2
バスを降りた途端、潮の匂いが鼻をついた。風が湿り気を帯びている。海が近いのかもしれない。
利樹の言ったとおり、ひどく寂しい場所にその合宿所は建てられていた。
周辺には荒地ばかりで、商店街も民家も見当たらない。一番近いコンビニまで行くのに車で三十分はかかると聞いて、日名子は呆然としてしまった。
所内に入ると、早速仕事が山積みだった。
一年生が防具等の荷物を更衣室に運び込み、二年生以上は即座に稽古。あずさは、三時間後に迫る夕食の支度に取り掛かった。
「お姉さん、食事は私が作るんで、宿舎の掃除と布団の用意頼んでいいですか」
そう言われ、大丈夫かな、とは思ったが、取り合えずあずさの指示に従うことにした。ああみえて料理の達人なのかもしれない。日名子一人では、三十人分の食事を三時間で作れと言われたら……ちょっと引いてしまうのだが。
プレハブ三階建ての宿舎は意外に広かった。前面には広いグランドがあり、体育館と更衣室が別個にある。誰が遊んだのか、グランドの中央には花火の跡が残っていた。
宿舎の中にはいつくもの洋室と和室があり、洋室には三段ベッドが備え付けてある。基本的に六人部屋だが、日名子は空いている三階の和室を一人で使わせてもらえることになっていた。
本来なら、高見あずさと二人部屋なのだろうが、受験生――になるかもしれない、ということで、気を使ってもらったのだろう。
「マネージャーは起床時間が違うから、部員のみんなとは、階を別にしてもらってるんですよぉ」
とは、あずさがバスの中で説明してくれた。
部員の方が早く起きるのかと思いきや、早朝五時から起きなければならないのは朝食を作るマネージャーの方らしい。
――これは、予想以上にハードかもしれない……。
一階にある布団部屋から二階の和室に布団を運びながら、日名子は少しばかり後悔していた。
最悪、この秋に受験しなければならないことを考えたら、あまり遊んでばかりもいられない。本当に、この状況で勉強する時間が取れるのだろうか。
「…っつー、腰にくる」
各部屋に布団を運び、ベッドに乗せておく。それだけの作業だったが、総勢三十人分となると、半分をこなした所で、もう足腰が立たなくなった。
それでもなんとか作業を終わらせ、様子を見るために一階の厨房に行ってみて驚いた。
山のように積まれたダンボールに、野菜が溢れかえっている。
あずさはその整理をしていたのか、夕飯の準備は全く手付かずのままだった。
「すいませーん、何からしていいか、わかんなくて」
とりあえずお米を探してたんです。と悪びれもせずに言うあずさに、日名子は前途多難なものを感じて、額を押さえた。だったら、双方の役割を交代すべきだったのだが、このふわふわっとした華奢な少女に、布団の上げ下ろしができたとは思えない。
――これは……もしかして、ハードなんてもんじゃないかもしれないぞ。
不安を通り越してぞっとしたが、ここまで来て、むろん、もう後には引けない。
その夜のメニューは、肉じゃがと味噌汁、副菜としてマーボ茄子を作る予定だったが、時間の都合でカレーに変更せざるを得なくなった。
食堂から部員たちが引くと同時に、あずさもどこかに消えてしまって、結局後片付けも全て、日名子一人でする羽目になった。
部屋に戻る頃には、十時を軽く過ぎていた。あまりの疲労に、眩暈と憤りを覚えたが、ハードなのはマネージャーだけではないのだと思い直した。
体育館からはまだ明かりが漏れていて、何人かが居残りで稽古している気配がする。
皆斗の姿が見えなかったので、きっとまだ体育館に残っているのだろう。
皆斗に較べたら、――これくらいなんだ、という負けん気が沸いてくる。
けれど意識できたのはそこまでで、日名子はそのまま、引きかけの布団に倒れるようにして眠ってしまった。
3
翌朝は五時起きだった。
