3
「どうぞ、お入りください」
凛世を見下ろすほど上背のある女性は、開いた扉を指し示して、にっこりと微笑した。
一分の隙もない笑顔だが、綺麗な目には最初から毒がある。
室長秘書だという女性が、部屋の主とどういう関係なのかは判らない。それを勘繰ったところで、自身が何ひとつ傷つかないことが、むしろ凛世には寂しかった。
「そういうお話は、聞いていませんね。ええ、無論お断りするしかないでしょう」
婚約者は電話中だった。
ヨーロッパを模した豪奢な装飾、応接室を兼ねた広々とした室内、窓からは林立するオフィスビルが一望できる。
磨きぬかれた大理石の床に、マホガニーのデスク。
「何度言われても無駄ですよ」
冷たい、というより、感情の一切が欠落したような声に、凛世は少し驚いて、デスクの日野原佳貴の顔を見ていた。
元々天の高みにいて、いつも人を食ったような態度を取る男だが、仕事では、ここまで他人を切り捨てる目が出来るものなのか――。
「馬鹿馬鹿しい」
微かに嘆息し、佳貴の唇が呟いた。
眼差しは、デスクではなく、もう窓の外を見ている。
ビジネスなのだろう、が、佳貴の目に、凛世は何故か狩谷の虚無を見ていた。
人生の何かを諦め、自身の運命を受け入れて従う、感情の一切を切り捨てた眼差し。
「時間の無駄ですね、訴えたければ、ご自由にどうぞ」
あっさりと電話を切り、佳貴は取り繕った笑顔で、凛世を見あげ、立ち上がった。
「座ったら?」
「ごめんなさい、忙しいのに」
「判を押して、たまに苦情の電話を受けるくらいさ」
わずかにネクタイを緩め、肩をすくめた佳貴が歩み寄ってきた。
品のいいグレーのスーツ、デートの時と違って、髪が背後に撫で付けてある。
「それとも食事に行こうか、少し早いけど、何を食べよう」
「ううん、いいの、今日はすぐに帰るから」
「そう?」
互いにソファに向かい合って座る。先ほどの秘書がコーヒーを二つ運んできて、やはり、一部の隙もない笑顔で退室した。
「すごく……気になっていたことがあって、言った方がいいかどうか、迷ったのだけど」
凛世は、昨夜ずっと考え続けた『言い訳』を切り出した。
「なんだい」
飲む気がないのか、佳貴は、コーヒーを手で押しやる。
「私みたいな子供と、どうして結婚しようと思ってくれたの」
「結婚もビジネスだからさ」
悪びれずもせずに佳貴は笑う。「どうしたんだ、いまさら」
凛世は目を伏せ、少し憂鬱そうな表情を見せた。
「なんだか、お姉様の方が、日野原さんにはあっているような気がして」
「香澄さんが?」
婚約者を前にしても、どこか他人事のようだった佳貴の目が、初めて意外そうに見開かれた。
「年もそうだし、雰囲気もそう。日野原さんとお姉様は、同じ大学だったのよね」
「それこそ、いまさらだよ、どうしたんだ、急に」
「どうして、お姉様じゃなく、私だったのかと思って」
「……最初、話があったのは、確かに香澄さんだったよ」
少しの間があって、佳貴はリラックスしたように、ソファに背を預けた。
戸惑いを見せたのは最初だけで、なんだ、そんな話か、という目になっている。
「凛世も、それくらい知っていると思ったけどね。うちの親父が言い出した縁組で、君のお父様も乗り気だったが、断られたんだ、理由は言うまでもないと思うけど」
「……朋哉?」
「そういうことなんだろうね」
佳貴は白い歯を見せて、ポケットから煙草のケースを取り出した。
「君には悪いが、姉でも妹でも、どちらでもいいというのが、僕の立場だよ。自由な結婚ができるなどと期待もしていなかったからね。せいぜい見栄えがよくて、人形みたいに大人しければ楽だろうと思っていたくらいだ」
ちらりと凛世を見て、かすかに笑う横顔には、君はまさに理想的だったよ、そう言っているかのような、冷ややかな嘲笑の色があった。
が、佳貴の目は、すぐに鋭い興味の色を帯びる。
「どうして、急に、そんな話をする気になったんだい」
「本のことだわ」
