6

「御堂山の、怪物の伝説は知っていますか」
 男の口調は笑っていたが、目はまるで笑ってはいなかった。
 黙って大学構内から出てしまった。友人たちも、むろん朋哉も心配しているだろう。
 凛世にしてみれば、帰国してはじめての暴挙であり、冒険だ。
 車は、この男の私物なのだろう。少し乗り心地の悪いセダンは、いかにも私生活を捨てた独身男性らしい味気なさで、多少年代がかっている。
「僕は、御堂山の麓にかつてあった廃村の生まれでしてね。あの山は、正式名称を黒窟山というのですが、誰もそう呼ぶものはいなかった。山の頂に城を有していた昔の君主の名をとって、ずっと御堂山と呼ばれていたんです」
「それは……聞いたことが、あります」
 城の君主が、御堂家の祖先だ。
 山裾一帯を支配していた大地主だったが、戦乱の世が終わる頃には、落城の憂き目にあい、国主としての御堂家は、歴史から姿を消した。しかし一族は累々と生きながらえ、再びこの地で再興したという。
「僕の祖父母は若くして死んだとのことですが、元々は御堂家の小作人だったという話です。村に住んでいた古い人間はみなそうです。まぁ、そんな昔話はどうでもいいことですがね」
 男は自嘲気味に続けると、薄い苦笑を漏らした。
「御堂山には人を食う怪物がいる。迷い込んだら、片方の目を食べられる。そんな不気味な伝説を聞いたことはありませんか」
「目?」
 凛世は思わず声をあげていた。
 目を食べられる。
 御堂山のよからぬ噂は、子供時代から耳にしているが、そんな逸話は初めて聞いた。
 目、片方の目。
 なんと不吉な符号だろう。<怪物とお姫様>では、人の目を食う怪物が、物語の半ばで自身の片方の目を失った、そして朋哉。
「それは……誰から聞いた話なんですか」
「死んだ祖父からですよ」
 なんでもないように、狩谷は肩をすくめる。
「子供の頃うんざりするほど聞かされました。悪い子は目を食われる、山の怪物に目を食われるとね」
 凛世の胸を、嫌な動悸が満たしていく。初めて聞く話のはずなのに、どこかで耳にしたような気もする。
「伝説には、起こりとなる事実が必ずある」
 狩谷の横顔がわずかに笑った。
「実際、そういう死に方をした者がいたんでしょうね、御堂山で。怪物などという虚構が出てきたのは、犯人が見つからないまま迷宮入りしたせいだと思います。まぁ、それでも子供の頃は、あの黒い山が怖くて仕方なかったのですが」
 足元から、不思議な不安が這い上がってくる。
「怪物の山に、まるで守られているかのように暮らしているあなたがた一族も、子供だった僕には、恐ろしくて仕方のない存在でした。なんの因果か、大人になって、その屋敷に足を踏み入れることになりましたがね」
 窓ガラスが振動で揺れている。凛世は一度も離さないバックを抱きしめる。
「あの時は」
 狩谷が、わずかに目をすがめた。
「僕から見れば、まるで魑魅魍魎だらけの屋敷の中で、君だけが、まるで異質な、穢れない光を放っているように見えたんですよ」
 凛世は黙って男を見上げる。不思議なことに、今初めて、男の素の言葉が聞けたような気がしていた。
「子供に言うような言葉ではなかったと、後から反省しました、申し訳なかった」
「朋哉を疑ったのは、どうしてだっんですか」
 凛世は、胸に溜めた言葉を、初めて吐露していた。
 狩谷は笑う。
「説明しませんでしたか? 彼を疑うに足る、十分な理由があるからですよ」
「そういう意味じゃない……」
 凛世は首を横に振った。
 ステアリングを握る人は、イメージしていたほど悪い男ではないような気もした。が、彼が、朋哉を狙う狩人だということに変わりはない。
「刑事さんは、……最初から朋哉を捕まえたくて、うちに来たような気がするんです。今回だけじゃなくて、八年前もそうです。理由は判らないけど、……そんな気がするんです」
 最初から、この男は朋哉に狙いを定めている。
 多分、表向きの事件とは、全く別の理由で。
 不思議だった。曖昧な記憶しかないはずの夏。なのに、それだけを強く、凛世は今でも確信している。
 狩谷の横顔が、わずかに翳のある微笑を浮かべた。
「あなたの勘の強さは、いったい、どこから来ているのかな」
 からかうように言われ、逆に凛世は言葉に詰まる。
「ただ、どう勘ぐられようと、警察組織は、僕一人の思惑では動きません。八年前も、今回も、です」
 今回は――櫻井厚志の件では、確かにそうだろう。あまりにも納得できない点が多すぎる。警察が朋哉を疑うのも仕方がない。
 凛世は胸苦しさを感じて目を伏せる。では、八年前は、どうだったのだろう。
「……八年前……うちの、使用人の家族が殺された事件では、朋哉はどうして容疑者にされたんですか」
 車が交差点に入る。しばらく運転に集中していた狩谷が、息を吐くように呟いた。
「本当に話してもいいなら、全てお話しますがね」
「どういう意味です」
「あなたには、当時の記憶が殆んどないと、お姉さまから、伺っていましたから」
 灰色の靄――凛世は首を振っていた。また、足元から悪寒が忍び寄ってくる。
「あれは、君が日本にいた最後の年でしたね。君は十二で、朋哉君は十八、当時、この地域一帯を震撼させた、陰惨な殺人事件が起きた」
 暗く翳る狩谷の目に、冷ややかな隠火が揺れているようだった。