覚悟してはいたが、あずさはやはり起きてはこなかった。炊飯器だけは夕べのうちに米を入れてセットしておいたので、味噌汁を作り、魚を猛ダッシュで焼きまくった。さすがに焦げたり生焼けだったりしたが、もうそんなことに構う余裕はなかった。
あずさが「すいませーん」と起きてきたのは六時すぎで、その時にはすでに、配膳するだけになっていた。
「お姉さんってすごーい、あずさ、お嫁さんになりたいです」
「……それはどうも」
二つも年下だと思うと仕方ないか、と諦めもついた。この苦労を背負うはずだったのが橘真希だと思うと、もう辛抱するしかないなと覚悟も決まった。
七時に、部員たちが起き出して来る。
独楽鼠のように茶碗にご飯をよそいつつ、次から次へと伸びてくる腕に渡し、渡してはよそった。あずさは、しおらしく、お茶を注いで回っている。
「はい、おかわりどうぞ」
空の茶碗を差し出されたので、機械的に反応した途端、
「まるで、定食屋の親父みたいだな」
少し高いところから声がして、顔を上げると皆斗だった。
皆斗はすでに稽古着を身につけ、きっちりと袴を締めている。髪が、まだ乾ききらない汗で濡れている。少し眩しそうな目をしていた。
「……朝稽古?」
「姉貴も早かったみたいだね」
それだけ言って、皆斗はきれいに伸びた背筋を向けた。
一昨日以来、初めて交わした会話だった。
「あれ、お姉さんどうかしました?」
空のヤカンを持って帰ってきたあずさが、日名子を見上げて不思議そうな顔をした。
「なんか、いいことありました? すごく嬉しそうに見えますけど」
「べ、別に」
――どんな顔をしてんだ、私は。
動揺したが、確かに日名子は嬉しかった。皆斗と話ができたのもそうだが、皆斗が自分を見ていてくれた、――それだけのことが、信じられないくらい嬉しかった。
4
後片付けを済ませ、宿舎の掃除を一通り終えると、「お姉さん、お昼は私と一年生で作りますから」と、あずさに言われ、日名子は少し驚いた。
「お姉さん三年だし、勉強しないといけないって、皆斗からも言われてるんです。お昼は簡単なものでいいですし、三時まではゆっくり勉強しててくださいね」
そう言われて、ありがたく部屋に戻ったものの、どこか落ち着けず、開いた問題集にも集中できないままでいた。
所在なく部屋を出ると、空き部屋からあずさの笑い声がした。食事当番であろう一年生の部員たちと、どうやらトランプを楽しんでいるらしい。
――大丈夫なのか?
とは思ったものの、そのまま体育館の方に行ってみることにした。
こんな機会でもなければ、皆斗が練習している姿など、目にすることはできないだろう。
今まで、故意に避け続けてきたのが不思議なほど、今、日名子は、剣道をしている皆斗が見たかった。
体育館の扉は開け放たれていて、遠くからでも、内部の気合と竹刀の音が聞こえてくる。
歩み寄った日名子は、壁面の窓からそっと中の様子を窺い見た。
――うわ。
裂帛の気合とともに、竹刀のぶつかる凄まじい音がした。
体育館の端から、一気に押し切るようにして、組み合う片方が竹刀で相手を打ち込んでいる。
面、面、小手、胴、小手、面、突き、――息もつかせない。
受ける方は、防戦一方で、竹刀を受けながら後退していく。
一気に体育館の端から端まで移動して、そこから攻め手と受け手が交代した。
同じように、呼吸する間もない気合で、次々と打ち込みながら移動する。
それがもう一度繰り返され、ようやく双方の身体が離れた。
双方は、綺麗に伸びた背筋で、距離を置いてから立礼する。
そのまま体育館の隅に膝をつき、肩で荒く息をしながら面紐を外し、面を取ったのは皆斗だった。髪も、顔も、首筋も、出ているところは全て汗で濡れ尽くしている。
「すごいな、皆斗、藤王さん相手に、互角に追い込みできるの、一年じゃお前だけだぜ」
