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 「お前、部屋から携帯取ってこいよ。ほら、こないだ自慢してた画素数の高いやつ」
 ――は??
 日名子は彼らの思惑を察して暴れた。けれど押さえつけられた手も足も、びくともしない。むしろ痛いくらいに痺れ始めている。
 三人のうち一人が、扉を開けて出て行った。
「マジで処女なのかよ、こいつ」
「なんか、妙な気分になるな」
 両腕を押さえられたまま、ジーンズのボタンが外される。
 日名子は声にならない叫びを上げた。暴れるたびに、胸に圧し掛かる重みが増して息が詰まる。容赦ない圧力で胸骨が軋んでいる。
「暴れんな、痛くなるだけだぞ」
「こうしてみると、マジで強姦してるみたいだな」
 ――マジでしてんじゃないか!
 目じりに、薄く涙が滲んだ。悔しさと憤りとで、目の前が暗くなる。彼らの背後で扉が開いた。カメラを取ってきた仲間が戻ってきたのだと思った。
「………おい、てめぇら、ふざけんのはそこまでにしたらどうだ」
 懐かしい声がした。
 日名子は霞みかけた視線を上げた。
 身体の重みが一時に取れ、日名子は自由になった腕で口のタオルを引き抜くと、呼吸を求めて激しく喘いだ。
「おう、説明してもらおうか、これは一体どういう次第だ」
 両腕を組んで、そこに立っていたのは二宮利樹だった。
 日名子を押さえていた者たちは、立ち上がったきり直立不動になっている。日名子の視界に映る彼らの肩が、気の毒なほど震えている。
「言ってみろ! 何を真似かって訊いてんだよ!!」
 びりっと窓が震えるほどの怒声だった。
 ――トシ君……。
 日名子は咳き込みながら、安堵の涙を手のひらで拭った。
 利樹の眉が、怒りでかすかに揺れているのが判る。多分――それでも、ぎりぎりの所で、感情を抑制しているのだろう。
「もういい、制裁は全部、お前らの主将に一任する」
 利樹が吐き捨てるように言った途端、三人が一斉に唇を震わせ始めた。
「てめぇらも恥があるなら、自分がするべきことの判断くらいつくだろうな!」
「……い、いいから、もう」
 日名子は呼吸を整えながら、利樹の腕を掴んでいた。悔しくはあったが、自分のことで剣道部に迷惑をかけたくない。――こういうところが、お人よしと馬鹿にされる所以なのかもしれないが。
 素早く衣服を整えながら、日名子は急いで言葉を繋いだ。
「それより、二人の竹刀がすり替えられてる。試合が始まる前になんとかしないと」
「なんだと?」
 利樹が、目の前に居並ぶ者たちをじろり、と睨んだ。
「どういうことか説明してみろ」
 三人は、もう蛇に睨まれた蛙状態である。致命的な弱みを掴まれたのもそうだが、もともと先輩後輩関係で、利樹に頭が上がらなかったのだろう。
「水城……君には、初心者用の軽い竹刀を使わせたんです。……それだと、どうしても打ち込みが浅くなるから」
 一人が、途切れ途切れにそう答えた。「それで……松田……君の竹刀には、少しだけ鉛が」
「藤王が使ってたやつか」
 利樹は呆れたように眉をあげた。「あの練習マニアが、素振り用に作らせた、常人には意味のないシロモンだ」
 それは、日名子に説明してくれたようだった。
「皆斗は、それで松田とやって負けたのか」
「まぁ、……そうです」
「で、これからまた、松田とやるわけか」
「……そうです」
「それは、藤王も皆斗も承知してるんだな」
「……多分」
「ならいい」
 利樹はそう言うと、苦々しく舌打ちをした。
「皆斗の件はともかく、お前らのしようとしたことは立派な犯罪だ。ただで済むと思うなよ。それから、言っておくが、水城日名子は俺の女だ」