      7

「犠牲者は十九歳の準看護士、地元の私立S病院に勤務していました。夜勤明けの帰宅途中に消息を絶ち、早朝、犬の散歩中の主婦によって発見された。現場は御堂山の麓から国道に抜ける車道脇の山林。目撃者はいない、盗まれたものもなければ、これといった遺留品もない。抵抗した跡もなく、性的な乱暴をされた形跡もない。犯人は顔見知りによる怨恨か、もしくは快楽殺人ではないか――手がかりはそれくらいでした」
 初めて耳にする生々しい犠牲者の状態。あらましは新聞で読んで知っていたが、最後の言葉が、凛世の耳に引っ掛かった。
「快楽殺人って……どういう意味なんですか」
「まぁ、遺体の状況からね」
 何故か曖昧に言葉を濁し、狩谷は火を点けない煙草を唇に挟んだ。
「捜査が進む中、彼女が親しくしていた男性の一人に、当時、まだ十七歳だったある少年の名前が浮上してきました」
 少年。
 凛世の鼓動が、強く波打つ。
「少年は、S病院に入院中の親族の付き添いで、再々当院を訪れていたそうです。片や犠牲者は、元々少年と一緒に住んでいた。……ご存じかと思いますが、御堂屋敷で。少年は執事の息子。犠牲者は住み込み家政婦の娘でした。二人は再会後、急速に親しくなり、どうやら男女の間柄になったんでしょう」
 凛世は、自分の顔から、血の気が引いていくのが判った。
 そんなの、ありえない。
 そんなの、絶対にあり得ない。
「犠牲者と少年が、再々密会していたことは、院内では周知の事実だったそうです」
「やめて」
「何か、ご不快なことでも言いましたか」
「やめてください!」
 叫ぶように言い、凛世は耳を塞いでいた。
 伯父が入院していた病院だ。
 あの頃、朋哉は、毎日のように、着替えや差し入れを届けに通っていたはずだ。
 犠牲者は――かつて御堂家で、住み込み家政婦として働いていた女の、一人娘。
 名前は、もう忘れてしまった。凛世が小学校に上がる頃には屋敷を出て寮に入ったそうで、そのせいか、殆んど印象に残っていない。
 女中だった母親は、事件後、屋敷を辞去してそれきりのはずだ。
「それほどまで疑わしいなら、どうして朋哉を逮捕しなかったんですか」
 震える声で、凛世は訊いた。灰色の靄が――記憶を覆う靄の向こう側の景色が――少しずつ、恐ろしい正体を露わにしていく。
「お姉様からお聞きになりませんでしたか。上から、ストップがかかったので」
 動揺を隠せない凛世を見下ろし、狩谷は余裕のある笑みを滲ませた。
「あなたには、実感がないと思いますがね」
 狩谷は、暗い目を、ウインドウ越しの空に向ける。
「御堂山一帯の町で、御堂家の力というのは、それはすごいものがあるんです。古くからいる住民の殆どは、かつての奉公人であり、新たな住民もまた、経済面で、なにがしかの恩恵を受けている……」
「だからなんだと言うんです」
 反抗的に口を挟んだ凛世を見下ろし、男は憐れむような笑みを浮かべた。
「君のお父上が海外から戻られて以来、昔の奉公人たちは、貝のように口を閉ざして開こうとしなくなりました。S病院の関係者も同じです。一転して、証言は誤りだった、間違いだったと言い張るばかり。挙句、被害者の母親まで……娘と悠木朋哉は無関係だと、直訴してくる始末でね」
 他にも、色んな所から捜査中止の要求があったようですがね。
 低く続けて、狩谷は笑った。
「起訴まで持って行けても、公判維持は不可能だと、そういう判断になったんですよ。しかも十八歳未満の少年ですからね、相手は」
 衝撃で、凛世はしばらく動けなかった。
 そんな――そんなこと、信じない。信じられない。
「法務省、警察庁、挙句、政治家にまで顔がきくあなたのお父上は、よほど朋哉君が可愛かったんでしょうねぇ」
 そうだろうか。
 凛世には、父と朋哉の、殊更強い接点は思い浮かばない。むしろ、嫌悪していたようにさえ思いだされる。
 可愛いというより、それはむしろ、御堂家への余波を防ごうとしたのではないだろうか。
「……朋哉の、動機はなんなんです」
 凛世は、震えを堪えながら聞いた。まだ、それでも救いはどこかにあるような気がした。
 仮に――朋哉が、その人を愛していたとして。
「朋哉に人殺しをする理由がどこにあるんですか!」
 車が、交差点で止まる。
 凛世を見下ろす狩谷の目が、暗い空洞のように見えた。
「それは、御堂家の方が、ご存知なのではありませんか」
 意味が判らず、凛世はただ眉を寄せる。
「僕があなたに聞きたかったのも、そこなんです。彼の本当の動機は何なのか」
「どういう意味です……」
「最初に話しましたね。御堂山には目を食べる怪物が棲んでいると」
 ぞくり、と寒気がした。
「それが……なんの関係があるんです」
「マスコミには公表しなかった、犯人だけが知りえる秘密というのがありましてね」
 凛世は、息をあえがせながら男を見上げた。
 靄が……少しずつ晴れていく。
 その向こうに立っているのは。
「凶器は小刀状の鋭利な刃物。被害者の女性は、全身を滅多刺しにされた上、左目を抉り取られていたんですよ」
 立っているのは――。







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