凛世はようやく、本題を切り出した。
「本?」
「怪物とお姫様」
ああ……、と、佳貴は、眉の間を指先で払う。
「日野原さんに本の話をしたのは、お姉様なのじゃなくて?」
「話とは?」
「日野原さんが、怪物とお姫様を見たいと言い出したのは、お姉様に頼まれたからなんでしょう?」
4
「意味が判らないな」
不思議そうに、佳貴は笑って、火を点けない煙草を唇に挟んだ。
凛世は、灰皿を彼の手元にそっと押しやる。
「教えて欲しいの」
「何をだい」
佳貴は悠然と、口に挟んだ煙草に火を点ける。
「お姉さまは、どうしてあの本に拘るの?」
「不思議な発想をするね、君も」
からかうように、佳貴は上目遣いに凛世を見上げた。
「意味がまるでわからないよ。そもそも香澄さんが読みたいのなら、直接君に言えばいいじゃないか」
「一度、言われたことがあるの、まだイギリスに居た頃だけど、手紙で」
「それで?」
「父が亡くなる少し前だったわ……」
初めてもらった姉からの手紙。
便箋には、妹の近況を気遣う内容がおざなりに記されていて、おそらく本題はラスト二行に凝縮されていた。
「朋哉から預かった珍しい本があると思うけど、絵本の収集家が見たいと言っているから送ってくれないかって。すごく不思議な気がしたし、はっきりいえば、不愉快だったの。本のことは、私と朋哉の二人だけの秘密のはずだったから」
「で?」
「断ったわ、もうなくしてしまったって」
「何故」
「……取られてしまうと思ったからよ、朋哉のように」
「………………」
唇から煙草を離し、佳貴は初めて見るような真顔で、正面から凛世を見下ろした。
「それは、素敵な告白だね」
「婚約を破棄されるなら、仕方ないと思ってます」
「はは、いまさらそれは、無理なんじゃない?」
笑いながら足を組み直す佳貴は、しかし、初めて本当の意味で楽しそうな顔をしていた。
「で、僕が本を見たいと言い出したので、また君は、香澄さんの差し金だと思ったわけだ」
「ええ」
「じゃあ、香澄さんの動機はなんだろう、君への嫉妬?」
「最初はそうだと思ったわ……でも」
今は、違う。
「でも?」
問い詰められて、凛世は黙る。
まだ、確信はできない。佳貴は敵だろうか、味方だろうか。もし、姉と佳貴が通じていたとしたら――。
けれど、凛世が崩せる壁がもしあるとすれば、目の前に座る男しかなかった。
「これは、私の想像だけど」
「言ってごらん」
「怪物とお姫様は、うちの山をモデルにして描かれたものだと思うの」
佳貴は無言で、吸い差しの煙草を灰皿に押し付ける。
「だとすると、ごく親しい人が、描いたものだと思うの。山の頂の情景を知っている人は限られているから、最初から、うちか、悠木家に関わりのある人じゃないかと思っていたんだけど」
佳貴の表情は変わらない。凛世は続けた。
「先日、うちに刑事さんが来られて、母の……昔の恋人が亡くなられたという話を聞いたの。朋哉の遠縁で、裏山に何度も出入りしていて、昔は絵画教室をやっていたという話だったわ」
佳貴がふいに立ち上がる。
凛世は驚いて口を噤んだ。
「で?」
笑うような声だった。
「君は、絵本に、何の秘密が隠されていると思っているんだい?」
それは。
自分の口からは切り出せない。
探りたいのは、佳貴がどこまで、香澄から聞かされているのか、ということだから。
「私が知りたいのは……あなたと、お姉様の関係だわ」
凛世は、しおらしい口調で言った。
「今のままでは……結婚しても、あなたを信じていいかどうか判らないもの」
「なるほどね」
佳貴は笑って、窓辺に向かった。
窓辺に立つ背中は、少しの間凛世を拒絶するような沈黙を浮かべていた。
「僕に、絵本の存在を教えてくれたのは、残念ながら香澄さんじゃないよ」
静かな声がした。
「僕に本の話をしてくれたのは、君の死んだお父上、御堂成彦氏だ。僕らは夜のサロンの賭け仲間でね。まぁ、お互いがお互いを強敵とたたえあう同士だった」
――お父様と……?