 日名子はぎょっとしたが、ひっと三人が震えあがる。
「そ、そんなこと、俺たち、全然知らなくて!」
「本当ですっ、別にこの人を襲おうなんて気はさらさら、そもそも女として見たこともなくて」
「そんな気はこれっぽっちもおこりませんでしたっっ」
 なんだか日名子的には微妙な言い訳を繰り返す連中を、利樹は凄味を帯びた目で一蹴した。
「今度、日名子に指一本でも触れたら、俺が貴様らを鉛入りの木刀で叩き殺してやる。判ったら、とっとと出ていけ!」
 青ざめた三人が震えながら出て行き、その場には利樹と日名子だけが取り残された。
 すでに乱された衣服を元通りにしていた日名子は、すぐにでも飛び出そうとした。自分のことより、利樹のことより、今は皆斗のことだった。
 が、利樹に腕をつかまれ、引きとめられる。
「おい、待てよ」
「トシ君、行かなきゃ、皆斗の試合が始まってしまう」
 焦る日名子に、利樹は憐れむような眼差しを向けた。
「……ひどい顔だぞ」
「え?」
 そう言えば、口の中に血の味がする。手の甲で唇を拭うと、血がべったりと跡をひいた。
「お前のそういう顔を見せる方が、皆斗の精神上よくないんじゃないか」
「でも、」
 利樹が軽く息を吐く。そして、肩を軽く叩かれた。
「日名子、皆斗なら大丈夫だ。軽い竹刀を持たされて、判らない方がどうかしている」
 苦笑でもするような、ひどく優しい目をしていた。
「皆斗も藤王も、それを承知で再試合をしようというなら、何か理由があるんだろう。多分……勝つよ、皆斗は」
「………」
 わずかに、ジェラシーにも似た感情がよぎった。皆斗と利樹の間に入っていけないと思い知らされるのはこんな時だ。多分――利樹の方が、皆斗をより理解している。
「顔洗って来いよ。俺も、久しぶりに皆斗の試合、見たくなった」
 ポケットに手をつっこみ、背を向けながら利樹は言った。
 
 
                16
 
 
 体育館の中では、すでに人の輪が出来ていた。合宿の最終日、そして因縁のある試合。
 おそらく――敗者が部を去ることになる。皆斗は無論のこと、松田にもその覚悟があることを、部員たちは暗黙の内に察しているようだった。
 その緊張感が、否応無しに見守る者たちを寡黙にさせている。
 日名子は利樹と共に、人の輪の外側――皆斗の背後側から見守った。自分と利樹の姿を、今の皆斗に見せたくなかったし、利樹もそれは察してくれたようだった。
 松田は、すでに防具をつけて身構えている。防具に隠れた表情は窺えないが、いつになく緊張しているのが、遠目から見る日名子にも判る。
「……鉛入り竹刀のこと……松田は知らないみたいだけど」
 日名子は、利樹に向かって囁いた。
 逆に、教えてあげた方がいいのかな、と思っていた。松田にしても、本当に何も知らなかったとしたら、この試合自体が屈辱に違いない。試合が終われば、どのみち真実が明かされるのだ。
 利樹は目をすがめたが、すぐに首を横に振った。
「松田が今持っているのは、自前の竹刀だ。公式戦ではいつもあれを使ってる。……いくら鈍い男でも気づくだろう。あり得ない勝ち方をしたなら、尚更な」
「…………」
 先日の試合の折、藤王が現れた後――妙なほど蒼白になって肩を震わせていた松田を、日名子は今さらのように思い出していた。
「馬鹿だけど、ああ見えて可愛い男なんだ。おだてられたら天まで昇るくらい単純な奴だから、さっきの連中に、いいように利用されてたんじゃないのか?」
「でも、松田が皆斗を敵視していたのは、本当だよ」
「それは、……まぁ、子供みたいな嫉妬だろうな」
「え?」
 その時、それまで座して面をつけていた皆斗が立ち上がった。
