11
目指す建物のすぐ前まで来た時、すでに異変が起きていることが、日名子にも判った。
入り口のあたりに、数人の袴姿が輪を作っている。もう見慣れた顔だからすぐに判る。一年生だ。どうやら、体育館の中に入れず、締め出されているらしい。
「あ、お姉さん?」
日名子が輪に近づくと、それに気づいた遠山が、蒼い顔で駆け寄ってきた。
「皆斗が大変なんですよ。今から松田さんと試合するみたいで」
「えっ」
日名子は窓に駆け寄り、柵越しに体育館の中を見た。
白いテープで四角く囲まれた試合場。
二年生と三年生が、その周囲を取り囲んでいる。
輪の中心で、防具をつけた二人の男が向かい合って立っているのが見えた。
片方は皆斗で、日名子の方に背を向けているのが松田なのだろう。
「一年が試合をするには、監督か藤王さんの立会いが必要なんですけど」
いつの間にか隣に立っていた遠山が、不安気な声で囁いた。
「どうしよう……。昨日の騒ぎもあって、皆斗、謹慎するよう、藤王さんから厳しく言われているんです。無断試合がばれたら、マジで退部になるかもしれない」
「どうしてこんなことになったのよ」
日名子は、体育館の中を凝視しながら言った。
扉の前では、他の一年が、鍵を開けようと騒いでいる。
「松田さん、午後からずっと皆斗を挑発してたんですよ」
遠山は、声をひそめて、そう続けた。
「………皆斗、ぎりぎりまで我慢してたんですけど、もう限界っつーか、試合受けないと収まりつかないのが、判ったみたいで」
体育館の中。輪のから抜け出た一人が、皆斗の傍に歩み寄って、竹刀を渡した。
皆斗は竹刀を手にしたまま、少し首をかしげている。何かが気になるのか、何度も竹刀を持ち直している。
――皆斗……?
その何時にない動作に、日名子は、不思議な胸騒ぎを覚えていた。
「扉、開かないの」
日名子は、扉の周辺に立つ一年集団に声をかけた。
「無理みたいっす、中から、鍵かかってて……」
その時、内部から、激しい気合と共に、竹刀の弾ける音がした。日名子ははっとして再び窓から中をのぞきこんだ。
皆斗が打ち込んでいる。面、面、そして小手。
けれど、それを弾き返され、すりあげた松田の竹刀に胴を一撃される。
息を飲むほど激しい音がした。
日名子は、はっと目を閉じ、拳を固く握り締めた。
皆斗が、一本取られたのだ。それも――惨めなほどあっさりと。
体育館の中から、どっと、拍手と喝采が起こる。
その輪の中で、皆斗は、腰を折ってかがみ込んでいる。よほど苦しいのか、片手で竹刀を突き、なんとか身体のバランスを保っている。
「……おかしくないか、皆斗があんなに簡単にやられるかよ」
日名子の隣で見ていた誰かが、そう呟いた。
「松田と皆斗、どっちが強いのよ」
日名子は思わず聞いていた。
「……皆斗、松田さん相手に本気出したことないと思うけど、それでも、あんなにあっさり負けることはないですよ」
憤慨したような声が返って来た。
それは、皆斗の方が実力があるということなのだろう。
それにしても、皆斗のダメージは大きそうだ。何日も皆斗の稽古ぶりを見ていた日名子にも、それが普通でないことが判る。
が、ようやく身体を起こした皆斗は、形式通りの立礼を松田と交わし、再び定位置に戻っていった。
そして、松田と向き合い、すうっと竹刀を構え直す。
再度、竹刀が空ではじけた。
面、面と打って出る皆斗の打ちは、明らかに浅い。松田は身体を引き、そのまま竹刀を突き入れて反撃に出る。
皆斗の竹刀がそれをすりあげてかわす。
けれど、かわしきれず、二度目の松田の突きが鮮やかに皆斗の喉に決まった。
――皆斗!
