7
 
 
 厨房に戻っても、なかなかジャガイモの皮剥きに集中できなくなっていた。
 少し間があってから、あずさが囁くように言った。
「藤王さんって、見た目と剣道してる時のギャップがありすぎで、なんか目茶苦茶怖いんですよねー。お姉さんが呼び捨てにするから、吃驚しましたよ、私」
「……だって、そりゃタメ年だから」
 藤王の最後の言葉が頭の中でぐるぐる回っている。自分の思考がある所で拘泥しているのが判る。――おかしいぞ、この部は。
 そういえば、利樹も言っていた。合宿中に思いを遂げるって……でもそれは、よく考えたら、男同士の話だったのではないだろうか?
 この部では、そもそも同性同士でも全うな恋愛と認められるのか。日名子の常識が、つまりは非常識なのか。
 まさか、……みんながみんな、皆斗みたいに異常な性癖を持ってるわけじゃ……。
「……藤王と、皆斗が」
 それでも、どうしても訊いてしまっていた。あの二人がかつて噂になったというのは、本当の話なのだろうか。
「その……」
「その?」
「…………」
 駄目だ、自分まで異常な人間だと思われてしまう。
「いや、藤王って可愛いからさ。うちのクラスでも、もてもてで」
「……へぇー」
 それには、やや疑心の目であずさは頷く。
「彼女とかいるのかな。あ、間違っても私が藤王を好きってわけじゃないんだけど!」
 そこは、きっちり否定しておく。
 あずさは、何かを思い出すように首をかしげた。
「彼女はいないと思いますよ。彼氏がいるんじゃないかなぁ」
 ぶほっ、と日名子は吹き出していた。
「は……はい?」
「だって藤王さん、そっちの人だもん」
「……………………」
 わ、私の今までの常識って…………。
「お姉さん?」
「いや、いい、今の話はもう忘れて」
 誰でもいい、誰か、日名子の世界で生きている人間と話がしたかった。
「それより、……さっきの話の続きですけど」
 本当にあずさにとって、藤王の件はどうでもいい話だったのか、彼女はずずっと椅子を日名子の方に引き寄せてきた。手は、完全に休業している。
「真希さんの怪我、そんなに気にしなくてもいいと思いますよ」
 ――その話か……。
 日名子は不快な気持ちになった。正直、真希の話には余り触れて欲しくない。 
「どうして? 私が怪我させたことに変わりはないのに」
「ていうかー」
 あずさは逡巡するように髪をいじった。けれど最初から言うつもりだったのか、一度口を開けば淀みなかった。
「真希さんって最初から皆斗狙いでお姉さんに近づいたんですもん。剣道部に入部した動機もそう。皆斗と仲良かった二年の女子マネまで追い出して、ほんっと、ひどかったんですから」
「…………」
「その癖、面倒な仕事は全部一年に押しつけるから……私も遠山君も、マジ、大変だったんです。新しいマネージャー探そうにも、真希さんが絶対に許さないし」
 いや、だって。
 日名子は唖然としつつ、その、夢にも思わなかった話を聞いている。
 当時のことを思い出したのか、あずさは不満そうに唇を尖らせた。
「この合宿だってそうですよ。真希さんに部員三十人のご飯作りなんて絶対無理、もともと誰かに押しつけるつもりだったんです」
 いや、それを高見さんが言うのは如何なものか――、と思ったが、日名子は無言で眉だけを寄せ続ける。