 ひどく、静かな所作だった。まるで水から浮かび上がるように起立すると、松田に向かって、一礼する。
 傍らに立つ藤王が、一言二言、声をかける。その手から直に竹刀が渡された。皆斗は竹刀を受け取り、藤王に向かって頭を下げた。
「……トシ君」
「まぁ、見ておけ」
 藤王の合図で試合が始まった。
 互いに向き合い、竹刀を構える。まずは中段に、皆斗が上へ、松田が下へ、それぞれゆるゆると呼吸を整えながら剣先を移していく。
 松田の右足が前に出る。下段に構えた剣先が皆斗の足元を窺っている。逆に、皆斗は微塵も動かない。 
 互いに動きを牽制しつつ、出方を窺っているのが判る。
 息が詰まるような沈黙があった。
 裂帛の気合が、静けさを裂いた。振り上げたのは皆斗だった。面、踏み込みが足りない――と思ったのは一瞬で、一歩引いた松田が反撃に移る前に、もう一度立て続けに面。下がりながら受ける松田、けれど受ける間もなく胴。
「一本、水城」
 全ては数秒の出来事だった。
「……なんか、すごくない?」
 誰かが囁く声がした。「水城って、あんなに激しく打ち込むタイプだったっけ」
 松田は身体のバランスを崩したものの、すぐに定位置に戻って立礼した。
 そのまま、再び双方の竹刀が向き合う。
 中段から上段、二人のタイミングは同じだった。瞬く間に間合いが詰まる。
 最初に動いたのは松田だった。気合と共に振りかぶった竹刀が、鋭く皆斗の右胴に吸い込まれる。
 その刹那、皆斗の竹刀が素早く回転した。剣先を受けてそらした――と思った次の瞬間、すぐさま上段に振りかぶった剣が、松田の面に打ちこまれていた。
 それも、呼吸する間もないほど一瞬の出来事だった。
「勝者、水城」
 藤王の声が上がった。
 皆斗も松田も、意外なほど静かな所作で作法通りの立礼をした。
 誰も、何も言わなかった。
 静まり返った体育館に、皆斗と松田の呼吸だけが響いている。
 二人は殆ど同時に面を外した。
 松田もそうだが、意外にも、皆斗の顔も汗に濡れているようだった。疲労と安堵の入り混じった表情をしているのが判る。
「……失礼します」
 短く挨拶した松田は、竹刀を持って立ち上がった。大股で人垣を分け、出口に向けて歩く姿は、すでに覚悟を決めた人の落ち着きを有していた。
 その真摯な表情を見た時、日名子は悟った。松田はきっと――先日の試合のからくりを直後に悟り、激しく恥じていたのだろう。
「――松田」 
 藤王の声が体育館に響いた。
 松田の背中が止まり、体育館にいる全員が、その姿に注視した。
「辞めたければ勝手にしろ」
 冷やかな言葉だった。松田の背中は動かない。
 藤王は、淡々とした口調で続ける。
「ただ、俺なら、負けたままでは絶対に辞めないがな」
 それだけだった。藤王は素っ気なく背を向けて歩き出し、松田は立ちすくんだまま、うつむいていた。
「………失礼、します」
 やがてもう一度そう言うと、松田は竹刀を握り締め、駆け足で体育館を後にした。
「やれやれ」
 巨体が横を通り過ぎた後で、利樹がため息と共に呟いた。「相変わらず進歩のない奴だよ」
 日名子は――、皆斗を見つめていた。
 皆斗は駆け込んできた一年生たちに取り囲まれ、髪をくしゃくしゃにされている。
 弾けるような歓声と笑い声が飛び交っている。
 日名子には、その笑顔が眩しかった。多分、ここが皆斗の居場所だ。皆斗が努力して手に入れたもの。血を吐き、汗を流して手に入れた場所。
 この合宿で、日名子はようやく判ったような気がしていた。苦しまずに、努力もせずに手に入れられる居場所なんてない。自分はただ――うらやましかっただけだった。何もせずに、他人の持つものを妬んでいただけだった。 
 気がつくと、藤王が目の前に立っていた。
