17
薄い夕闇が、海岸沿いを走る国道を薄紫に染めていた。
「……皆斗は、一皮むけたな」
車を運転していた利樹が呟くように言った。いつも饒舌な男は、病院を出てから、何故かずっと無言だった。
「あいつ、腕が立つくせに妙に相手に遠慮する癖があってな。……なまじ腕が立つからできるんだろうが、がむしゃらに相手にぶつかる気迫がなかったんだ、昔はな」
日名子は黙って聞いていた。
病院で飲んだ鎮痛剤のせいか、少しだけ眠たかった。
「俺に言わせれば慢心もいいとこだ。藤王もそれを見抜いたから、徹底的にしごいたんだろう。三年連中がしたことは卑怯極まりないが、皆斗はそこまでされなきゃ、自分の奢りに気づかなかった」
「……そんなの、口で教えればいいのに」
流れていく景色を見ながら日名子は言った。利樹が、苦笑を浮かべる気配がする。
「自分の欠点は、どんなに指摘されてもなかなか認められないもんだ。身を持って痛い目に合わなきゃな……お前だってそうだろう」
「………」
――痛い目か。
日名子は軽く息を吐いた。その通りかもしれない。
「トシ君」
「なんだよ」
「……抱いてよ」
「………」
「そのために来たんじゃないの」
日名子は外を見ながら言った。
景色が次第に、薄い闇に覆われて滲んでいく。
「……何焦ってんだよ」
利樹の口調がわずかに変わる。
「合宿所は嫌だから」
「皆斗がいるからか」
「うん」
「なんで」
「好きだから」
「………」
「皆斗が好きだから……だから皆斗のいる所で、トシ君に抱かれたくない」
利樹は黙っていた。車のスピードが弱まり、そのまま緩やかに道路脇の道を下っていく。その先は浜辺だった。薄闇が背景を濁らせている。人気のない岩壁沿いに、車が止まった。
「……お前、今、自分がどれだけひどいこと言ったのか、判ってんのか」
利樹の声が怖かった。
闇は車の中まで落ちて、運転席の男の横顔も暗く霞んでいる。
「……判ってる。だからこれで帳消しでしょ、トシ君の嘘と」
日名子は言葉を切ると、顔を上げて、利樹を見上げた。
利樹の目は動じない。
「皆斗に聞いたのか」
「……トシ君、いつから煙草なんて吸ってるの」
「………」
「キスした時、トシ君の口からはいつも煙草の味がした。ほんの少しだけど、なんとなく判った。皆斗は煙草のことなんて知らないって言ってたから………だからその時、少なくとも最初の話は嘘だって判った」
「………」
「なんでそんな嘘をつく必要があったのかって、それから色々考えてみた……それで」
利樹の身体が覆い被さってきた。
日名子は拒まなかった。
そのまま――シートが倒され、シートベルトが外される。
「トシ君は、私のこと、好きなわけじゃないんだって気がついた」
「好きだよ」
唇が頬から喉を吸い、手が性急に衣服をたくしあげようとしている。
「トシ君は……私と皆斗に嫉妬してたんだ。私たちを引き離そうとしたんだ……そうでしょ」
「違う、……本当に、好きなんだ、お前が」
ジーンズのボタンに、利樹の指がかかる。
「それは、皆斗が私のこと、好きだから?」
答えはなかった。
不思議なくらい冷静だった。車の中というのは嫌だったけど、この冷静な気持ちのまま、利樹の身体を受け入れたかった。
「皆斗とトシ君さ……お互いに、何やってるのか判ってる?」
「…………」
「お互いムキになって、私のこと奪おうとしてるのは何で?」
「やめろよ、もう」
手の動きが荒くなる。わざと、怖がらせようとしているのだと、日名子は気づいた。それでも、以前のような涙は出てはこなかった。
「………皆斗は、やっぱ、トシ君が好きだよ……」
「…………」
「で、トシ君が好きなのも、……私じゃ、なくて」
「黙れって言ってんだろ!」
怒声と共に、掴まれた胸をねじられた。たまらず、痛みで声が漏れる。
「だったら、どうだっていうんだ」
