9
「皆斗っ、ばかっ、落ち着きなさいよ!」
腕を引っ張られながら、日名子は前を行く皆斗に、必死で声を掛け続けた。
広間では、多分すごい騒ぎになっている。どんな理由があろうと、上級生を殴ってしまった。しかも松田征司のような曲者を、だ。余興で片付けられる問題ではない。
皆斗は答えない。ものすごい勢いで歩を進めている。振り返りもしない。
宿舎を出て、体育館へ続く渡り廊下に出たところで、皆斗はようやく足を止めた。
「姉貴には、判ってたはずだ」
強い眼差しに、振り返って見下ろされた。
「俺が判ってたはずだ、そうだろ、なのに」
「気持ち悪いじゃない、姉弟で判ったら」
言葉を遮り、日名子は困惑しながら皆斗の腕を振り解こうとした。けれどしっかりと掴まれた腕は離れない。
「じゃあ、やっぱり判ってたんだな?」
「判ってたっていうか……」
「どうなんだよ」
「…………」
何故そこに、皆斗は、固執するのだろう。
嘆息して顔を見上げた途端、薄く締まった皆斗の唇が目に飛び込んできた。ふいに、先ほど受けたキスの感触が手の甲に蘇える。
日名子はわずかに頬を赤らめた。
「………四番目」
呟きながら、これで違っていたらお笑いだなと思ったが、皆斗がようやく腕を解いてくれたので、正解だったのだ、と安堵した。
「……マジで判ってなかったら……殴ろうかと思ってた…」
そのまま目を逸らし、皆斗は軽く唇を噛んでいる。
正直、日名子には、皆斗の感情の変化が理解できなかった。いったい今、皆斗は何に怒っているのだろう。
「皆斗、あんた、……どうしたのよ」
戸惑いながらも、日名子はなだめるように弟の腕を叩いた。
「私のことで怒ってくれているなら、そんなに大したことじゃないから、早く戻って、松田に謝って来なさいよ」
「……大したことじゃない?」
返って来た口調の恐さに、日名子は、言葉を詰まらせた。
「キスって、大したことじゃないのか、姉貴には」
その声には、まだ収まりきらない怒りが滲んでいる。
「……姉貴は、誰とでもキスできるのか」
「…………」
皆斗が何を言いたいか、聞き返すまでもなかった。利樹とも――と言いたいのだ。
唇がまだ痛む。日名子が舌で痛む箇所を探ると、下唇の内側から、血の味が濃く滲んだ。
「誰とでもキスすんのかって聞いてんだよ」
その言葉と共に、肩を強く掴まれた。
動揺しながらも、日名子は目を逸らしていた。
「皆斗、……そういう言い方はやめてよ」
「大したことじゃないのか、だったら、俺がしてやるよ」
「冗談はやめてよ!」
逃げようとした肩を、再度強く掴まれ、そのまま柱に押し付けられた。
「……皆斗、あんたに」
動悸が激しい。このままだと皆斗に、自分の気持ちを見透かされてしまいそうだ。
「あんたに、そんなことされたら」
額が合わさる。息遣いが、唇に触れる。
「…………」
皆斗の手がうなじに触れ、日名子はびくっと体を震わせた。
乾いた指が髪をかきわけ、首すじをぎこちなく撫でている。日名子の視線は皆斗の顎に膠着したまま、下げることも上げることもできなかった。
「…冗談……でしょ」
もう片方の手が背中に回り、ゆっくりと身体ごと引き寄せられた。
日名子は硬直して、顎を引いた。
「……大したことじゃないんだろ」
もう、呼吸さえ苦しかった。視線だけを逸らしながら、日名子は弟の腕の中に収まった。
「相手が、あんたなら別」
「なんで」
「弟じゃないの」
「血、繋がってない」
「………」
「他人だよ」
「…………」
その言葉に傷ついた途端、唇に、淡く触れる温みがあった。それだけで日名子は、背筋に軽い痺れのようなものを感じていた。
重なってきたそれに、すぐに唇の中心を捕らえられ、そのまま、荒く、けれど意外なほど優しく吸われる。
大きな手が、背中を何度も撫でてくれている。
唇が、わずかに離れ、角度を変えてまた重なる。相手の反応をさぐるような、ぎこちないキスが続く。
皆斗の唇の温みと息遣い。それが少しずつ熱を高め、乱れていくのが日名子にも判る。
