13
  
 
 ――ん?
 混乱する頭で、何かが引っかかっていた。
「……譲る……」
 日名子は呟いた。
「……うん」
「譲るって、……誰を」
「……? 姉貴」
「…………」
 ――ちょっと、待て。
 この場合、譲られるのは、私じゃなくてトシ君じゃ……。
「……皆斗」
 日名子はようやく身体を起こして、ベッドに腰かけると、皆斗を正面からじっと見据えた。皆斗が戸惑うように見つめ返してくる。
 ――……譲られるのは、私じゃなくて、トシ君……じゃないの?
「……トシ君が煙草吸ってること、あんた、知ってた?」
 皆斗の目が、不愉快そうにしかめられる。
「いや、俺は知らないけど……」
 ――じゃあ。
 日名子は深い眩暈を感じた。深呼吸をして、そして、ようやく搾り出すように言った。
「皆斗、あんた……、十年間、一体誰が好きだったのよ!」
 利樹の言葉が、態度が、一時に蘇えって、頭の中を流れていく。
「死ぬほど鈍い奴」
 目を逸らした皆斗は、ふてくされたように呟いた。
「……抱きたいっつっても、焼きソバと勘違いするくらい情緒を理解してない奴」
「な、なんで、鈍いって言い切れるのよ。一度もそんな告白聞いてないのに」
「毎晩、かなり積極的にアプローチしてたつもりなんだけど……」
 は?
 日名子はさすがに唖然とした。
 まさかと思うけど――。
「まさか、あの下品なジョークのこと? ふ、ふざけないでよ、あんなので、普通、判るはずないじゃない!」
 頭を叩こうと伸ばした手を、簡単に皆斗に掴まれた。
 怖いくらい真剣な眼差しだった。
「いつから……そんな馬鹿なこと考えてたのよ」
 日名子は目を逸らしていた。この急激な展開に、理性がまだ追いつかないでいる。
「結構、最初から」
「……嘘」
「マジ」
「……嘘」
「マジ」
 ゆっくりと、自分を見下ろす男の顔を見上げてみる。
「……誰にも、渡したくなかったんだ」
「…………」
「……姉貴には、俺一人を見てて欲しかった……だから」
 ――皆斗……。
 この十年間の皆斗の態度、言葉、全てが愛しく思い出せる。
 日名子は胸がいっぱいになった。
 ただ――それを、どういう形で皆斗に伝えていいのか判らない。
 受け入れてしまった後、二人の関係をどう修復していいのか判らない。ずっと姉弟だった。それだけが日名子をあの家に、皆斗の傍につなぎとめてくれていた。姉弟という関係を壊してしまえば――本当に何も残らないような気がする。
「……あんた、……トシ君のこと……どうなのよ」
 うつむいたまま、日名子にはそれしか言えなかった。
「どうって?」
「前言ってたじゃない、俺からトシ君取らないでって、俺とトシ君の間に入ってくるなって」
「……? いつ? そんなこと言ったっけ、俺」
 皆斗は、ただ、けげんそうな目をしている。
 ――そっか……。
「寝ぼけてたんだ……あんた」
「…………?」
 ではあれは、無意識に出た言葉だったのだろうか。だとしても、でも――。
「前も妙なこと言ってたけど……へんなこと考えんなよ、トシ君は男だろ」
「……それは、判ってるけど」
「俺が好きなのは、姉貴だよ」
「…………」
 日名子は黙っていた。皆斗が自分の返事をじりじりしながら待っているを感じながら、それでも何も言えなかった。
「もういい、でも、ひとつだけ教えてくれよ」
 ようやく発せられた皆斗の声は、耐えかねたように掠れていた。
「………何」
 日名子は、自分の声がかすかに震えるのを感じた。
「………どうして俺と、あんなキスができたんだよ」
「………」
「……俺、また姉貴が判らなくなった。諦めてたのに……また、苦しくなってきた」
 そのまま抱き寄せられた。顔を背けようとしたが、有無を言わさない強引さで唇が重ねられた。
 苦しいくらい激しいキスが、唇も呼吸も奪い尽くす。
 すぐに息が乱れ、日名子は不安に駆られて皆斗の胸を押しやった。
「ば…、なに、やってるのよ……人が」
「いいんだ、もう」
「よくない、だめ、皆斗に傷がつく」
 言葉は、もう一度深く被さったものに奪われた。 
「み……なと」
 呼吸さえも溶かし、甘く吸い込まれていく。
 日名子は切ない衝動に突き動かされ、ひたすら皆斗の唇を求めた。
 抱き締めてくる腕をきつく掴む。理性も抑制も溶けていく。そのまま仰向けに倒された。皆斗の重みが愛しかった。
 Tシャツの下から手が入ってくる。大きくて暖かな手。その動きには、最初から余裕がなかった。
「……欲しい、……も、だめ、目茶苦茶にしたい」
 息ができない。苦しい、こんなに――こんなことで、おかしいくらい皆斗が愛しくて堪らなくなっている。
 シャツが胸まで引き上げられ、皆斗の頭がその位置までずれていく。
「っ……やっ」
 利樹にも同じ真似をされた。その時は、ただ、奇妙な違和感があっただけだった。
 予想もつかない感覚に怯え、日名子は皆斗の肩にしがみついた。
「可愛い……」
 皆斗は囁き、さらに唇を寄せてくる。
「っ……んっ…や、やだ」
「すげ……可愛い、姉貴」
「みな……と」
「これくらいで、感じるのか、……トシ君がうらやましいよ」
「ば、ちが……」
「殺してやりたいくらいだ」
 抱きすくめられ、もう一度深く口づけられる。
 奪うように、噛むように激しく求め合い、呼吸も鼓動も、何もかも溶け合って一つになる。――
「……姉貴…」
 皆斗が抱き締める。そのまま、日名子の肩に顔をうずめ、動かなくなる。
 日名子はその背中を抱き締め、自分も皆斗の髪に頬を埋めた。
 首筋から痛いくらい鼓動の音が伝わってくる。皆斗が、必死で抑制しようとしているのが日名子にも判った。だからそのまま――なだめるように、広い背中を撫で続けた。
「姉貴、……もういっこ、あるんだ」
 しばらくして、皆斗は苦しそうに呟いた。
「……合宿の最後の夜、トシ君が、ここに来る」
「……そう」
 日名子は、皆斗の身体をいっそう強く抱き締めた。
「……姉貴に会いにくるんだ。……俺は……、トシ君も姉貴も大事だ。……どうしていいか、判らない」
 
