8

 目――。
「とても暗示的でしょう」
 狩谷の声が、ひどく遠くに聞こえている。
 闇のような恐怖が、凛世の身体を抱きすくめている。
 目――殺された女の目、朋哉の目、絵本に出てくる怪物の目。
 いったいどういう符号だろう。それは、本当にただの偶然だろうか。
「朋哉君の左目は、あれは名誉の負傷だと聞いていますが、あなたは何かご存知ですか」
 鞄の中で、携帯がふいに震えだした。
 びくり、と凛世は肩を震わせる。
「不思議ですね、ああいう怪我を、私は始めて目にしましたよ。普通はね、こう」
 狩谷は両手で、自身の目のあたりを覆ってみせた。
「庇うものなんです。人間はね、本能的に顔への攻撃を畏怖するようにできている。まず、手に、防御した時の抵抗傷ができるのが普通でしょう」
「朋哉は……抵抗しなかったと」
「外傷的にはね、したようには思えません」
 わずかな沈黙があった。
「何故、目だったんでしょうね」
 不意に凛世の手肌に、鳥肌が立った。
 さっきから、何かがずっとひっかかっている。喉元まで出てきて、それがどうしても思い出せない。
「御堂山の怪物は、目を食うという話ですね。最初にも言いましたが、昔も同じような事件が、実際、御堂山であったのだと思います」
「お調べになったんでしょう?」
「ええ、けれど、それらしい文献は何一つ出てきませんでした。図書館にも郷土資料館にも行きましたがね。今は紛失したと、判をついたような返事ばかりでね」
 暗い双眸が、心の底を読むように覗き込んでくる。
「あなたの屋敷に、何か、それらしい文書が残ってはいませんか」
 一時変わりそうになった表情を、凛世は目を伏せて誤魔化した。
 <怪物とお姫様>
 すぐに思い直す。馬鹿馬鹿しい、あれは絵本で、作り話だ。そう、御堂山をモデルにした――でも、モデルになったのは場所だけだろうか、登場人物に、本当にモデルはいなかったのだろうか。
 鞄の中では、まだ携帯が震えている。
 不安と恐怖で、全身が震えだす。
 もういい。
 もう、何も聞きたくない。私には、この先に進む勇気はない。
 狩谷は容赦なく続けた。
「君の家は、不思議なほど何度も、過去、暗い悲劇に見舞われていますね」
 夜の闇の中に、狩谷の声が溶け込んでいるような気がした。
「神隠しと噂された母親の出奔に始まり、元使用人の不審死、執事が片目を失い、続くように父親が死に、そして……かつて母親の恋人だった男が、またもや不審な死を遂げている」
 乾いた眼差しの奥には、虚無があった。
 暗い空洞のような瞳。そこには、感情を捨て去った男の、純粋な使命感だけがあるような気がした。
「僕はそれらが、全てひとつの輪で繋がっていると思っています。その輪が朋哉君で、輪を解く鍵があなたです」
 私が鍵――。
 俯き、耳を塞いだまま、凛世は狩谷の言葉の意味を考える。
 そうだろうか、朋哉が選んだのは、私ではなく姉なのに。
 が、否定する反面、凛世個人というより御堂の家そのものが、朋哉を繋ぐ鎖なのではないかという予感がする。
 朋哉の存在自体が、時々、凛世にはたまらなく哀しい。
 代々執事の家に生まれたというだけで、当然のように執事職を継ぎ、主家の忠実な僕になる。
 頑なに忠誠を守り、我が身を犠牲にし――佳貴の言うとおり、確かにそれは全時代の遺物である。なのに、朋哉は、手足を縛る鎖を、おそらく重荷とも思っていないのだ。
「朋哉君は賢い、彼の行動には、必ず何かの理由がある。僕はね、それが何なのか、ずっと考えていたんですよ」
 再び、狩谷の声が、閉ざそうと塞いだ耳に響く。
「そうすると、不思議なことに、どうしてもあなたに行き着くんです。あなたにとっては、思い出したくもない過去かもしれないが、あなたが日本にいた最後の夏の出来事に」

        9

「今日は一体何をやっていたの」
 香澄の声は、邸内に響き渡るほど、ヒステリックで甲高かった。
「どうして携帯に出ないの、あれほど、警察には気をつけなさいって言ったじゃないの!」