「思ったんですけど。……多分、最初から、お姉さんを引っ張り込むつもりだったんじゃないですか?」
「……私?」
 顔をあげると、あずさは控え目に頷いた。
「だって、同性としては、100パーセント安心な相手じゃないですか。皆斗君のお姉さんなら」
「…………」
「しかも、私がこんなこと言っちゃ申し訳ないですけど、……なんかこう、お人よしの匂いがプンプンしますし」
 似たようなことは、利樹にも言われた。日名子は額を押さえていた。
 そうか。
 そういうことだったのか――でも。
「橘さんは、……藤王の幼馴染だって」
「中学が同じなだけですよ。そんなんで幼馴染なら、私とお姉さんだって幼馴染です」
 むっとした眼で、あずさはきっぱりと断言する。
「…………」
 藤王から懇願されてマネージャーになったと……いや、確かにそれは、少しばかり不思議な理由だと、今の日名子なら察しがついた。藤王のキャラ的に、そういう事態はあり得ない気がする。
「言い方悪いですけど、真希さん、怪我してラッキーくらいにしか考えてないと思いますよ。だって合宿には行かなくて済むし、皆斗は毎日通ってきてくれるし」
 ――そうだったのか。
 あずさの言葉を、すぐに真に受けたわけではないが、日名子は何とも言えない気持ちになった。
 この際、真希に利用されていたことは、どうでもいい。理由はどうあれ、日名子が怪我をさせた事実にも変わりがない。問題は、皆斗が――誘惑したわけではなかったということだ。
「皆斗って、結構人の気持ちに敏感だから、真希さんの真意も見抜いてたと思いますよー。自分のせいだって判ってたから、余計お姉さんに迷惑掛けたくなかったんじゃないかなぁ……。なんか可哀想なくらい、真希さんに尽くしてましたもん」
「…………」
 今、この瞬間、長い眠りから眼が醒めたような気分だった。皆斗の態度の全てが、まるで違ったものに見えてくる。
 日名子は、初めてまじまじとあずさを見つめた。
「……高見さんも、皆斗のこと、よく見てるんだね」 
 あずさは、はっと赤くなった。
「やだー、バレてます? でもふられたんです、高校入ってすぐ。はっきり言われました、好きな人がいるって」
「――………」
「もう十年も片思いしてるんですって、叶いませんよねー、そんなこと言われちゃ」
 十年。
 その数字の意味が、日名子の胸を騒がせた。
 有り得ないことだけれど――日名子が皆斗の姉になってから十年が経っている。
 が、不意にいつかの夜、皆斗が父と交わしていた妙な電話を思い出していた。忍び笑い、不自然なほど慌てて置かれた受話器。
 ――お父さんとも、十年だ。……
 おい、待て、それはないだろう。
 すぐに馬鹿馬鹿しい想像を否定する。――駄目だ、今はまともな発想ができそうもない。とにかく――そう、皆斗は利樹が好きなのだ。
 それ以外には有り得ない。
 その利樹と自分がキスしているところを、よりにもよって、当の皆斗に見られてしまった。
 それが、逃げられない現実だ。今はお互い、話題にすることを避けているが、いつかは嫌でも向き合わなければならない。
「あっ、いたいた、お姉さん、ちょっとちょっと」
 突然、食堂の扉が開いた。現れたのは遠山と、それから何人かの一年生だった。
 彼らはずかずかと厨房に踏み込むと、日名子の手を掴んで引っ張った。
「来てくださいよー、今面白いことやってんですから」
 