凛世は訝しく佳貴を見上げる。
振り返った男はかすかに笑い、窓に背を預けて両腕を組んだ。
「御堂氏は僕に、最後の賭けを持ちかけた。内容は、行方知れずになった彼の妻の居所をつきとめること。もう君も気づいているんだろう? 君が持っている絵本の中に、秘密が隠されているみたいだね」
5
凛世にとって、父親の御堂成彦とは、一言で言えば、理解不能な人だった。
どこにいても非常に目立つ、長身の美丈夫である。
瞳は、淡い灰色を帯びて、やはり灰色まじりの髪とあいまって、生粋の日本人とは思えない、不思議な容貌の持ち主でもある。
外見だけでなく、御堂家の当主は、いつも他者を超越したような雰囲気を身にまとっていた。冷めた目をして、誰に対しても、木で鼻を括ったような物言いしかしない。
変人、奇人、本音がどこにあるのか判らない男――業界で、父はそう称されていたらしい。
他者を寄せ付けない態度は、娘たちに対しても同じで、殊更、末娘の凛世には非道かった。
年に一度、日本に戻って来ても、屋敷には一切寄りつかず、むろん、長女と暮らすパリに、呼び寄せることさえない。
凛世もまた、自然、父に対して無関心になった。
思春期を超えた今にして思えば、無関心の裏には、出生への不安と恐れが相当混じっていたのだが――当時の凛世には、ただ、自分とは関わりのない人がまた帰ってきた――という印象しかなかった。
たった一度だけ、こんなことがあった。
十一歳の秋だった。どういう気まぐれからか、父からいきなり、オペラに行こうと誘われたのだ。
折悪しく、当日は朋哉の誕生日だった。どうして今日なのかと憂い、よもや故意ではないかと憤り、凛世は行かないと言い張った。最初は笑って相手にもしていなかった父が、最後には本気で怒った。
父に叩かれたのは、後にも先にもそれが初めてだったろう。
凛世がイギリスに留学するのを待つように帰国した父は、以来日本を本拠地に定め、御堂屋敷で生涯を終えた。
七年ぶりに見た父親の顔は、思わぬほどに老いやつれ、凛世は初めて、肉親のために涙を零したのだった。
「座ったら」
思いのほか、婚約者の部屋には何もなかった。マンションの最上階。3LDKのただっ広いには、ダンボールが山積みになっている。
「引っ越しの荷物?」
凛世が緊張を誤魔化しながら訊くと、佳貴は肩をすくめ、なんでもないように笑った。
「棄てるんだ、もういらないものだから」
わずかに覗くダンボールの隙間からは、黒い本の背表紙が見えた。銀色の文字で、<民間伝奇>というタイトルが垣間見える。
「向こうに行ったら、もう研究はやらないの」
「何の? 人生とは、常に研究の連続さ」
部屋に、座るような場所は一つしかない。
イタリア製らしい真紅のソファに腰掛けると、佳貴は、卓上の手下金庫の中から一通の封書を取り出した。
「なんだと思う?」
当然のように隣に腰掛ける佳貴を、凛世はわずかに警戒して見上げる。
誰もいない部屋に婚約者と二人きり――不安がないといえば、嘘になる。
いつものように、曖昧な態度で逃げることができるだろうか。
「手紙……?」
「そう、死者からのね」
見下ろす佳貴の目は笑っている。
心の奥底を見通すような眼差しに、凛世は一瞬だが、胸が大きく脈打つのを感じていた。
「読めば、二度と後戻りはできないよ。どうする? 凛世にこの扉を開ける勇気があるのかな」
――朋哉……。
凛世は、胸の十字架を握りしめた。
「あるわ」
私が、あなたを鎖から解き放ってあげる。
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