19
窓の外から賑やかに聞こえていた歓声が、いつのまにか絶えてなくなり、外からは、秋虫の囁きだけが響き始めた。
――花火、……終ったな。
日名子は仰向けになって目を閉じた。
午前一時を過ぎている。
普通なら、皆斗が絶対に起きていられない時間だ。
もう来ないかな、とも思ったし、それでも皆斗は必ず来るだろう、とも思っていた。
日名子が一人で寝起きしている部屋は、勉強しやすいようにと、三階の離れた場所に取ってある。
他の部員たちの部屋は全て二階にあり、あずさは一階の管理人の隣の部屋を使っていた。
――大丈夫、だよね……。
覚悟は決めているものの、やはりここで――そうなるのは、気持ち的に集中できそうもない気がした。
早まったかな、と、少し後悔している気持と、これ以上待てない気持ちが、自分の中で拮抗している。
迷うように意識の底をたゆたいながら、そのまま眼を閉じていると、廊下からひそやかな足音がして、ゆっくりと襖が開いた。
日名子は、目を閉じていた。
「……姉貴、寝た…?」
「眠くなってきたとこ」
嘘をついていた。
「布団くらい敷けよ」
襖を閉め、畳が軋む音がする。
日名子はそのまま動けず、目を閉じたままで言った。
「布団敷いたら、いかにもって感じじゃない」
「いかにもなんだろ」
すぐそばに、皆斗の体温を感じる。
日名子はようやく目を開けた。
見下ろしている眼が、苦しいほど真剣だった。
「……なんか、こわい、あんたの目」
まだ、皆斗相手に真面目になるのが怖い。
日名子は少し笑って、身体を起こそうとした。
皆斗の腕が腰に回され、そのままうなじを支えられて、引き起こされる。
体温に包まれ、互いの心臓の音まで共鳴するように感じられた。
「誰がやった、それ」
見下ろす視線が、日名子の唇の傷に凝固している。
「……秘密」
「夕方、急に帰った奴らか」
「………秘密」
皆斗の胸に額を寄せた。鼓動が聞こえる。自分のものと変わらないくらい高まって苦しい心臓の音。
「トシ君は、いいのか」
皆斗の手が、背中をゆっくりと撫でている。
うなじを抱かれ、顔を上げさせられる。
「俺……姉貴の気持ち無視して、とまらなくなるかもしれない」
その苦しそうな声を聞いて、日名子は初めて肝心なことを言っていなかったことに気がついた。今言おうか、とも思ったが、それをどう伝えていいか判らない。
が、迷っている間に、唇が柔らかく押し当てられた。
皆斗のキスはいつも優しい、唇を開きながら日名子はそう思っていた。どんなに切羽つまっていても、どこか労わるような優しさがある。
「……痛い……?」
首を横に振る。少しだけ大胆になったキスが、傷口を甘く吸って、何度も舐める。
「……皆斗……」
「ん……?」
「あんた、なんか犬みたい」
「わんわん」
「ばーか」
互いに笑みを漏らしていた。それで、どこか硬かった皆斗の身体が柔らかくなる。多分――日名子も同じようになっている。
優しいキスに、次第に余裕がなくなってきた。
背に回された手が、指が、きつく脇腹にくいこんで、より強いキスを求められる。
「あ……」
「……姉貴……」
傷口が鈍く痛む、けれど次第に痛みさえ甘さに変わる。
日名子の呼吸が乱れていく、開く唇から吐息が漏れ、やがて無意識に甘いものを含みはじめる。
「み……なと」
思わず漏らした声も、激しいキスで奪われる。
口の中に、錆の味が広がった。多分、傷口から新しい血が滲んでいる。
皆斗の手が、何度も背中を撫でている。てのひらの温度が過熱していくのが、シャツを通じてはっきりと判る。
唇を求め合いながら、日名子は仰向けに倒される。皆斗の指がシャツのボタンを外し、肩からそっと下ろされた。
「……ん……」
肌に皆斗の温度を感じた途端、ぎゅっと胸が痛くなる。
心臓がどくどく鳴っている。切ないような胸の痛みと、触れられる箇所から感じるもどかしさに、日名子は細く声をあげて、皆斗の胸に額を当てた。
「可愛い……もっと、聞きたい、声……」
耳元で皆斗が囁いた。
ふいうちのような声に、日名子は、ぞくっと背筋が痺れるのを感じている。
耳朶に、首に、何度も濡れた唇が押しあてられる。
「姉貴……、聞きたい……欲しい」
「や……み、なと」
怖い。
皆斗の熱で、身体が溶けてしまいそうだ。
再び、皆斗が被さってくる。もの苦しいキスを交わす。舌が絡み、わずかな呼吸さえ奪われる。
「…っ、……、姉貴…」
強く抱き締めてくる腕。熱を帯びた身体。
日名子はその広い背を抱き締めた。そして気づいた。
また皆斗は、自身をそこで抑制している。ぎりぎりのところで堪えている。抱き締める腕の力で、日名子にもそれが判った。荒い呼吸で背中を上下させながら、皆斗はじっと動こうとしない。
――皆斗……。
泣きたくなった。
愛しい。
皆斗が愛しい。愛しくて切ない、切なくて苦しい。――
「皆斗……好き」
「………」
驚きも露わに自分を見下ろす弟の顔。その頬を抱いて、少しだけ引き離した。