 
             8
 
 
 連れて行かれたのは、宿舎にある和室の部屋だった。
 所内で一番広い部屋で、襖を全開にすれば、二部屋続きで二十畳程度の広さになる。
「連れてきましたー」
 いきなり襖が開けられ、日名子は前に押し出された。
 広間には、部員たちがほぼ全員集まっているようだった。思い思いの服装で、リラックスした様子で談笑している。
 ミーティングの最中なのだ、とすぐに判った。さきほど別れた藤王も、部屋の隅の方で片膝に腕を掛けて座っている。
「姉貴?」
 輪の中から、すっくと皆斗が立ち上がった。Tシャツにジーンズ姿。日名子を見る顔が、ひどく不機嫌そうだったので、さすがに少したじろいでいる。
「おい、遠山、てめぇ」
「だ、だって、連れて来いって言われたんだよ」
 遠山が、おののいたように日名子の背後に回り込む。
「馬鹿言うな、姉貴は部外者じゃないか。女なら高見で十分だ」
 皆斗はさらに血相を変え、大股で歩み寄ってくる。
 意味が判らない日名子は最初の驚きのまま、ただ、立ちすくんでいた。いったい、これは何の集いだろう。皆斗は何故、怒っているのだろう。
「いいじゃないか、水城」
「俺たちが呼びに行かせたんだ。親しい者同士でやってみないと、試しにもならないだろう」
 談笑していた数人が、皆斗の異常に気づいて声を掛ける。
 二年の、特待生組である。同じ特待生組でも、三年の松田らと違い、彼らは比較的皆斗を認めているようだ。
「いや、でも」
 それでも皆斗は、何故か不満気に躊躇している。
「水城、お前と姉貴でカップル役をやってくれ。な、それで一度試してみよう」
 ――カップル?
 何が起こるのかわからない日名子は、ただ戸惑うばかりだった。
 足を止めたまま、皆斗が怒ったような視線を日名子に向ける。
「お姉さん、今、うちの部でやる文化祭の催しを考えていたんですよ」
 遠山が背後から囁いた。
「女の子に目隠しした状態でキスして、誰が彼氏か当てさせるゲームなんです。うちは、ほら、男ばかりで、カップルも何もないから。だからお姉さんで試してみようって」
「…――は?」
「大丈夫、キスって言っても手にされるだけですから」
 ――……えっ…?
 ちょっと待て、それは、いくら手といっても、このごっついヤローどもにされるのではないだろうか。
 思考が現実に追いついた時にはもう、広間の中央に押し出されていた。
「ちょ、皆斗、…」
 小声で皆斗に助けを求めるが、皆斗も苦い顔で黙っている。
「じゃ、お姉さん、目隠しして」
 遠山が、麻の手ぬぐいのようなものを持ってきた。
 日名子は思わず後ずさった。総勢三十名もの部員たちが、にやにや笑いながら注視している。その中には松田の皮肉めいた笑みもあれば、どこか冷めたような藤王の眼差しもある。
 ちょっと待って……。
 絶対に、やだ。
 遠山の手が近づいた時、皆斗の身体がようやく動いた。
「遠山、俺がやるから」
 有無を言わさない口調でタオルをもぎ取ると、そのまま日名子の前に立つ。どこか複雑な色を滲ませた鋭い眼が、真っ直ぐに見下ろしている。
「……いい?」
「………」
 日名子は、ごくんと生唾を飲んだ。皆斗が傍にいてくれるなら……大丈夫かもしれない。
 が、妙な気分だった。大勢が見守る中、皆斗の手によって目隠しをされる。
 少し暖かな指が頬に触れ、耳をかすめた。ドキドキした。胸が苦しい。頭の後ろに皆斗の両手が回る。タオルを固く結ばれながら、耳元でかすかな息遣いがした。
「……絶対に、間違えんなよ」
 皆斗の手が離れ、日名子は薄い暗闇に取り残された。
「遠山、テメー後で覚えてろ」
 聞こえる声は、もうどこから響くのか判らない。
「えー、今から、お姉さんの手に、五人の素敵な男性が口づけをします。お姉さんはその中から、可愛い弟君の唇を見つけてあげてください」
 遠山の声がした。
 ――そういうことか!
 日名子もようやく理解した。
 五人という数よりも、その中に皆斗が混じっていることの方が重要だった。
 自分の鼓動が、信じられないほど激しく高鳴っている。
「オイ、でもさ、姉と弟じゃ、やっぱ無理があるだろう」
「実際にキスしたことがなきゃ、普通は判んないもんじゃない?」
「判ったら、ある意味すごいよなー」
 声だけが、いたずらに耳に届く。
「じゃ、一番いきまーす」
 再び遠山の声がする。
 自分の手が、誰かの手に掴まれた。そのままぐっと引き寄せられ、乾いて柔らかいものが甲に触れた。
 一斉に冷やかしの声が飛ぶ。なんとも言えない感触だった。気持ちが悪いというのがぴったりの表現だ。
「二番手いきまーす」
 遠山の声。再び別の感触が手に触れた。少し湿って暖かな掌だった、皆斗ではない。
 同じことがもう一度続き、四番目に手を取られた。
 少し、強く手を掴まれた。
 乾いて暖かな掌の感触、そして、長い指と関節の膨らみ。
 皆斗のような気がした。
 一瞬強い力で手を握られ、それから、かすかな息遣いが甲にかかった。
 柔らかいキスが押し当てられ、それはすぐに離れていった。心臓が壊れそうだった。何がどう他と違うというのではない、それは皆斗の唇だった。皆斗の香りが、気配が、キスから濃厚に伝わってくる。
