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 その(・・)痛みは、しかし、想像の範疇の――遥か、遥か彼方にあった。
「皆斗っ、だめっ、無理、痛いっ」
 多分、物語でいえば序章あたりで、痛みに耐えきれずに、日名子は暴れた。
 その度に、皆斗は少し慌てて、唇をキスで塞ぐ。
「姉貴、声、……響くから」
「だって……」
「お願いだから、力抜いて」
「…………いっ」
 てか、なにこれ?
 なんなのよ、これ。
 見開いたまなじりに、涙が滲んだ。
 その涙を、温かいキスで拭われる。
「……後悔してる?」
 頷こうとしたが、それは止めて、日名子はただ、唇を噛んだ。
 世の女性たちは、本当に皆、この原始的な苦行に打ち勝って、恋愛を謳歌しているのだろうか? それとも……ここまで、命の危険を感じるほど痛いのは、私と皆斗の相性の問題――?
 皆斗が、かすかに息を吐く。
 皆斗もまた、別の意味で苦しそうに見えた。
 殆ど蒼白になった女を組み敷きながら、引くことも進みこともできないでいる。皆斗もまた、ある意味苦行に耐えているのかもしれない……。
「……我慢するから」
 この状況に限界を感じた日名子は、情緒の欠片もないセリフを言った。
「我慢する。ちょっとくらい無理にされても、我慢するから、だから……その、――できれば早く終わらせて!」
「…………」
 デリカシーを欠いているのは百も承知だが、それがぎりぎりの譲歩で、心の底からの本音である。
 腹を括ったつもりで目を瞑っていると、下肢を圧迫していた力が、ふっと消えた。
 日名子は、薄目を開けて、目の前の皆斗を見上げている。
「……いいの?」
 返事の代わりに、額にそっと唇があてられた。
「すごい、汗かいてる」
「脂汗と冷や汗、それ」
「……知ってる」
 呟いたきり、自分を見下ろす弟に、日名子は再度、同じことを訊いた。
「あまりよくない……。でも、このままだと、姉貴が死んじまうだろ」
 怒られてもいいはずなのに、見下ろされる眼差しは優しかった。
「いいよ、我慢するのは慣れてんだ、俺」
 ――皆斗……。
「離して、触られてると、おさまんないから」
 苦笑交じりに起き上がろうとする皆斗の首に、日名子は両手を回していた。
「なに……?」
「……別に」
 矛盾している。自分から拒んだくせに、体温が離れると、もう皆斗の熱が恋しくなっている。
「姉貴、……悪いけど」
 何も言わずに抱き寄せる。皆斗は少したじろいだ風だったが、溜まりかねたように唇が落ちてきた。
「馬鹿だな、とまんなくなるぞ、俺」
 すぐに互いの唇を開いて、苦しいキスを交わし合う。唇を、舌を貪るように奪われる。ひとつになりたくてもなれない衝動を埋めるような情熱的な口づけが続く。
 もう、息さえできなかった。
「みな、と……」
「姉貴……、欲しい……」
 熱に浮かされたような皆斗の声が、ぞくっと身体を震わせる。
 想像したくもない場所に、皆斗の指が触れている。
「や……、や、皆斗」
「声……可愛い、可愛い、姉貴」
 耳に、何度も舌が当てられる。
「頭……おかしくなりそうだ、俺……」
 皆斗の囁きに、苦しい吐息が混じっている。
 日名子にしても、もうキスだけでは物足りない。抱き合うだけではもどかしい。もっと深く繋りたい。素肌の隅々まで感じ合いたい。焦れて、苦しくてたまらなくなる。それを、どう言葉で伝えていいのか判らない。
 皆斗の唇に耳を挟まれ、舌で耳朶を舐められた。身体が震えて背が反りかえる。
 首筋を何度も吸われ、肩に、強い口づけを繰り返される。
「あ……皆斗……」
「姉貴……目茶苦茶興奮する、すげ、……可愛い」
 もう、自分がいったいどんな姿勢で、何をされているのか、判らない。
 判っている。戻れない坂道を、ブレーキの壊れた車で突っぱしっている。この先に、また地獄の苦しみが待っていると知っているのに、もう、日名子には加速する皆斗を止めることができない。
「姉貴……」
 背中から抱きしめられる。声は、どこか苦しくて、日名子まで切なくなる。
「も……だめ、限界、……いい?」
「………ん」
 熱に浮かされたように頷いて――はっと、我に返った時には、既に逃げられない体勢になっていた。
「ちょ、――っ タンマ!」
 慌てる脚の間に、皆斗が全身で割り込んでくる。
「ごめ、……もう、余裕ない」
「ちょっと待って、今のなし! 今の、―――!」