「……ごめんなさい」
 リビングのソファに腰掛けている香澄の前に、まさ代がかしづいて、グラスを差し出している。
 接待かパーティか、白い肌を薄赤く染めた香澄には、いくばくかのアルコールが入っているようだった。
 仕事から帰宅した姉に呼び出されたのは、深夜に近い時刻である。
 夜着にカーディガンを羽織ったままの姿で、凛世は無言で目を伏せた。
 珍しく濃い化粧をし、ドレススーツをまとった香澄は、グラスの水を一口煽る。
「狩谷が来たのね」
「……ええ」
「大学には通報したんでしょうね」
「…………」
 グラスが、強い音を立ててテーブルに置かれる。
「そんな機転さえきかなかったの? あなた、いくつ? いつまで子供のままでいるつもり?」
 拳が乱暴にテーブルに置く。弾みで、グラスの氷がはじけ飛ぶ。
 タンブラーを手に、おろおろした目で、まさ代が布巾を取るためなのか、立ち上がる。
「何を聞かれたの」
「……何も、ただ、話を聞いただけ」
「何の」
「昔の事件のことを……色々……私から喋ったことは、何もないわ」
 香澄が、ぴくり、と眉を寄せる。凛世は恐ろしさのあまり、視線を下げた。
「彼は、盲目になっているのよ」
 吐き棄てるような声だった。
「最初に自分でたどり着いた朋哉のことが忘れられないの。どんなに状況証拠で否定されても、どうしても朋哉がやったと、そんな思い込みから逃げられないでいるのよ」
「朋哉は……うちのメイドの娘さんと、本当に」
「馬鹿ね、そんなもの、狩谷のブラフよ」
 勇気を振り絞って聞いた凛世を、香澄は、鼻で笑って切り捨てた。
「証拠なんて何もないの。だからあなたを揺さぶって、何かを聞きだそうとしてるんじゃない。そんなことさえ判らない、だからあなたは子供だと言っているのよ」
 そうだろうか。
 凛世は、暗く翳った狩谷の目を思い出す。
 そこに、駆け引きでない真実を見たような気がしたのは、やはり私が子供だからなのだろうか。
「だいたい朋哉が、そんな得体の知れない女を、本気で相手にすると思ってるの?」
「…………」
 姉の言い方に、自然に顔が強張っている。
「何、その目は、私が死者を冒涜しているとでも言いたいの」
 煙草を取り出しながら、香澄は苛立たしげに言葉を繋いだ。
「凛世は知らないのよ、悠木家の人間が、どれだけ古びた忠誠心と使命感を持っているか。彼らは主家の許しなしに、決して婚姻もしないし、恋愛もしない。そんな感情さえ、厳しく封印されているのよ」
 前時代の遺物だね、いつだったか、佳貴がそう言っていたのを、凛世は胸苦しさと共に思い出していた。
「知っているわ……朋哉に子供の頃、聞かされたことがあるから」
 朋哉の言葉を聴いたときの、不思議な寂しさを思い出し、凛世は思わず瞼を伏せる。
「朋哉があなたにそう言ったの? そう、ふふふ、あははは」
 何故か、不意に破顔した香澄は、白い喉をみせつけるようにして笑い出した。
「あなたが生まれる頃には死んでしまったけど、朋哉の母親はね、それはそれは、忠実な従僕であり、おそろしいほど使命感の強い執事だったわ。世が世なら、死さえいとわない覚悟とでもいうのかしら。馬鹿げてるわ、この平成の時代。凛世もそう思わない?」
 姉は随分、酔っている。
 戻ってきたまさ代が、心配げな眼差しを、女主人に向けている。
「一族に伝わる秘密を守るために、近親婚を繰り返して……挙句、短命で、次から次へと若死にしていくの。馬鹿みたい、朋哉もいくつまで生きられるのかしら」
 悠木家の者が、偶然か必然か、短命なのは知っていた。
 朋哉の父は三十二で、母もまた、同じ年で死んでいる。稀に長く生きても四〇余り、ゆえに、最後の一人が朋哉なのである。
 判っていても、それがただの偶然で、医学的根拠などないと頭では理解していても――姉の言葉に、凛世は強い憤りを感じていた。
「明日からしばらく、休講なさい」
 笑顔を消した香澄は、煩げにそう言って、片手を振った。
「大学なんて行かなくていいわ。結婚してから、向こうの大学に編入なさい、朋哉に言って、休学の届けを出させるから」