手から竹刀が落とし、そのまま突き飛ばされるように、皆斗は転倒した。
喉を押さえ、苦しそうに肩を震わせている。
乾いた咳と、ひゅうひゅうという苦しげな喘ぎが、体育館の中に響いている。
轟然とその姿を見下ろしていた松田は、ゆっくりと面を外した。
「お前の負けだな、水城」
あざけりをこめた声が体育館に響いた。
「これに懲りたら、二度とえらそうな顔すんじゃねぇぞ、コラ」
そこでどっと笑ったのは、松田の取り巻きたちだった。
嘲笑の中、皆斗は、まだ苦しそうに咳き込んでいる。
日名子は扉の前に駆け寄って、思い切り叩こうとした。
「――待て」
静かな声が背後からした。
ゆっくりと誰かの手が伸びてきて、鍵が差し込まれ、ノブが回される。
振り返った日名子は愕然とした。
それは、藤王暁だった。
一年生たちは、いきなり現れた主将の姿に呆然として口も聞けないでいる。
日名子もそれは同じだった。よりによって藤王に見られてしまった。一年の無断試合は禁止――退部。遠山の言葉が、嫌な響きをもって蘇える。
このまま、皆斗は退部させられてしまうのだろうか。不安で頭の中が白くなり、言葉が何も出てこない。
けれど藤王は何も言わず、表情ひとつ変えないまま、ゆっくりと扉を開けると、体育館の中に入っていった。
いきなり人垣をわけて入ってきた主将の姿を認め、さすがに松田の表情が変わった。
周囲の二、三年生たちも凍りついているようだった。
「藤王、これは双方納得しての立ち合いだからな」
どこか上ずったような松田の声がした。藤王はそれを無視して、倒れている皆斗の傍に悠然と立った。
「――水城」
いつ耳にしても冷たい声だ。聞いていた日名子は嫌な気分になる。
「いつまで無様に倒れているつもりだ」
「………ッ」
よろめいて、それでも皆斗は立ち上がった。喉を突かれたせいか、声がまだ出ていない。
「負けた原因は判っているか」
「………」
皆斗の視線が床に落ちている。何かを見ている……ように、日名子には思えた。
「――甘い」
はっと、皆斗の頭が上がる。
「まだ、お前は目が覚めないのか」
静かだが、憎しみさえ感じられるほど厳しい声だった。
皆斗は、まるで雷にでも打たれたかのように、微動だにしなくなった。
「一年の無断試合は退部だが、反省の機会をくれてやる。合宿最終日に、今と同じ条件で再試合をやってみろ」
よどみなく続く藤王の声。
皆斗は動かない。その背後で、何故か蒼白になった松田が肩を震わせている。
見ていた日名子には、その動揺ぶりが少し異常な気がした。
「勝てば、退部だけは許してやる。負ければ規約どおり、水城は退部だ。二度とうちの部に顔を見せるな」
そこまで言われ、皆斗がようやく顔を上げた。そのまま、食い入るように藤王の顔を見つめている。
いつもの皆斗らしくない――どこか強張ったような、不審を顕わにした眼をしている。
「……今の試合、俺がお前なら勝っていたな」
その眼差しごと突き放すように言い切ると、そのまま藤王は背を向けた。
――最初から見ていたんだ、……藤王は。
日名子は、驚きと共に理解した。
どこで見ていたんだろう。少なくとも無断試合を知っていて黙認した。それだけは間違いない。
――何を、考えてるんだろう……。
皆斗は、立ったままだった。
微動だにしない背中には、他人を一切拒否するかのような厳しさがあった。
日名子は、何もできない自分が悔しかった。目の前で苦しんでいる皆斗に――何もできない、掛ける言葉さえ思いつかない。
何よりも、今、日名子は皆斗に必要とされていない。――それが、ただ情けなかった。
12
――空が、高いな……。
日名子は作業の手を止めて、ぼんやりと空を見上げた。
気がつけばこの合宿も、残す所あと三日となっている。
すっかり慣れた布団のシーツ換えだったが、時々手を休めてしまったため、いつになく遅くなってしまっていた。
そのままベッドに腰掛けて、日名子は軽く嘆息した。
開け放った窓から見える空が、ひどく高く感じられる。夏はもう間違いなく後半だ。
気がつくと、皆斗のことばかり考えていた。
不思議なことに、松田との試合の日を境に、皆斗へのしごきにも似た稽古は、ぴたりと止んだ。
皆斗は相変わらず朝から晩まで稽古三昧の日々だが、以前のような切羽詰ったものが、その表情からいつの間にか消えている。
三度の食事にも現れるし、友人たちと談笑する姿もよく見かけるようになった。日名子にも、何事もなかったように声をかけてくる。
皆斗は何かを掴んだのだと、日名子にも判った。
あの人が、何を俺に求めているか判らない……≠ニ、苦悩していたことの答えが、ようやく出たのかもしれない。
いずれにせよ、それは日名子が踏み込んでいけない世界だった。理解することさえ出来ない領域だった。
「…虚しいなぁ……」
日名子は呟いた。
あれ以来、二人が交わしたキスのことは、互いに一言も触れずにいる。
というよりむしろ日名子は、あの行為の意味を考えるのが怖かった。
もしかして皆斗は私を――? と期待しなくもなかったが、それを確認するだけの勇気もない。
そして、なにより。
(――他人だよ)
あっさりと言われたことが、まだ受け止められずにいた。
――……あんたに、他人だなんて言われたら。
日名子はそのまま、ベッドの上に仰向けに倒れた。
あんたに、あんなキスされたら……。
「……私の居場所なんて、マジでどこにもなくなるじゃない……」
涙が滲みそうになった。
この春から夏にかけて、ぎりぎりまで耐え続けていた感情が、飽和点に達しそうだった。
拳で目を押さえ、こみあげるものをじっと耐える。
「姉貴、そこ?」
扉の向こうで、いきなり皆斗の声がした。
日名子は吃驚したが、跳ね起きると涙が零れそうな気がして、そのままの姿勢でいた。
「……目の毒だな、そんな無防備にされたら」
そう言いながら扉を閉め、皆斗は日名子の傍に腰を下ろした。新しい重みで、小さなベッドがかすかに軋む。
「……なんか、用」
日名子は感情を殺して言った。自分でも冷たい言い方だと思った。
――……?