爆発した男の怒りが、胸に直接刺さってくるようだった。日名子は、震えながら利樹を見上げた。
「皆斗は死んだって、男と恋愛できるようなやつじゃないさ。あいつのことなら、俺はとっくに諦めてるよ、だからお前を好きになったんじゃないか」
「………皆斗を、私に取られたくないからでしょ」
それでも、日名子は続けていた。
もう、有無を言わせない唇が、喉に強く押しあてられる。両手で、ジーンズを脱がそうとする。
「多分、皆斗もそれは同じだよ……。私をトシ君に取られたくないからじゃない、トシ君を、……私に取られたくないから」
「…………」
「それで、私のこと……好きって言ってるだけなんだと思う」
「……日名子……」
虚を突かれたような声がして、利樹の動きがようやく止まった。
日名子は顔を背けていた。堪えていた涙が、ふいに溢れそうになっていた。
「ごめん………私、今、トシ君を利用してる。……これで皆斗のこと、諦めようとしてる」
「ばかじゃねぇのか、お前」
ごん、と頭を叩かれた。
そのまま、利樹は起き上がり、面倒そうに髪を払う。
「……皆斗はお前が好きなんだよ。……あいつの好きになったもん、後から奪おうと思ったのは俺の方だよ。……お前の言う通りの理由でさ」
「…………」
「……でも、皆斗は違うぞ……皆斗は……」
日名子は無言で首を横に振った。
それは判っている。でも――もうひとつ、判っていることがある。
「トシ君には、いつまでも皆斗の親友やってて欲しい。……私、二人に嫉妬してたけど、二人の関係、本当はずっとうらやましかったから」
(―――俺とトシ君の間に……入ってくんなよ……)
皆斗は、無意識であんなことを言った。
多分――言った本人も気づかない、それもまた、皆斗の本心なのではないだろうか。例え恋愛ではないにしろ、自分一人を身てほしいという、強烈な独占欲。
「トシ君の隣が皆斗の居場所なんだと思う。それは、すごく大切にしなきゃいけない……宝物ような場所だって……私、マジでそう思う」
利樹が苦笑する気配がした。
「お前と皆斗って、……似てるよ」
どこか遠くから聞こえるような声だった。
「そんな同情ほしかねぇよ。むかつくから、痛い目に合わせてやりたいけど、やめておく」
日名子は目蓋を強く抑えて涙を堪えた。
「………そんなことしたら、二度と皆斗に友達やってもらえなくなるからな」
「トシ君……」
「迷ってるなら、とっとと皆斗に抱かれちまえ、そうすりゃ判るよ」
「…………」
「あいつ、目茶苦茶マジだからさ」
喉元まで、何かが熱く込み上げてきた。
日名子はそのまま動けなかった。
18
合宿所に戻った時は、もう八時を過ぎていた。
「お姉さん!」
食堂に行こうとしたら、すぐに扉が開いてあずさが飛び出してきた。
お姉さんと呼ばれ続けてきたこともあって、なんだかそれが、本当の妹から呼ばれたような錯覚を感じ、日名子は思わず苦笑している。
「もーっ、こんな遅くまで何やってたんですか、みんな目茶苦茶心配してたんですよーっ」
「ごめん、ちょっと待ち時間長引いて」
「今夜はみんなで焼肉だったんですよ、合宿の打ち上げパーティーだったのに」
あずさは日名子の手を引っ張って、そのまま食堂の扉を開けた。
その途端、歓声と拍手が沸き起こった。
何が起きたのか一瞬判らず、日名子は呆然と立ちすくみ、ただ、瞬きを繰り返す。
各テーブルには、まだ手をつけていない焼肉の食材が並んでいた。並べられた皿、コップ、ジュースのペットボトル。どの食卓も、まだ誰も手をつけていない。
総勢三十名もの部員たちが、それぞれ立ったり座ったり、拍手したり口笛を吹いたりして、思い思いの歓迎の意を示している。
「みぃんな、お腹空かして、お姉さんの帰りを待ってたんですよ。この貸し、どうやって返すつもりですかー」
背後から、あずさの、からかうような声がする。
「……私を? でも」
――なんで……?
