5
昼食の席に、皆斗の姿はなかった。お世辞にも美味いとは言い難い焼きソバを皿に盛り、日名子は皆斗の姿を探して部屋を回った。
空き部屋をいくつかのぞくと、案の定和室のひとつに、仰向けになった皆斗が倒れていた。
喉を反らし、目を閉じている。眠っているように見えたが、起きているのだと日名子には解かった。
「………皆斗」
日名子は皆斗の傍に腰を下ろした。
「………ダメ、匂いで吐きそう」
皆斗は目を閉じたまま呟いた。
「食べないともたないよ。どうせ夜まで、稽古があるんでしょ」
反応がない弟の頬を、軽く拳で小突いてやる。
「皆斗……大丈夫なの」
「何が」
「………いじめられてる、とかじゃないの」
「誰に」
「松田とか……藤王とか」
「そんなんじゃないよ」
ようやく目を開けた皆斗は、少し可笑しそうな口調になった。
「………藤王さんには、考えがあるんだ。……それは解かってる、……でも」
皆斗は呟き、少し黙って――再度、苦しげに目を開じた。
「俺には、あの人が、俺に何を求めてるかわかんねーんだ、……情けないよ」
「………」
「……泣きたくなる…」
皆斗は片手で目を覆った。信じられなかった。本当に、皆斗が――泣くのだろうか。実母の死ですら一滴の涙を見せなかった皆斗が。
そこまで皆斗を追い込む藤王に、日名子は嫉妬にも似た感情を覚えていた。
今の皆斗の心には――多分、藤王しかいない。
日名子は手を伸ばし、皆斗の髪を優しく撫でた。皆斗は目を手で覆ったまま、されるままになっていた。
「……姉貴……」
その唇から、どこか乾いた呟きがもれた。
髪に絡めていた指ごと手を掴まれて、日名子は手を止めて、皆斗を見下ろした。
皆斗はまだ、片手で目を覆ったままだった。
「……俺、飢えて、……死にそうだ」
「……食べてよ」
「いいのか」
「?……ただ、あまり美味くないけど」
皆斗が笑い、掴まれていた手が離れた。
「……姉貴は鈍いなぁ…」
笑いながら身体を起こし、皆斗は目をこすって顔を向けた。
「せっかくだから食うよ。悪いけど、茶くれる?」
「うん」
少し嬉しくなって立ちあがった。
「すぐに持ってきてあげるから、食べときなさいよ」
部屋の外に出てから、今の会話の意味を不思議な気持ちで思い返した。
お茶を用意してこなかったことを指して、鈍いと言われたのだと思ったが、それだけでもないような気もする――。
「あれ? お姉さん、またまた嬉しそうな顔して、何かありましたー?」
食堂に戻ると、すぐにあずさにからかわれた。
「別に」と、返しながら、日名子は唐突に理解した。
理解して、途端に喜びは不安と絶望に転化した。
「……お姉さん?」
「……なんでもない」
好きなんだ。
日名子はカップにお茶を注ぎながら、自分の感情の正体をようやく受け入れていた。
――好きなんだ、私、…皆斗が。
いつから?
それはもう考えるまでもない。日名子は全てを自覚していた。今年に入ってからの胸苦しい葛藤の日々、皆斗と利樹のこと、そして利樹を受け入れようとした自分のこと。
全てが一本のラインで繋がっていた。それに今頃気がついた――なんとも皮肉なことに、取り返しのつかない今になって。
――好きなんだ。誰にも渡したくない、誰にも指一本触れて欲しくないくらい……皆斗のことが。
日名子は苦い思いでカップを握り締めた。
それはどう望んだところで、叶わない願いだと思った。
6
合宿も五日目に入った。
最初は戸惑うばかりだった日名子も、ようやく一日のリズムに慣れてきた。料理も手際よくこなせるようになり、勉強時間もある程度集中して取れるようになっていた。
「お姉さんの料理、美味しいって評判なんですよー」
夕食のシチューに使うジャガイモをむきながら、あずさは不満そうに唇を尖らせた。
「昼だけ評判悪いんです。なんか、私、女としての自信なくしそう」
――…あったのか……。
それは口に出さずに、日名子もジャガイモの皮をむき続けた。
「お姉さん、大学うちの附属に進むんですよねー、だったらいっそのこと、このままマネージャーになりません?」
「それは……まぁ、やめとく」
少し言葉を詰まらせていた。このまま皆斗を見ていたいような気もするが、それは辛くなるだけだろう。
「お姉さん大人気だから、みんな大喜びですよ。お姉さんがお風呂入る時間、いつも廊下は大混雑じゃないですかぁ?」
「た、高見さん……」
包丁が滑って、指を切りかけていた。
冗談だとしても笑えないし、本当だったら即刻ここから退散する。
「それは冗談ですけど、皆斗、お姉さんがいるといないとじゃ全然雰囲気違うから。周りも吃驚してるんですよ、マジで」
「……ホントに…?」
思わず手を止めていた。あずさは真面目な顔で頷いた。
「なんていうか、すっごく話しかけやすくなったですよー。以前は人当たりはよくても何考えてるかわからないっていうか、周囲に壁作る人だと思ってたけど、合宿入ってからは全然そんなことなくて……。あんな皆斗、真希先輩が見たら泣いて喜びそう」
不意に真希の名前が飛び出したので、日名子は少し驚いていた。
苦い感情が顔に出ていたのか、あずさが申し訳なさそうに首をすくめる。
「あのー…、あんまり気にしない方がいいと思いますよ、真希先輩の怪我のことは」
「え?」
一瞬意味が判らず、どうして? と訊きかけた時、あずさが急に顔色を変えて立ち上がった。
日名子も驚いてその視線の先を追う。すぐにあずさの態度が理解できた。カウンターを隔てた食堂に、Tシャツとジーンズ姿の藤王暁が立っている。
――藤王……。
思わず、ごくりと唾を飲んでいた。
さらっとした繊細な茶髪に、色白の頬。言い方は悪いが、ちょっと上背のある女の子みたいな風体だ。なのに、ただそこにいるだけで、妙なほどの存在感がある。淡々とした眼差しからは、相変わらず一切の表情が読みとれない。
「ふ、藤王さん、今日は、練習は」
あずさは緊張しているのか、しどろもどろになっている。
「午後からはミーティングだ」
藤王は言葉少なに答え、静かな目線を日名子に向けた。
「水城、少しいいか」
「は、…いいで……けど」
あずさの緊張が伝染して、日名子まで敬語で答えかけていた。
――私になんの用だろう?