隣に座っている誰かがそう声を掛けたのが、日名子の耳にも入ってきた。
「っせーよ、こっちは一杯一杯だっつーのに」
皆斗は声を出すのも苦しそうだった。
「あの人、汗もかいてねーじゃんよ」
日名子は皆斗の視線を追った。対角線の向こうで、同じように面を外していたのは藤王だったが、皆斗の言うとおり、呼吸はまるで乱れていなかった。普段とおりの、涼しげな顔をしている。
「水城、休むな」
その藤王が、日名子がはじめて耳にするような、ひどく鋭い声で呼びかけた。
「ッす」
皆斗は竹刀を掴み、直立不動で起立する。
「補欠組は水城相手に打ち込み稽古、始め」
「ッす」
皆斗は即座に面を付け直す。
たちまち、皆斗の前に、十人余りの防具をまとった者たちが並んだ。
一人が前にでる。
「よろしくお願いしまっす」「ッす」互いの立礼が済む。
皆斗は竹刀を正眼に構え、そのまますり足で前に出た。
その皆斗に向かって、気合とともに竹刀が打ち下ろされる。皆斗は時折竹刀で応戦するものの、基本的に打たれるままになっていた。面、胴、小手、抜いて面、抜いて小手、すりあげて面、獰猛な勢いで竹刀が襲い掛かっていく。
日名子は目を逸らしたくなった。ひどい――これは、本当に稽古なのだろうか。
「やめっ」
藤王の声がして、打ち込んでいた方は呼吸を乱しながら後退し、立礼した。
「次っ」
次の者が進み出る。それが五人目になると、皆斗の腕が上がらなくなっているのが、日名子にも解かった。はげしく打たれ、後退し、もう――打たれるがままになっている。
飛び出して行ってやめさせたかった。これほど過酷な稽古をやらされているなど、考えてもみなかった。あれでは、皆斗が――
「あれ、皆斗のお姉さん? 何してるの」
背後から声を掛けられて振り返ると、バスで皆斗の隣席だった男が立っていた。稽古着は身にまとっているものの防具もつけておらず、呑気そうな顔をしている。
「あ、俺、遠山って言います。皆斗とは小学校の時から一緒なんだけど、中学で別々に」
「あれは、どういう稽古なの」
遮るように日名子は訊いた。
「ああ……あれね」
一瞬戸惑った遠山も、体育館の中に目をやり、わずかだが眉をひそめる
「打ち込み稽古って言って、技を出すための練習なんです。普通は上級者が打たれ役をするもんだけど、……藤王さん、なんでかいつも、皆斗にそれやらせるんだよね」
「打たれる方は、反撃しちゃ駄目なわけ?」
「駄目っつーか、相手の技を磨くための稽古だから、わざと隙を見せて打たせてあげなきゃいけないんです」
それで、皆斗は一切反撃しないのだ。いや、この場合、できないと言うべきか。
道場では、まだ皆斗が、ほとんど無抵抗で打たれるままになっている。周囲の部員たちの表情は様々で、あからさまに笑っている者もいれば、目を逸らしている者もいる。
藤王は――表情ひとつ変えず、冷然と、いじめと紙一重の稽古を見つめている。
「顧問の先生は何してるの、監督はどこなのよ」
「いや、うちの場合、今は藤王さんが監督みたいなものだから」
「はぁ??」
日名子の剣幕に、遠山はたじたじになっている。
「だって、監督からして、そもそも藤王さんには敵わないし。全権預けてる状態なんですよ、マジで」
「…………」
なんなのよ、それ……。
「藤王って……どういう奴よ」
本当に信用できるのだろうか。あれが、本当に単なる稽古だと言えるのだろうか。
「どういうって……お姉さん、皆斗に聞いてないですか。剣道界では、百年に一度出るか出ないかの神童って言われて、あの人の名前なら」
「そういうんじゃなくて、人間的にどうかって意味よ!」
「…………謎です」
しばし考えた後、遠山は本当に、理解しがたいとでもいうように首をかしげた。
「何考えてるか判んないというか、そもそも判らせるつもりがないっていうか。無駄な会話は一切しないし、表情とかもあの通りだし」
「…………」
