<第2部>
1
剣道部が恒例の合宿に向けて出発したのは、夏休みも中盤――朝から、からりと晴れ渡った日の、午後のことだった。
場所は、K市にある附属大学専属の合宿所。
一台の大型バスに総勢三十名の部員と、監督、そしてマネージャーが乗り込んでの、大所帯である。片道二時間たらずだが、バスの中はにぎやかな喧騒が絶えることなく続いている。
そんな中―― 一番前の席に陣取った日名子一人が、所在なく窓の外を見つめていた。
同じクラスの松田征司や藤王暁をはじめ、三年生の中に知った顔は何人かいる。が、体育会系の彼らと日名子の接点はほとんどなく、話す気もないが、話せそうな相手は、そもそも一人もいなかった。
K市にある合宿所は、大学の施設のひとつだが、この次期はシーズンオフで、本来なら解放されていないらしい。
毎年この時期、自炊を条件に高等部の剣道部が安く利用させてもらうことになっている――と、日名子はもう一人同行したマネージャー、一年の高見あずさから教えられていた。
「みんな、仲がいいんですけどー」
その高見あずさが、途中から日名子の隣に移ってきてくれた。
それまで、一年男子の輪の中で、楽しそうに会話に興じていたあずさだったが、一人ぼっちの日名子に気を使ってくれたのだろう。もともと一人に慣れている日名子には、さほど嬉しい展開ではなかったが、それでも、男だらけの車内、唯一の女性に傍にいてもらえると少しばかり心強かった。
高見あずさは小柄で驚くほど顔が小さい。髪が綿飴みたいにふわっとしていて、まるで人形のように可憐な少女だった。
「三年の一部に、ちょっと感じの悪い人たちがいるから気をつけてくださいねー。あ、でも、主将の藤王さんがいる時は、みんな猫みたいに大人しいから大丈夫なんですけど」
「……藤王、そんなに、みんなに恐れられてるんだ」
日名子は意外な気持ちで訊いていた。
「恐れられてるなんてもんじゃないですよ」
あずさは、おぞけを震うように顎を引く。
「同じクラスなのに、知らないんですか? 藤王さんが怒ったら、もう、世界は氷河期ですから」
「そ、そうなんだ」
「ゴオオッて、冷たい風が……、どっちかっていったら、外見が柔らかいから、みんな、一度は誤解してひどい目にあうんですよね」
「へ、へぇ……」
「一回でもあの人に、本気で叩きのめされたら、剣道なんて二度とやりたくなくなるそうですよ」
そこまで??
振り返ると、一番後ろの席で、腕組みしたまま目を閉じている藤王暁の姿が見えた。眠っている割には姿勢がよすぎる。とはいえ、周囲の騒ぎにぴくりとも反応しないあたり、寝ているようにしか思えない。
――判りにくい奴……。
他の連中に較べると、むしろ華奢にさえ見える彼からは、迫力の欠片も伝わってこない。日名子はあらためて首をかしげていた。本当にこの男が、神童だの怪物だのと称される剣道界のスターなのだろうか。
が、確かに松田征司とその取り巻き連中は大人しくしているようだった。馬鹿騒ぎはしているものの、せいぜいトランプで盛り上がっている程度である。教室で日名子に絡んでくるような、悪質な匂いは感じられない。
あずさは話好きな性質らしく、それからもずっと喋り続けていてくれた。おかげで日名子は、癖のある部員たち全ての情報を知ることができた。
そして、この部が抱える、潜在的な問題も――。
「つまりうちの部は、昔から強豪ってことになってますけど、実際強いのは特待生だけで、中等部から上がって来た部員は全然弱いんですよー」
あずさは声をひそめて教えてくれた。
「だから自然に、部の中に階級っていうか、派閥みたいなものができちゃうんです。トップに居座るのが特待生組で、その下で小さくなってるのがエスカレーター組。もともと特待生はエスカレーター組に反感もってるから、部ではとことん馬鹿にするっていうか、ぶっちゃけ、いじめちゃうんですよね」
確かに、皆斗は特待生ではない。この学校に附属中学から在籍していて、たまたま、高等部に藤王がいることから、進学を決めた。でも――。
「皆斗は、かなり強いよ」
「それが問題なんですよ」
あずさは、ますます声を低くした。
「うちの部の歴史の中で、あんなに強いエスカレーター組はいなかったそうなんです。だから皆斗の存在は、強さだけが拠り所の特待生組には、脅威なんですよ」
「…………」
それは、確かに的を得た説明だった。