 不意に、狩谷の声が、耳元で響いた。
(あなたは、知りたくはないですか、自分が、本当はなにから遠ざけられているのか)
(僕なら、何もかも知って飛び出す人生を選びますがね)
「わかったら、さっさと寝なさい、退屈なら、習い事を少し増やしてあげてもいいから」
「大学へは、行くわ」
 それが、自分の口から出た言葉だと、しばらく凛世にも分からなかった。
 香澄もまた、聞いた言葉が理解できないのか、不思議そうな目で凛世を見上げた。
「大学のことで、お姉さまに指示される必要は、ないと思うわ」
「……何を言っているの」
 意味を解したのか、やや、呆れた顔で香澄。
「大学へは行きます。それと、もう送迎はいらないわ、一人で、電車で通うから」
「凛世、あなたね、自分の置かれた立場が」
「朋哉のことで」
 凛世は、姉の言葉を遮った。
 ずっと抑えてきた感情は、一度溢れるととめどなかった。
「日野原さんとの縁談が破談になるなら、仕方のないことだと思うわ。それより私、結婚を延期してもいいから、本当のことが知りたいの」
 顔を薄赤くして、しばらく黙っていた香澄が立ち上がった。
「本当のことって、何かしら」
 冷やかな声だった。
「都合の悪いことになると逃避ばかりしているあなたに、真実を知る勇気があるのかしらね」
「あるわ」
 きっぱりと凛世は言った。刹那、頭を覆っていた灰色の靄に、一筋のひびが入ったような気がした。
(――大丈夫でございますよ)
 声が、
(――何もなかったのでございますよ)
 声が、靄の向こうから聞こえてくる。
 灰色の、靄の向こう。
 凛世は、胸のクルスを握り締める。
「もう、怖くないわ」
 這い上がる悪寒をこらえながら、凛世はそれでも姉から目を逸らさなかった。
「それが朋哉のためになるなら、なんだって思いだすわ」
 香澄の眉が、わずかに動く。
「思い出して……知って、あなたはどうするのかしらね」
「お姉様には関係のないことよ」
 姉の美しい目は、むしろ憎しみに燃えているような気がした。
「忘れないで、あなたを今、養っているのはこの私よ」
「来月には二十歳になるわ」
 凛世もまた、初めて知る感情で、姉を見つめながら言った。
「お父様の遺産は、私とお姉様で平等に分割されるはずだわよね」
「……お父様と言ったわね」
 一瞬蒼白になった香澄の顔に、新しい血の色が上がってきた。
 白い手が、グラスを片手ではねのけた。
 まさ代が悲鳴をあげる。その手から、水の入ったタンブラーをもぎ取って、香澄はそれを振りかぶった。
「気安くお父様だなんて呼ばないで!」
 覚悟していた真実。
 その扉に、姉が確かに手をかけたのだと、震撼するような気持ちで理解した時だった。
「何するの、離しなさいっ」
 黒い影が、香澄を背後から抱きとめた。
 黒の執事服に身を包んだ朋哉が、香住の腕を掴み、自身の身体に引き寄せるようにして、その動きを止めている。
「あぶのうございます」
 姉は、獣のように暴れたが、朋哉の声は冷静だった。
「お前には関係ないわ、離して!」
「お部屋でお休みなさいませ、すぐに、入浴の用意をさせましょう」
 大きく、肩で息をしていた香澄の目に、ふいに涙が膨らんで零れた。
「……朋哉……」
 両手で顔を覆う香澄を、背後から朋哉が抱きしめて、抱きかかえる。
「まさ代さん、着替えを」
「わかりました」
 凛世はただ、呆然と見つめていた。
 初めて見る、姉の人間らしい乱れた姿と、初めて見る、恋人としての二人の姿を。
「汚いわ」
 ほとんど泣いている姉の唇から、そんな呟きが聞こえてきた。
「けがらわしい、けがわらしい、けがらわしい」
 そして朋哉の胸を責めるように叩く。
 叩かれる朋哉は、表情ひとつ変えないまま、横抱きにした香澄を守るようにして、凛世一人が残るリビングを出て行った。







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