 五人目が終り、日名子の答えは決まっていた。迷うまでもない、四番目だ。
 ――でも。
 先ほど耳にした軽口が、胸苦しく蘇えった。
(実際にキスしたことがなきゃ、普通は判んないもんじゃない?)
(判ったら、ある意味すごいよなー)
「お姉さん、目隠し取っていいよ」
 遠山の声がして、日名子は黙って目隠しを解いた。
 少し視界が暗かった。人の輪の中から、立ったままの皆斗が、食い入るように見つめているのが判る。
「お姉さん、何番ですか?」遠山が急かす。
「……五番」日名子は嘘を言った。
 わっと歓声が上がる。
「やっぱ、無理だよ、これじゃ試しにもならないって」
「姉弟と恋人は違うもんなー」
「でも、結構ドキドキしたぜ、俺」
「俺は役得、女の子の手なんて久しぶりに握ったし」
 日名子は曖昧に笑んだまま、顔を上げることができなかった。皆斗が――多分、猛烈に怒っているような気がする。
「で、どうするよ? ルールでは、ここで五番の男と罰ゲームのキスをしなきゃいけないんだけど」
「松田、どうする?」
 日名子はさすがに仰天して顔を上げた。
 ――……ちょっと、冗談じゃない!
 松田征司は少し離れた場所に座っていた。
 彼も、その要求は心外だったのか、ぎょっとした眼で、立ちすくむ日名子を見上げている。周囲の囃し声がエスカレートし、「やれやれ」という声があちこちから上がる。
 大声で囃したてているのは、もっぱら、松田の取り巻きたちである。
 正直日名子は、この合宿でますます彼らが嫌いになった。松田は副主将らしく、それなりに稽古に打ちこんでいるが、彼らは、その松田の影で、ただ権威だけを誇示しているように見える。
「いい加減にしろ!」
 いきなり皆斗が怒鳴ったのはその時だった。日名子は吃驚して息を引き、一瞬白けたような沈黙が周囲に落ちた。
「姉貴、行こう」
 ついっと顔を逸らした皆斗の手に、腕を掴まれる。
「水城、てめぇ、一年のくせに、なんつった」
 それを遮るように立ち上がったは、騒いでいた松田の取り巻きの一人だった。
「今、誰に向かってものを言った。いい加減にしろだと? てめぇはな、口の聞き方がなってねぇんだよ!」
「なんだと?」
 皆斗は少しもひるまない、肩をいからせたまま身構える。
 まずい、日名子は息を飲んだ。皆斗は感情の抑制が出来ていない。 
「まぁ、いいじゃないか」
 不意に穏やかな声が、喧騒を静かに遮った。
 特に声を荒げているわけではないのに、不思議な重みのある声だった。――藤王である。
 途端に、座敷中が、しんとする。
「水城は、姉さん思いなんだ。察してやれ、遊びはここまでにしておこう」
 その発言力の大きさに、日名子は内心驚いていた。
 怒気を顕わにしていた皆斗はもちろん、収まりのつきそうのない松田の取り巻きたちでさえ、不思議に気まずい顔で黙り込んでいる。
「文化祭の出し物はこれでいいだろう。ミーティングは以上だ、解散」
 簡単に場を収めた藤王が立ち上がる。
 場の雰囲気が緩んでいく。日名子の目にも、皆斗の背中から力が抜けていくのが判った。
「……おい、待てよ」
 が、一人だけ、何故か不満気な感情を引きずっている男がいた。
 松田は、いきなり立ち上がった。ひどく怒ったような眼差しが、強く藤王を捉えている。
「ゲームは最後までやんなきゃな。……初志貫徹だよな、藤王」
 足を止めた藤王が、わずかに目をすがめるのが判った。
 次の瞬間、松田が、獰猛な勢いで突進を始める。日名子は吃驚した。え? 私? なんで?
 咄嗟に皆斗に助けを求めたが――駆け寄って来る勢いに気おされて――逃げる間もなく巨体に抱え込まれていた。
「?―――わっ」
 パニックになって、まさに手足をばたつかせる。
 がちん、激しい音がして、目の前に白い火花が散った。
「…ったー」
 キスというよりは、固いものが歯にぶつかったような衝撃だった。余りの痛みに、口を押さえて顔をしかめる。多分、口腔内のどこかが切れている。
 ――最悪だ……。
 ある意味、ディープなキスより深いキス。この最悪さ加減を、どう表現すればいいのだろう。まぁ、実際のところ、キスというより衝突事故のようなものなのだが。
 あっさり日名子を投げ捨てて立ち上がった松田が、勝ち誇ったようにVサインを頭上に掲げる。どっと沸きたつ歓声と口笛。
 いい気なものだな、と眉をしかめながら日名子は思った。そうだ、皆斗が怒り出す前に、これは事故だと説明しないと――。
 目の前で、松田の大きな身体が跳ね上がったは、その時だった。
 日名子は、口を押さえたままで凍りついていた。
 皆斗が松田を殴ったのだ――と、理解できるまでに数秒を要していた。
「み、みみ、皆斗っ、お前なんてことを」
 最後に、遠山の当惑しきった声が聞こえた。
 痛いほど腕を掴まれた日名子は、そのまま、皆斗に引きずられるようにして部屋を出た。

 
 
 
 
 
 
 
 

home next back
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.