聞こえるはずはない。
 無論、隠し通せるとは思わなかった。このままだと、せいぜい、もって朝までの秘密だろう。
 密室の中の殺人だから、容疑者はおのずと限られてくる。死亡推定時刻がはっきりすれば、疑われるのは私一人に限定される。
 私は冷静に、今後の自分の、最善の身の振り方を計算した。
 今夜の来客にだけは、迷惑をかけてはならない。会社のことも、しかるべき人間に引き継ぐ必要がある。それら全ての後始末が終わるまで、なんとか、悪事の露見をふせげないものだろうか。いや、場合によっては、永遠に。
 君が、こんな私を軽蔑するような全うな神経の持ち主だったら、秘密を打ち明けるつもりにはならなかったよ、日野原君。
 君なら共感してくれるだろう。
 考えてもみたまえ、自分を裏切った女のために、生涯を棒に振る男がどこにいる。
 鍵は閉めた。マスターキーを持っているのは私のみ。朝までは、まず、今のままで大丈夫だ。明け方、家の者が寝静まってから、細工するしかない。今夜の記録的な豪雪が味方してくれるだろう、そして、意味もなく複雑な造りの御堂館が。
「寝ていましたよ」
 会場に戻った私は、なにげない風に、義兄に報告した。
「薬を飲んだようなので、多少のことでは起きませんでした。今夜は休ませてやりましょう」
 義兄はほっとしていたようだった。
 それからの私の主な役割は、妹思いの義兄を、寝室に近づけないための監視だったといってもいい。
 私は、片時も目を離さず、深夜十時のパーティが終わるまで、終始、義兄の傍に居続けた。全てが終わり、義兄が自室に引き上げるまで。
「遼太郎兄さんは、ご気分が悪いようだ」
 私は、念を入れてメイドに声をかけた。
「退院したばかりで、無理をさせてしまった。少しの異変にも気をつけてくれ、お部屋を出られるようなことがあれば、私に連絡するようにね」
 義兄は、その前年、車椅子の操作を誤り、階段から転落しかけたことがあった。私の心配は、ごく自然に住み込みメイドに受け入れられた。
 私は再び、なにげない風に妻の部屋の扉を開けた。ごく自然なことだった、先ほども説明したが、妻の部屋続きに夫婦の寝室があり、私が帰宅している際は、そこで、休むことになっていたからだ。
 扉を開けた私は、今度こそ本当に驚いた。
 死んだはずの妻の姿が、どこにもなかったからである。






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