血の味が舌に滲んだ。皆斗の舌が、唇の内側に入り込み、傷のあたりをさぐっている。
「………ん…」
何度も同じ箇所を舐められ、その生々しい感触に、ぞくりと背筋が震えていた。
もう立つことも出来なくなり、日名子は全身を皆斗に預けた。両手で強くそのシャツを掴む。
皆斗が唇を強く吸う。思わず痛みに眉をしかめると、抑制したように優しいキスになる。互いに口を開き、自然に舌が触れて、少しずつ大胆になる。
また――皆斗のキスが激しくなる。
いつのまにか、痛みも忘れ、日名子は夢中でそれに応じていた。
そのまま深く、さらに深く求め合う。
「み……なと…」
「姉貴……」
何も考えられなかった。何も。身体の芯から痺れていく。身体が溶けて、心が溢れる。甘苦しい陶酔に、息も出来ない。
「も……ちょっと、したい」
わずかに唇を離し皆斗が、どこか苦しげな声で囁く。
「うん……」
日名子は、目を閉じたままで頷いた。
利樹のキスとは全く違う。ぎこちなくて荒っぽいのに、ただ、触れ合うだけで脳髄まで響くほど感じている。
何時の間にか、皆斗の手のひらが、背中から脇腹にまわっている。何度も撫でられ、その度に、自分の身体がもどかしく波打つのが判る。
やがて、手は、腹部を上がって、胸の方に這わされる。
「…や、……だ……」
「姉貴……」
「ん………」
再び手は、背中に回り、その代わり、喘ぎも呼吸も、激しいキスで吸い取られた。
唇は何度か離れ、その度に未練のように再び重なり、互いを激しく求め合った。
――皆斗………。
キスを続けながら、唐突に日名子は、泣きそうになっていた。
こんなことをして、今さらどうやって姉弟の関係を続けていけばいいのだろう。
――もう、駄目……もう、終わりだ……。
判っていても、今だけは、皆斗を離したくない。この刹那の幸せが欲しい。
日名子は固く目を閉じ、皆斗の体温を求め続けた。
10
「お姉さん? 人参の原型、なくなってますけど…」
あずさの言葉にはっとして、日名子はピーラーを持つ手を止めた。
芯近くまでこそぎ落とされて、いびつに変形した人参にようやく気がつく。
「………」
――いけない……。
溜息がもれた。
どうしても、思い出してしまっている、昨日のキスと、――そして、それより更に深刻な問題を。
「そんなに皆斗のこと気になります?」
「まあね……」
「昨日のキス当てゲーム、見たかったですー。もう後から聞いて、吃驚しましたよ、私」
「……大変なことになったからね」
日名子は曖昧に言って嘆息した。
結局、夕べの内に皆斗は松田に謝罪したらしい。松田もそれを受け入れ、一件落着したとは、遠山から聞いていたが――。
それでも日名子は落ち着かなかった。どうしても、このまま全てが穏便に片付くとは思えない。今にして思えば、昨日の松田の態度は間違いなく異常だった。なんだってあの男は、私にキスなんて(歯がぶつかっただけだけど)したんだろう。藤王が間に入って、罰ゲームなどしなくてもいい状況だった。なのに――何故。
それが、傍目にも判るほど苛々していた皆斗への挑発で。
もし――松田の行動が、最初から皆斗を怒らせるためだけに為されていたとしたら。
「藤王さん、早く戻って来るといいですねー」
「うん……」
よりにもよって、と日名子は思う。
この緊迫した情勢下で、主将の藤王が、二時間前から合宿所を出ているのだ。
怪我をした部員のつきそいで、顧問教諭と共に病院に同行しているらしい。
藤王がいなければ――実質部は、松田の天下だ。
「高見さん、ちょっと、体育館見てきてもいいかな」
限界を感じ、日名子は人参を置いて立ち上がった。
「そう言うと思ってましたよ」
あずさはすぐに微笑した。
「いいですよ、後は私がやっときまーす」
「すぐに戻るよ」
エプロンを外しつつ、心はもう体育館に向かっていた。
「私、皆斗とお姉さんの味方ですから!」
その含んだような言い方に、少しぎょっとしたものの、日名子は体育館目指して駆け出していた。