その程度の理解なら、日名子と大して変わらない。
「ただ、……そういう意味なら、無駄だと思いますよ」
が、何故か遠山は、妙に気の毒そうな目になって日名子を見下ろした。
「……?」
「いや、藤王さん、子供の頃から男ばかりの世界で生きてきたから、基本的に女には興味ないっていうか」
「誰がそんなくだらないこと訊いてるのよ!」
思わず、ばこっと、遠山の頭を叩いていた。
「……すげーつっこみ慣れてる……皆斗が基本、ボケだからっすか」
頭を撫でながら、遠山は妙なところで納得している。
日名子は嘆息し、この男と会話する努力を放棄した。さすがは皆斗の友達だ。まさに類友というやつか。
――藤王は……つまり、皆斗が嫌いなんだろうか。
藤王もまた特待生、スポーツ推薦組だ。
あの野郎――、と内心日名子は胸に炎が燃えたつのを感じている。しれっとした大人しい顔で、とんでもない悪党だった。ある意味、松田より性質が悪い。
「藤王さんは、確かに何考えてるかわかんないです。……でも皆斗は、あの人、尊敬してるようですよ」
背中で、遠山が遠慮がちに呟いた。
「あくまでジョークの世界ですけど、皆斗が藤王さんにマジ惚れしてるって、それで部内で騒動になったくらいだから」
「………は?」
今の言葉は聞き逃せなかった。マジ惚れしてる……?
「それ、どういう意味?」
おそるおそる日名子は振り返った。こと皆斗に関して言えば、それはジョークの世界に留まらない。
「いや、だから藤王さんは男にしか興味ない人だから」
「皆斗は、…………」
「あいつもおかしいでしょ? あんなにもてるのに、彼女なんか作った試しがないし。それで、二人が出来てるんじゃないかって、一時ばーっと噂になったんすよ。笑っちゃいますよねー、いくらなんでも男同士で!」
まったく笑えない日名子は、強張った目を、再び道場の光景に戻した。
十人の稽古を終えた途端、皆斗はその場に膝をついてしまっていた。
竹刀だけで、かろうじて身体を支えているのが、遠目からでもよくわかる。
「水城」
冷たい声がした。もう声だけで、日名子にもそれが、藤王のものだとすぐに判った。
「ッす」
そしてその声だけで、皆斗はすぐに背筋を正して起立する。
「作法を忘れたか、ばかものめ! 三年、水城相手にかかり稽古を務めてやれ」
「ッす」
皆斗の周りを、今度は一段と大柄な連中が取り囲んだ。
その中に、<松田>の名前をつけた垂れがあることが、遠目から見ている日名子にも解かった。
「ちょっと、かかり稽古ってなんなのよ」
日名子は、傍らの遠山の袖をひっぱりながら訊いた。
「……いろんな技を、一気に、わき目もふらずに出し続ける激しい稽古です。今度は、皆斗が打ち込むんだけど、これがもう、目茶苦茶ハードで」
遠山も、これはないと思ったのか、さすがに眉をしかめている。
「ひぇー、十人相手かよ。こりゃ皆斗、今夜もメシが食えねぇかも」
「昨日も、食べてないの?」
準備に夢中で皆斗のことまで気が回らなかった。そういえば夜はずっと姿が見えなかったような気がする。
「夕べ、あんまり稽古がきつすぎて、吐いたんです、あいつ」
「………」
「はじめっ」藤王の声がかかる。
「よろしくお願いしまっす」
皆斗は竹刀を構え、最初に出てきた相手に猛烈な勢いで打ち込み始めた。
小手、面、胴、上段から面、小手からすりあげて面。息もできない、竹刀の音だけがひたすら響く。周囲のものはその凄まじさに手を止めて皆斗の様子を窺っている。
「やめっ」
藤王の声がした。「次っ」
皆斗の前に別の者が進み出た。
「よろしくお願いしまっす」
すぐに打ち込みが始まった。しかし明らかに皆斗の力は落ちている。
「水城、気を抜くな! 相手をしている三年に失礼だろうが!」
藤王の叱責が飛ぶ。
日名子は目をそらしていた。もうこれ以上、見続けているのが辛すぎた。