第三章「灰色の靄の向こう」
1
「こちらになりますね」
机に置かれた分厚いファイルを、制服姿の女性が丁寧にめくった。
もともと用意してあったのか、付箋が貼られた頁が、すぐに開かれる。
が、途中で手を止めて、角顔の婦警は、狩谷の顔を迷うように伺い見た。
「いいんですか」
「構わない」
狩谷が鷹揚にうなずくと、ようやく開いたページが凛世の前に差し出される。
口の中で低く呻き、凛世は顔を逸らしていた。
写真に捉えられた男の顔を見た瞬間、眉間のあたりを強く殴られ、頭を覆っていたものが吹き飛んだような気がしていた。
「被害者は」
言葉を切り、狩谷はわずかに言いよどんだ。
「いや、あなたには加害者ですね。……ご記憶に、ありますか」
口を開いても言葉にならず、凛世はただ、小さく頷く。
どうして、と思っていた。
どうして私は、こんな大切なことを忘れてしまっていたのだろう――。
窓ガラスががたがたと揺れている。
そういえば、この地方に台風が近づいていると、昨夜のニュースで聞いたばかりだった。
「お茶でも、お持ちしましょうか」
婦警の、気遣うような声も、唸る風の音に紛れている。
しばらく身じろぎもしないまま、凛世は自分の中の景色を見つめ続けていた。
胸の、底の、さらに底に――意識的に閉じ込めていた景色を。
「……また、日を改めましょう。そのほうがいい」
沈黙に耐えかねたのか、狩谷が立ち上がろうとする。凛世は首を横に振った。
「大丈夫です」
灰色の靄の向こう。
「もう……全部思い出しましたから」
※
十二歳の夏。
一人の青年が御堂屋敷にやってきた。
製薬会社の次男坊で、東京大学理工学部在住。
もったいぶった紹介は覚えているのに、肝心の名前は――覚えていない。
「凛世ちゃんに、勉強を教えにきたんだよ」
背が高く、日焼けした肌に白い歯を持つ明るい青年は、一日で屋敷中の人気者になった。
「テニスが趣味なんですって」
「優しいし、親切だし、本当にハンサム。もしかすると、だんな様が、凛世様の入婿としてお考えの方かもしれないわよ」
誰もが最大の好意を男に向ける中、当の凛世一人が徹底して反発していた。
あの頃も、今も、朋哉のこととなると、凛世には特別な勘が働く。
父が、朋哉を嫌い、朋哉から片時も離れない末娘を苦々しく思っていることを、凛世はよく知っていた。
新任の家庭教師は、父が二人の仲を引き裂くために送りこんできたのだと――凛世はむしろ、強い憤りさえ感じていたのだった。
実際、男は、何かにつけて朋哉を遠ざけ、侮辱し、自身の優位をひけらかす材料にした。
朋哉は、どんな嫌がらせをされても、淡々と要求に従い、主人面の男に仕え、凛世とも距離を置くようになった。
嫌な夏だった――最悪の夏。
そして、あの日がやってきた。
どうして、あんなことになったのだろう。灰色の靄は晴れても、凛世の記憶には、なお黒点のような穴がある。
朝から、異常に暑かったのをよく覚えている。眩しいほどの太陽は白く、耳鳴りのように蝉が鳴いていた。親戚の行事の手伝いに、家政婦さんたちは皆駆り出されて――一人きりで勉強していた午後、男がふらりとやってきた。
無理に、外に連れ出されて――「たまには身体を動かさなきゃ」「いつも部屋にいるから、凛世ちゃんの肌はこんなに真っ白なんだね」猫のように甘い声が、蝉の音に交わって。
強烈な頭痛、白い太陽、そんな断片だけが思い出せる。
(――お忘れなさい……)
悪夢と高熱にうなされながら、ずっと、朋哉の声を聞いていたような気がする。
(――何もなかったのでございます)
(――大丈夫、何もなかったのでございますから……)
そこから先は、凛世には本当に闇だ。灰色ではない、真っ黒に塗り潰されている。
随分長く伏せっていたような気がするし、ほんの二、三時間だったような気もする。
目が覚めた時、男の姿はどこにもなく、普段どおり微笑する朋哉の美しい顔には、一筋の傷ができていた。
その怪我は、どうしたの?