まだ混乱している。たった二週間の手伝いマネージャーに、ここまでしてもらう義理はない。
「じゃあ、主役も来た事だし、始めましょうか、みなさん」
両手を振りながら、大きな声で告げたのは遠山だった。
「お姉さん、こっちこっち」
あずさに手を引かれ、連れて行かれたテーブルには、皆斗が座っていた。
「お帰り」
皆斗は、静かに微笑した。
どこか腹を括ったような、揺らぎのない表情だった。
「うん」
日名子は短く答え、用意された席に腰を下ろした。
「ええっと、じゃあ、この夏合宿の終了を祝して、恒例の焼肉パーティーを始めます。今夜ばかりは先輩後輩関係なしの無礼講ですから、みなさん、言いたいことがあったら何でも言ってください!」
「一年がそれ言ってどうするよ」
「それは、藤王さんのセリフだろうが!」
遠山というのは、どうやら典型的なつっこまれキャラらしい。
「えっ、あ、じゃあ、すみません、主将、挨拶お願いします」
散々な叱責を受けた遠山に指名され、藤王が一番奥のテーブルから立ち上がった。
同じテーブルに松田の姿を認め、日名子は何故かほっとしている。
藤王は相変わらずの無表情だったが、その眼差しは日名子が初めて見るような穏やかなものだった。
「まずはこの合宿のために、一番忙しい最中、手伝ってくれた水城のお姉さんに礼を言おう。ありがとう」
開口一番がそれだった。
日名子は心から驚いていた。
場内から拍手が起こり、次々に声が掛けられた。
「ありがとうっ」
「お姉さんは俺たちの心のアイドルでしたぁ」
「お姉さんのメシ、最高だったよ」
「俺、お姉さんみたいなお嫁さん欲しい」
「このままマネージャーやってくださーい」
呆然と、ただ、夢でも見ているような不思議な気持ちでその声を聴きながら、日名子はぼんやりと座っていた。
「……ま、そういうことだ」
藤王が再び口を開くと、場は一斉に静かになる。
「水城姉が、このままマネージャーをするかどうかは、弟に説得させるとして、とりあえずご苦労様、後は自由にやってくれ」
乾杯の音頭がとられると、日名子の前にはひっりなしに部員たちがジュースを注ぎにやってきた。
今まで、口もきいたことのない、外見が怖くて近寄り難かった者たちさえ、親しげに声をかけ、話をして、皆最後には、「二学期からもヨロシク」と言い残して去って行く。
「お姉さんがすごく頑張ってたの、みんな知ってるんですよー」
あずさは嬉しそうに、日名子の皿に焼けた肉を取り分けてくれた。
「私もこの二週間で、お姉さんの大ファンになりましたから。ひょっとして、マジで私が妹になっちゃったりしてー」
「は、はは……」
それには、微妙な笑いしか返せない。
皆斗はどんな顔をしているのだろう。そう思って隣を見たが、皆斗は落ち着いた眼で微笑しているだけだった。
隣のテーブルから、三年生たちが皆斗を手招きしている。皆斗は立ち上がり、その輪の中に加わった。
合宿の始め、三年生と皆斗との間には明らかに壁があった。それが今、肩を抱くようにして親しげに話し合っている。
――ここで、何かを得たのは私だけじゃなかったのか……。
子供のように声を上げて笑う皆斗の横顔を見つめながら、日名子は初めて心から安堵していた。
が、ひとつだけ、心に重く残る不安がある。
「――水城、少しいいか」
今夜中に、おそらく話があるものだと覚悟していた日名子は、黙って藤王について席を立った。
藤王は、日名子を促し、周囲の喧騒から少し離れた壁際に招き寄せた。