不審に思いながらカウンターを出て藤王の前に立つ。
藤王は表情を変えずに口だけを開いた。
「一階の布団部屋に出入りするのは、水城だけか」
「――…は?」
質問の意味が判らなかったが、藤王はそれ以上何も言わない。仕方なく頷いた。
「多分……私だけだと思うけど」
シーツは一日十枚ずつ洗濯し、布団部屋にストックしておく。午前中にそれを運んで取り替えるのは、基本的に日名子一人でやっている。
「あの……それが」
藤王は、遮るように口を開いた。
「ありがとう、邪魔をした」
「は?」
それだけだった。綺麗に伸びた背中を向けると、藤王はそのままさっさと歩き出す。
――なんなんだ、一体。
一瞬あっけにとられたが、すぐに思い直してその後を追った。機会があればこの男と話をしてみたいと、日名子はずっと思っていた。
皆斗ははっきり否定したが、日名子には、あの稽古はいじめだとしか思えない。
「ちょっと……、藤王」
食堂を出た所で声を掛けると、藤王はあっさりと足を止めて振り返った。
静かな、そして落ち着いた目をしている。初めて日名子は、この男が非常に整った容姿をしていると気がついた。雰囲気は地味だが、よく見れば凛とした美貌を湛えている。
なんだか微妙な気持になる。
男にしか興味がないという藤王――。もしそれが本当だとしたら、体格的に女役だという気がする。そういえば皆斗は、日名子が馬鹿な質問をした時、「相手次第かな」と妙な答えを返してきた。あれは……今にして思えば、誰を思い浮かべていたんだろう。
「聞いてもいい……?」
日名子が言うと、ガラス玉のような男の眼に、わずかに穏やかなものがよぎった。どうぞ、と無言で促されているようだ。日名子は思い切って口を開いた。
「弟のことだけど、……もしかして藤王、皆斗に何か、因縁でも持っているのかと思って」
多分皆斗が聞いたら、本気で怒りだすだろう。
余計なことをしているとは、十分に自覚している。
「いや」
けれど、藤王の答えはあっけなかった。そしてそれだけを返すと、再び元のように口を噤む。
「え……でも」
日名子は戸惑って言葉を捜した。な、なんつー、会話のしにくい相手だろう。これでは、なんの糸口も見つからない。
「み、皆斗が、あんたに憧れていることは知ってるんでしょう?」
わずかに形良い眉が上がったようにも思えたが、返ってくる反応はなかった。
「なんか、その辺りで遺恨でも残ってるんじゃないの? その、皆斗に」
――皆斗に。
さすがにその先を続けるのは、多少の勇気が必要だった。
「皆斗に何かされたとか!」
一気に言って、日名子はぱあっと赤面した。
ああ、なんて馬鹿なことを聞いているんだろう。すっかり脳が、異常な世界に毒されている。利樹といい皆斗といい……目の前の男といい、いったい世の中の男連中の頭はどうなっているのか。
「いや」
日名子の言わんとしていることが、真の意味で通じたのか通じていないのか、やはり、藤王の答えはそれだけだった。
それきり、返ってくる反応はない。
「……え」
日名子は困惑しつつ、視線だけを彷徨わせる。
じゃあ……やはり、特待生組とエスカレーター組の争いが原因だろうか? が、明らかに皆斗より腕がたつ藤王が、そんな些細なことに拘っているとは思えない。
「本当に、何もないの?」
しつこいようだが、日名子は食い下がっていた。
「だって明らかに、他の一年と扱いが違うじゃない。何もないなんて、ちょっと信じられないけど」
「ああ」
藤王は、初めて得心したように頷いた。
「そういう意味では特別だ」
「そういう意味……?」
動かない男の表情が、わずかに笑ったような気がした。
「俺が水城を気に入っているという意味だ」
え…………。
あっけにとられる日名子を尻目に、そのまま藤王は背を向けた。
――ど、どど、どういう意味よ??
混迷は、ますます深く、複雑になる。
ここにきて、まさか別の男が間に入ってくるとは思ってもみなかった。
判らなくなる。いったい皆斗の本命とは誰なのだろうか――。