そういえば、利樹もまた、スポーツ推薦で進学を決めたはずだった。中等部からエスカレーターで上がるという道もあったが、学費免除の特待生試験を受け、大学進学もそれで決めた。
皆斗は……そうはしなかった。何故か、普通の試験を受けて、高等部に上がる道を選んだのだ。
あずさは続けた。
「その上、皆斗は、……なんていうのかな、派閥とかグループとか、そういうのに一切興味示さない人だから。松田さんたちの誘いも無視してたらしくて、で、とことん嫌われるようになっちゃったんです」
日名子は全く知らなかったが、藤王も松田も、ついでにいえば松田といつもつるんでいる連中も、全てスポーツ特待生だったらしい。
話を聞き終えて、さすがに複雑な気持になった。藤王も特待生――ということは、皆斗の憧れの人が、敵ってことか……。
「皆斗、お前寝すぎ、一体いつまで寝てんだよ」
背後で声がして、条件反射で日名子は振り返っていた。
「んー、…もう着いた?」
少し寝ぼけた声がする。
皆斗の声。
ドキっとしていた。よく考えたらこういう集団の中で、皆斗と一緒になったのは初めてだ。声も、立ち姿も、まるで見知らぬ他人のように感じられる。
皆斗は日名子の斜め後で、最初からずっと窓に持たれて眠っていたようだった。
昨夜から一言も口を聞いていない。今朝も別々に自転車で集合場所に出かけた。日名子は今でも胸苦しいくらい昨日のことを意識しているが、――寝ぼけるほどよく眠る皆斗は、もう気持ちを切り替えてしまったのかもしれない。
それが、少しだけ腹ただしかった。
「まだ着かないけど、ぼんやりしてると、また松田さんたちに難癖つけられるぞ」
「ああ……んじゃ、もう少し寝かせて」
「おい、おーきーろー」
「やめろって、くすぐったい」
耐えかねたような皆斗の笑い声が弾けた。日名子は不思議な胸苦しさを感じた。
その声も笑い方も、まるで日名子の知らないもののような気がする。
「それにしてもお姉さん、本当に綺麗ですねー」
あずさの声が、日名子の意識を背後から引き戻した。
「え? 何が」
ふいにまじまじと顔を見つめられ、日名子は戸惑って顎を引いた。
「皆斗が異常にシスコンな理由、判った気がします」
「……?」
――なんの話……?
「だって皆斗、いつもお姉さんの話ばかりするんですよぉ、よほど」
「高見、お茶ない?」
不意に皆斗の声がすぐ後ろでした。背を預けているシート越しに、皆斗が立っている気配がする。それが判っているから、日名子は振り向けなかった。
「お茶ならあるから、そこのクーラーボックスから勝手に取ってくれる」
あずさは顔を上げて返事をする。
その時だった。
「おい、水城、後ろにも回せよ、みんな喉が渇いてるんだぞ」
車内の後ろの方から野太い声がした。聞いている日名子にも判る、あからさまな刺を含んだ口調だった。
「はいっ、すいませんでした」
皆斗は大きな声で答えると、即座にクーラーボックスの前にかがみこんだ。
「あ、あたしもやるから」
あずさも慌てて立ち上がる。それから、すまなそうに日名子を見上げた。
「いいですかー、お姉さんにも手伝ってもらって」
「お姉さんってなんだよ、おめーは俺と結婚でもしてんのか」
皆斗はそう言いながら、クーラーボックスの中からペットボトルを取り出した。
「……これ注いで」
無造作に渡される。あずさが紙コップを取り出して、日名子がペットボトルからお茶を注ぎ、皆斗がそれを後ろへ回した。
その間、皆斗は一度も日名子と目を合わそうとはしなかった。無視されていることを感じつつ、日名子は意外にきれいな弟の指の動きだけを見つめていた。
飲み終わった紙コップを集めて回ったのも皆斗で、日名子は初めて下級生としての皆斗の気苦労を垣間見た気がしていた。
確かに三年生の一部が皆斗を敵視しているのは明らかで、それは態度にも視線にもはっきりと現れている。日名子はなんとも言えない気持ちになった。誰からも愛されているとばかり思っていた弟が――意外なところで、多くの敵を持っている。
初めて知ったその事実が、ひどく心を重くさせる。
作業が終わると、皆斗は元の席につき、隣に座っている友人と会話しながらふざけ始める。
あずさがまだ色々と話しているが、日名子の意識は背中に集中したきり動けなかった。
よく判らない。
ただ、怖いくらい皆斗のことを意識していた。