その表情の暗さから、いや、近づいてきた最初から、彼が何を言いたいのか判っていた。
「……水城の、顔の傷のことだが」
「藤王、それは本当に」
何か言いかける日名子を、男は手をかざして制止した。
「部のためを思って騒ぎたくないと言ってくれるのには、心から感謝している。ただ、けじめはつけなければならない」
「………」
「彼らには一足先に帰ってもらった。ひどく反省しているようだったが、許し難い犯罪行為には違いない。退学も視野に入れての、なんらかの処分が下りることになると思う」
「………公にしてほしくない」
日名子は少し唇を噛んで呟いた。
藤王は黙っている。
「私だって一応女だから、へんな噂がたったら学校に居づらくなる。できれば……煙草以外の件はなかったことにしてほしい」
おそらく、想定内の反応だったのだろう。藤王が、わずかに嘆息する気配がする。
日名子は、がばっと頭を下げた。
「お願いします! 絶対に誰にも言わないで! あいつらも、二度とあんな真似はしないと思う。トシ君がしっかり脅してくれたから」
「特に、弟には、か」
「…………」
やっぱり――見抜かれている。
日名子が恐れているのはむしろその方だった。松田と歯がぶつかったくらいで抑制を失う皆斗が怖い。もし、真実を知ったら、いったいどんな報復に出るか――。
「……判った」
しばらくの間があって、藤王の声がした。日名子は顔をあげている。
「ただし、全てを隠ぺいすることは許されない。公にはしない。あくまで、学校側で穏便に処理すると約束する」
そう言うと、藤王は深々と頭を下げた。
「本来なら、こんな打ち上げをしている場合ではないんだが………許して欲しい」
「え、……いや、何も藤王が謝らなくても」
逆に、日名子がびびっている。総勢三十名の猛者を束ねる、泣く子も黙る藤王暁。その、底知れない性格は、……やっぱり底が知れなかったが、なんとはなしに恐ろしい。
藤王は顔をあげると、案の定、不思議な微笑を浮かべて日名子を見下ろした。
「一言、言ってもいいだろうか」
「ど、どうぞ」
「女相手にここまで頭を下げたのは、俺の人生で初めてだ」
「そ、そうなんだ」
だから、どうだと言うのだろう。日名子は自然に後ずさっている。
ふっと、初めて藤王は、彼の底が垣間見えるような笑みを浮かべた。
「つまり、もう水城は特別だということだ」
「………………」
はい?
意味を図り兼ねて顔をあげた時には、すでに藤王は背中を向けていた。
なんだろう、とてつもなく嫌な予感が……。
「お姉さーん、どこ行っちゃったんですか」
その時、あずさの呼ぶ声がした。
テーブルの方を見ると、皆斗が手を振っている。
「姉貴、肉なくなるぞ」
「あ、うん」
日名子は歩き出した。
穏やかな喧騒の中、あちこちから、声が掛けられる。
言葉を返しながら、不思議なほどの幸福と心地よさを感じている。ここは――少なくとも今は、日名子の居場所なのかもしれない。自分の手で掴んだ場所。――
でも、もうひとつ、確かにしなければならない場所がある。
「トシ君は?」
席につくと、皿に野菜を取り分けながら、皆斗が何気ない口調で訊いた。
「………帰った、急用だってさ」
「そうか」
「皆斗」
自分の心臓が、鼓動を高めているのが判った。周囲の騒ぎ声も耳に入らないほどだった。
「なに?」
「今夜……私の部屋に来て」
「………」
箸を持つ皆斗の指が止まった。
「………待ってる」
「………うん…」
皆斗の顔を見るのが怖かった。日名子はコップに残っていたお茶を飲み干した。