 
                 14
 
 
 そろそろ体育館では、試合が始まる時間だった。
 日名子はぼんやりと腰を上げ、締め切っていた襖を開けた。
 見に行こうか、――行くまいか、迷うような気持ちが整理できないままでいた。
 最近の皆斗がまとう確かな自信。もう皆斗は大丈夫なのだろう。きっと何かを掴んだに違いない。藤王が求めていた何かを。
 誰もいない廊下に出る。行き先が定まらないままに、所在無く歩き続ける。行ってしまえば、皆斗の姿を見てしまえば、せっかくついた決心が鈍ってしまいそうで怖かった。
(――今夜、合宿打ち上げの花火大会があるんですよー。お姉さん、絶対参加してくださいね!)
 今朝の、あずさの楽しそうな声が、ふと胸をよぎっていた。最初はとんでもない子だと思ったけれど、今となっては、橘真希より好感が持てるようになっている。
 あずさのことだけではない。この合宿で、色々な発見をすることができた。新しい自分を見つけられたような気もする。
 ――だから、もういいんだ……。
 日名子は自分に言い聞かせた。
 ――いいんだ、いつだって………終わりにできる。いつだって、自分から。
 階下まで降りた時、ふと煙草の匂いが鼻をかすめた。それは通り過ぎる名残のようなかすかなもので、日名子は眉をしかめながら、匂いの在り処を鼻でさぐった。
(――水城、布団部屋に出入りするのは、君だけか?)
 藤王の言葉が瞬間、閃いていた。何かを探っているような、あの眼差しの意味は――。
 ――そうか、布団部屋だ。
 時折、感じた、シーツから漂うわずかな残り香。最初は皆斗かと思ったが、抱き合ってみて違うと判った。あれは、誰かが布団部屋で煙草を吸っていたことを示唆していたのだ。
 すこし急いで、一階の奥にある布団部屋に向かった。薄く開いた扉から、案の定淡い煙が漏れていた。
「――で、今回もちゃんとすりかえたんだろ、水城の竹刀」
 ささやくような声が、煙に混じって流れてきた。
「まぁ、一応な、でないと松田、勝てねぇだろ」
「あいつが負けたら、俺たちも肩身狭くなるしな」
 扉の外で、日名子は凍りついたように動けなくなった。
 ――何の話……?
「しっかし、愉快だったよな、あの時の水城。まさか松田の竹刀に鉛が入ってるとは思っても見なかったんだろ。あんなもんで喉突かれて、よく死ななかったよ」
 くく、と低い笑い声。
「あいつの体力、ハンパねぇもん。藤王にあんだけしごかれて凹まないあたり、既に人間の域越えてるし」
 どこか乾いた笑い声が響いた。
「今回も鉛でいくのか?」
「いくしかねぇだろ。松田は馬鹿だから、どうせ竹刀の違いにも気づかない」
「バレたところで、俺たちがやったっつー証拠もねぇしな」
「松田が馬鹿で、マジ助かったよ」
 声は、松田の友人たちのものだった。憤りと腹立ちで、日名子は動くこともできなかった。いや、そんなことより、今、体育館では皆斗が。
「おい……っ、人、いるぜ」
 扉が思い切りよく開かれた。
「お前、……水城、聞いてたのか」
 出てきた顔は三人だった。予想通り松田の取り巻き、日名子にとってはクラスメイトだ。稽古を抜け出してきたのか、稽古着のままの姿で――皆、一様に蒼白になっている。
 日名子は何と言っていいか判らなかった。
 彼らは剣道部の特待生で、スポーツ推薦という資格を失えば、大学進学さえできなくなる。とはいえ、このまま皆斗を試合に臨ませるわけにはいかない。知ってしまった以上、黙してはおけない。
 互いの切羽詰まった立場が、ぎりぎりの状況で対峙した。
「おい、水城を中に入れろ」
「鍵閉めとけ」
 何がそう決断させたのか、彼らは日名子を黙らせることを選んだようだった。
「何すんのっ、離せ!」
 部屋の中に引きずり込まれ、寄ってたかって手足を押さえつけられる。日名子は必死で抵抗した。
 足で誰かの腹部を蹴り上げ、その報復のように、一度、頬を叩かれた。
 血の味が口腔ににじみ、そのまま口にタオルを詰め込まれる。
 ――冗談じゃない。
 肩で息をしながら、日名子は自分を押さえつけている者たちを見上げた。彼ら自身、どうしたらいいのか困惑しているようだった。
「どうする……」
「下手なことを喋られちゃ困る。とにかく試合が終るまで、ここに隠しておくか」
「試合が終っても、喋られたら終わりだろ」
「………黙らすか」
「…………」
 奇妙な沈黙が降りた。
 
 
 
 
 
 

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