凛世は訊いた。
朋哉は、ただ、笑うだけだった。
私のために、出来た傷なのね。
それだけは、どんなに否定されても揺るがない確信があった。
(お気に、なさいませんように)
凛世の手を取り、そっと布団の中に戻しながら、朋哉は静かな眼差しで微笑した。
(私は、あなた様を守るためだけに、存在している……)
何故だろう。
朋哉の手を握りしめながら、凛世は突き上げる幸福と理由の判らない不安で、泣いた。
(私は、そのためだけに存在しているのですから)
あの時ほど強く、自分が朋哉に大切にされていると実感できたこともない。
あの時ほど強く、自分には朋哉が全てだと実感できたこともない――。
2
(――助けてくれ)
風の音が激しくなる。
窓ガラスに、鈍い気圧の塊がぶつかってくるようだ。
雨に濡れた薔薇の花片が、ガラスに張り付いている。
「凛世様、お食事はいかがなさいますか」
何度目かのまさ代の声が、扉の向こうから陰鬱に響く。
凛世は答えず、ただ、膝を抱き続けていた。
(病院に搬送された大学生が、意識を取り戻してまず言ったのがそれだったそうです。助けてくれ、あいつは化け物だ)
狩谷から聞かされた、当時の事件の顛末を、闇を見つめたまま、思い返していた。
朋哉の傷を見る度、幸福の裡に不思議な不安を感じていたのは、決して思い違いではなかった。それどころか朋哉の深淵は、凛世が夢想するよりなお、暗いところにあったのだ……。
(顔色ひとつ変えなかったそうです)
(臼歯をへし折り、鼻や顎が砕けるほど尋常でない暴力を振るいながら、朋哉君の表情はきわめて静かで、警察に取り押さえられたときも、むしろ夢でも見ているような眼差しをしていたと)
(彼は、一種の……病気なのではないかというのが、当時の少年課の見解でした)
――病気。
凛世は思わず眉を寄せる。
(一見繊細で、優しそうな男に限って、内面に、凶暴なものを秘めている。朋哉君の場合、さらに言えば、暴力を理性で制限できない所見も見受けられる。もしそうだとしたら、犯罪プロファイリングの典型的なケースです)
違う。
朋哉は違う。そんな人じゃない。
闇から聞こえてくる声遮るように、凛世は耳を塞いでいる。
(それから半月も経たない内に……ご記憶ですね。件の事件が起こりました。あなたの家の使用人の娘が、殺されたという事件です)
(当然、朋哉君は最初から第一容疑者でした。ご理解いただけると思いますが、徹底的にマークされた。悠木朋哉は今でも、警察のファイルでは、第一級の危険人物であり犯罪者なんですよ)
(櫻井厚志の事件を機に、本庁ではもう一度、八年前の事件を洗い直そうという気運が高まっています。御堂の先代もお亡くなりになられた。……朋哉君の逮捕は、こういっていいなら、時間の問題かもしれませんね)
――朋哉……。
髪をかきむしりたいような慙愧の中で、凛世は震える膝を抱き続けていた。
どうすればいいの?
全ての起こりが、私のためだったとしたら。私のために、朋哉が犯してしまった罪のためだったとしたら。
私は、どうしたら――。
(僕が知りたいのは、朋哉君の動機の根、とでもいうのかな)
(彼を突き動かしているものの正体を知りたいんです。僕もあなたと同じで、朋哉君がただの殺人狂とは思えない。……彼を動かす根を見つけることは、同時に、彼を救うことになるとは思いませんか?)
凛世は、目を閉じる。
(先日も言いました。全ての事件はひとつの輪で繋がっており、輪が朋哉君なら、鍵はきっと、あなただと)
(あなたは、彼の根を知っているんです。きっと無意識に知っている。だからお姉さんは、あなたを朋哉君から遠ざけようとしているのではないのですか)
狩谷の言葉を、全て信じたわけではなかった。
それでも、凛世は、もう知っている。
十二歳の夏、凛世には朋哉が全てだったように、朋哉にも凛世が全てだった。
勘違いでも思いこみでもない、当時の凛世は、知っていたのだ。
だから、何があっても耐えられたし、忌わしい出来事も乗り越えることができたのだ。
――朋哉……。
私も、いらない。あなたのためなら、この先の人生なんて何もいらない。
私に、何かできることがあるの……?
あなたのために、私に。
雷鳴が鳴り響く。照明が瞬いて、消えた。
狩谷は何を言いたかったんだろう。すべてが輪で繋がっている? 輪が朋哉だというなら、事件の共通項も朋哉だということだろうか。
母の失踪まで? 当時朋哉はまだ小学生だったはずなのに。
本当に共通項は朋哉だけだろうか。そうじゃない、何かがそこにあるはずだ。何か――狩谷はそれを、感覚として知ってはいるが、事実としては知らないのだ。そう、だからあんな言い方をして、探ろうとしたに違いない。姉の言うとおり、確かに狩谷の話には、いくばくかのブラフがある。
不審だと言えば、姉の態度も凛世には謎だ。
朋哉に近づくのだけでなく、狩谷に近づくのさえ、ひどく嫌がっているように思える。
朋哉に不利になる証言など、例え知っていても、凛世が口にするはずがない。姉もよく知っているはずなのに。
もしかすると。
ふと、顔を上げていた。
――私が無自覚に知っている何かが、姉をひどく恐れさせているのではないだろうか……。
暗闇の中、凛世の頭に、ひらめくように金色の文字が浮かんで消えた。
わかった。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
姉が日野原佳貴を使ってまで、手に入れようとしていたもの。
<怪物とお姫様>
あの本に、何かの秘密が隠されているのではないだろうか。
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