「お久しぶりです、二宮先輩」
 利樹に向かって丁寧に立礼する。利樹は何故か、苦々しく頭を掻いた。
「あまり、松田をいじめてやるなよ」
「先輩は、あいつがお気に入りでしたからね」
 不思議な目色になり、藤王はわずかに微笑した。「いじめてはいませんよ。ただ、今年は水城が面白かったので」
「また……お前の悪い癖が」
「ええ、少し放っておきすぎました」
 なんだか意味深な会話だったが、日名子には意味が判らなかった。
 その時、初めて藤王の視線が日名子の顔に止まり、途端に、怜悧な眉が険しく歪んだ。
「……水城、何かあったのか」
「えっ」
 ――あ、そうか。
 ようやく自分が殴られたことを思い出していた。先ほど鏡で見た時は、そんなに目立つような怪我ではなかったのに――。
「腫れてきたんだ、人相変わってるぞ、お前」
 利樹が日名子の顔を見下ろし、やはり眉をしかめながら、心配そうな声で言う。
 ――マジ……?
 慌てて頬に手を当てると、口の中に激痛が走った。途端に、忘れていた痛みが、頬に、唇に一気に広がる。 
「何があったのかは、今この場所にいない三年生に聞いてみろ」
 何か言いかけた藤王に、利樹は苦い口調でそう言った。日名子は慌てて言葉を添えた。
「トシ君、大げさにしないで。藤王、私、たまたま喫煙の現場を見ちゃって……その時、言い争いになって、怪我をした。大したことじゃない」
 自分でもまずい言い訳だと思ったし、藤王も、ますます表情を翳らせた。
「煙草のことは、知ってたのか」
 利樹が訊く。
「合宿後に、処分を決めるつもりでした。すぐに手を打てなかった自分のミスです」
 多分、日名子の身に起きようとしたことを、あらかた藤王は察したのだろう。唇を軽く噛んだ男は、初めて見るような沈鬱な目になっている。
「……とにかく、水城は医者に行った方がいい、すぐに車を」
「俺が連れてくよ。車で来てるんだ」
 利樹がそう言った時、日名子は別の場所から自分を見つめる強い眼差しに気づいて顔を上げた。
 皆斗だった。
 取り巻く人の輪から離れ、眉根をわずかに寄せたまま、何かを噛み締めるように、まっすぐに日名子を見つめている。
「――皆斗」
 日名子は自分から声を掛けた。そうしないと、皆斗が寄って来られないような気がしたからだ。
 皆斗が、少し躊躇してから、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「………姉貴、その顔」
 足を止め、まず皆斗が言った言葉がそれだった。
 日名子はわざと、明るい笑顔を見せた。
「ちょっとした喧嘩に巻き込まれて……、当たり所が悪かったんだ。少し怪我したけど、大したことじゃない」
 たちまち、皆斗の表情が険しくなる。「喧嘩って、姉貴がか」
「大したことじゃない」
 日名子は、遮るように繰り返した。「それに、トシ君が助けてくれた。大げさに腫れてるけど、相手も本気じゃなかったから。ちょっとタイミングが悪かっただけで」
 日名子には、むしろこの件で、皆斗が再び抑制を失ってしまうことの方が怖かった。
「今から、トシ君と病院に行ってくる。皆斗は心配しなくてもいいよ」
「………そっか」
 その刹那、皆斗が傷ついたのが、日名子には判った。
 うつむいた顔を、懸命に上げようとしているのが判る。
「……皆斗」
 日名子はもう一度名前を呼んだ。
 皆斗は苦しそうに視線を上げた。
「私、あんたを見てた、眼離さなかった」
 日名子は微笑して言った。
「皆斗、……最高にかっこよかったよ」
 
 
 
 
 
 
 

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