そっと額を押し当てる。互いの眼を間近で見つめる。
「皆斗だけ、皆斗が欲しい……」
「……姉貴……」
まだ、戸惑いを残している皆斗の唇に、日名子は初めて自分から口づけた。
皆斗のように上手なキスは出来そうもない。ぎこちなく、ただ、唇をあわせるだけがやっとのキス。
やがて唇を離し、どこか呆然としている皆斗の頭を抱き寄せて、もう一度額を押しあてた。
「………皆斗に、抱いて欲しい」
「………いいのか」
「何度も言いたくない」
皆斗が堰を切ったように半身を起こす。性急な動作で、まだ身体にまとわりついていたシャツを剥がされ、皆斗自身も着ていたシャツを脱ぎすてた。
「本当に………いいのか」
日名子も身体を起こし、そしてただ、頷いた。
互いに膝をついたまま、抱き締めあう。日名子は目を閉じ、弟の広い胸に頭を預けた。
が、何故か皆斗は、そのまましばらく動かなかった。
「姉貴、出て行ったりしないのか」
「………」
その言葉に、思わず胸の中で眼を開けてしまっていた。
「……俺、ずっと怖かったから……一度でも抱いてしまえば、姉貴……あの家、出て行くような気がして」
「……皆斗…」
皆斗は鋭い。
日名子は初めて実感した。
肝心の気持ちには気づかないくせに、深い部分はちゃんと読んでいる。
「どこにも行かないよ」
日名子は皆斗の首筋に口づけた。ようやく皆斗の抑制の理由が理解できた。それがますます愛しさをかきたてる。もう苦しいくらいだった。
「……約束する、皆斗がいてくれって言う限り、あんたの傍から離れない」
「――…姉貴……」
そのまま日名子は、息が詰まるほど強く抱き締められた。
皆斗の唇が髪に触れ、額に触れ、唇の傷を舐めるようにキスされる。
両肩を抱かれて押し倒される。すぐに皆斗の脚が、脚の間に割り込んで来た。腰に回された手が、焦れたようにパジャマ代わりのジャージを脱がそうとする。
「……ちょ…そうと決まったからって、いきなりすぎない?」
「俺がどれだけ待ってたか、姉貴は想像できるのか」
「やめてよ、考えると怖くなる」
着ている物を全て剥され、皆斗の腕で両足を開かされた。
「……みな、と……電気」
全身を見つめている視線を感じ、さすがに羞恥で身体が震えた。
「いやだ、このまま、……したい」
「だ、……だめ」
衣服を取り払われた状態で、皆斗に組み伏され、見下ろされている。それは考える以上に恥ずかしいことだった。つい数分前まで、弟だった男に――。
「……お願いだから、電気、消して」
抵抗を試みても、その気になった皆斗には通用しない。
「すげぇ……ここに、入るのかな、マジで」
片足を抱かれ、その部分に皆斗が顔を寄せる、凝視している。
かぁっと、日名子は全身が熱くなった。信じられない、無邪気にもほどがある。
「ばっ…、もうやめるっ、この変態、離せっ」
「なんで?……だって、こんなに小さいのに」
どこか不安気な声がした。
もしかして――いや、そうでなかったらどうしようか、と思っていたが、やはり皆斗も初めてだったんだ、とその時ようやく日名子は気づく。
「……やめよう」
「え?」
なんだか、別の意味で不安になり、日名子は身体を起こして逃げようとした。
むろん、皆斗がそれを許さない。
「なんだよ、何か俺、悪いこと言った?」
「…………」
「あっ、女の人に小さいって言うのも失礼なんじゃ」
「ばーか」
頭をばしっとはたいている。
そうじゃ、なくて――。
「ちょっと……」
「ちょっと?」
「……怖いって、いうか」
「……? 怖い?」
皆斗の声が戸惑っている。
「……え……? なんで?」
――てか、お願いだから、察してよ!
そう思ったが、そのまま横を向いて黙っていた。
不意に、強い力で抱き寄せられる。びっくりして抗おうとすると、膝に抱えられるようにして強引に唇を塞がれた。
「ちょっ、皆斗……」
あまりの激しさに、腰が逃げる、それを掴んで引き戻される。
「なっ、なによ、人の話ちゃんと聞いてる?」
額を手で押し返して、皆斗の顔を引き離そうとする。皆斗は抗わず、その代わり、力いっぱい抱きしめられた。
「俺……嬉しくて、気が狂いそうだ……」
日名子は、身体の動きを止めていた。
「トシ君のことは、気にしないって決めてたのに……でも」
額があわさる。見下ろす瞳が、抑えた歓喜に輝いていた。
「俺が、……姉貴の初めてなんだ」
――皆斗……。
この期に及んで、なんて可愛いことを言うんだろう。
もう、愛しさで、胸が痛い。
正直日名子は、自身が処女であることについて、さほど拘りを感じてはいなかった。どうせ、いつかは失うものだし、いってみれば月経と同じで、破瓜も自然な変化のひとつだろうと、その程度の感覚しか持ち合わせていなかった。
でも……、今は、心から思っている。
皆斗のために、自分は今まで一人でいたのかもしれない。皆斗の初めてで、よかったな、と。
「……姉貴……」
もう、逃げられないな。
日名子は観念して、目を閉じた。