その時ふと、違和感のある香りが鼻についた。
それは、この合宿所では有り得ない香りだった。けれど疑問を確認するより先に、皆斗が思いつめたように、口を開いた。
「……あのさ、話が二つあって……それがいい知らせなのか悪い知らせなのか、俺には判らないんだけど」
皆斗の指が、自分の髪に絡むのが判る。
いつかの時と立場が逆になっている。日名子は、髪を愛撫する優しい手の動きに、無言で心を任せていた。
「……親父、明日帰ってくるってさ」
「ふぅん」
「驚かないの」
「あんた………一回、お父さんからの電話、誤魔化したでしょ」
「やっぱ、バレてた?」
「何の真似よ、まんざら父親を奪い合うような年でもないのに」
「………奪い合ってんだよ」
指の動きが止まった。皆斗が嘆息する気配がする。
――どういう意味……?
思わず目を開け、頭上の皆斗を見上げている。
まさかと思うが、皆斗の本命は――。
「籍をさ、抜きたいんだって、水城の戸籍から」
けれど、弟の口から出てきたのは、思ってもいなかった言葉だった。
「………籍?」
「俺のばぁちゃんとそういう約束してたんだって、……俺が十六になったら、籍抜いて家を出てくって」
「……ああ」
日名子はようやく得心した。
それは皆斗の留守中に、祖母から言い含められた話でもあった。
なんのことはない、日名子も電話の内容を皆斗に話せなかった。皆斗は――父から同じ内容を聞いていたということなのだろう。
「……姉貴がどうするかは、姉貴が決めることだって言ってた。でも……出て行くんだろ、どうせ」
言葉を切り、少しうつむく。どこか寂しそうな横顔だった。
「………」
「親父の話聞いたら、夏休み中に出てくって言うんじゃないかと思って……だから……無駄なあがきだとは思ったけど」
――だから、電話を取り次がなかったのか……。
日名子は、脱力しながら目を閉じた。
ようやく、ずっと謎だった皆斗の真意が理解できていた。
――馬鹿……。
「……あんた……どうしてそんな、子供みたいな真似を」
理由が判ると、余計な邪推をしたことがむしろ滑稽で恥ずかしい。
皆斗の横顔が、翳る様な微笑を浮かべた。
「夏だけは……いてほしかったから」
「…………」
「………合宿、姉貴に来て欲しかったんだ。汚いよな、俺、……姉貴とトシ君、二人きりにさせるのが怖かったから」
「…………」
はっと息を引いていた。
「ずっと、怖かったから……姉貴からトシ君、引き離そうとしたんだ。ばかだよな、俺」
皆斗の指が髪から解かれた。
「……でも、もういい、俺……二人のこと、認めることにしたから」
心臓に、冷たい楔を打ち込まれたような気分だった。
「……ホントは、ずっと前から知ってたんだ。部活から帰ってきたとき……カーテン越しに、見たことあったから、トシ君と姉貴が……してるとこ」
日名子は狼狽した。
その顔を見られたくなくて、身をよじって皆斗に背を向けた。心臓が轟音を立てている。
――それは、いつのことを言ってるんだろう?
「その時から覚悟はしてた。でも、どっかで……誤解だったらいいとも思ってた」
最初の時だ。
日名子は血の引くような思いで理解した。
最初に、強引にキスされた時だ。あの時、何気なく帰宅した皆斗は、全てを見ていたのだ。
「でも、こないだ病院で、……あれは、さすがに参ったけど」
「……何が参ったの」
もう、何と言っていいか判らなかった。
利樹を恨むのは筋が違う。一番卑怯なのは、ただ皆斗を出し抜きたいという浅ましい気持ちだけでキスを受け入れた自分自身だ。
むしろ日名子は、利樹にも謝らなければならないと思っていた。
「俺、かなりはっきり見えてたんだ。……姉貴が、舌使ってんのもしっかり判った」
「………っ」
日名子の全身が硬直した。一気に血液が逆流した。指の先まで赤くなったのではないかと思うほど身体中が熱かった。
「……その時、認めた、俺……トシ君になら、姉貴を譲っても、…いいかなって」