 心の――――――準備が………………。
「く……」
 歯を食いしばるようにして、皆斗が呻く。
 呻きたいのは、日名子もまた同じだった。が、痛みのあまり、声が出ない。全身が、指の先まで硬直している。
「う、動かないで」――せめて。
「無理」――速攻で返される。
 皆斗の動作には、もう、優しさの欠片もない。
 呻きながら、日名子は脱がされた衣服を握りしめる。
「サイテー、お、終わったら……覚えてな、さいよ」
「ごめん、そんな余裕ない」
 本当に、皆斗には余裕がなかった。
 もう、痛いどころの騒ぎじゃない。なんだろう、拷問だ、極刑に等しい。いったい、私が何をした。今日まで真面目に平凡に生きてきて――なのに…………。
 なのに、このまま、離れたくない。なのに……このまま。……
「み……なと」
「は……、は」
 皆斗……。
 熱っぽい息も、額に浮かぶ汗さえも、ますます愛おしいのは何故だろう。
 他にはなにもない。私のことだけで、いっぱいになっている。もう、誰のものでもない、私だけの皆斗。
 もっと欲しい――今は、皆斗の全部が、何もかもが欲しい。それで得られるものなら、もっと、深く、ひとつになりたい。
 言葉の代わりに自分から唇を重ねる。もどかしく求め合う。
「……っ、……っ」
 皆斗の身体がかすかに痙攣する。日名子を抱く腕に頑なな力がこもる。うつむいた唇から深い吐息が零れ落ちる。
「皆斗……」
 日名子は息を乱しながら、覆い被さる皆斗を見上げた。
 汗の浮いた額、引き締まった頬に乱れた髪が張り付いている。綺麗な眼差しが、揺れるような情熱と戸惑いを浮かべて見下ろしている。
 もう――弟ではない。
 他人でもない。
 何故か、その刹那、苦しいくらいの愛しさが込み上げて、日名子は皆斗の背を力いっぱい抱き締めた。
 首に手を回して引き寄せる。開いた唇を押し当てる。すぐに舌が触れて、苦しいキスを与えては奪う。奪っては与えられる。
「……大好き、…みな、と…」
「俺も……大好き……」
 手が合わさり、指と指が強く絡む。
 このまま――ずっと、皆斗といたい……。
 激しいキスに、気が遠くなりかけながら、霞む意識の中で日名子はそう思っていた。
 
 
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「……もう、俺、戻らなきゃ」
「うん……」
 そう言いながら、まだ離れられないでいた。
 夜明けが近い。薄い毛布にくるまったまま、日名子は皆斗の胸に身体を預けて座っていた。
 窓の外の闇が薄らぎ始めている。
「……俺さ、実はこの部屋に来る前、有り得ないカップルみたんだよな」
 皆斗が、どこか遠くを見ながら呟いた。
「……うちの部内で?」
「それしかないだろ」
「高見さん?」
「……そんなもんじゃない……まぁ、誤解だったら申し訳ないから、はっきりしてから教えてやるよ」
 皆斗は少し眉をしかめてそう言うと、日名子の額に軽く口づけた。
「なによ、妙に意味深じゃない」
「俺……憧れてたからな、少しショックといえばショックだった」
「……それって」
「ま、いいじゃん、それより」
 皆斗の腕に引き寄せられる。日名子はそれだけで、少しほっとして目を閉じた。さすがに疲れて眠たかった。このまま、皆斗に抱かれて眠りたいな、と思っていた。
「今日……家に帰ったら、親父がいるんだよな」
「……うん」
 皆斗の鼓動が心地よかった。
「どうすんの、姉貴」
「どうするって……?」
「籍、」
 そう言うと皆斗は、日名子の手を自分の手で包み込んだ。
「……とりあえず、お父さんの言うとおりにするつもりだけど」
 日名子はうつむいて、そう言った。
 そのことに関しては、他に選択肢はない。
「俺……言おうか」
 日名子の手に唇を寄せながら、皆斗が呟いた。
「何を、」
「姉貴と、こういう仲だって」
「……言ったら……逆に、もう」
 二度と二人では暮らせないだろう、そんな気がする。
 皆斗は答えず、日名子の手に繰り返しキスを続ける。次第におかしな気持ちになって、日名子は少し慌てて手を振りほどこうとした。
「み、なと、……へんなとこ、舐めないで」
「でも、嫌じゃないだろ」
 手の甲を何度も吸われ、舌で舐められる。
「ばっ……マジで犬じゃないんだから」
「あんとき、超むかついたから」
 皆斗の目は真剣だった。あの時――例のキス当てゲームのことを言っているのだろう。
「……全部、俺のだから」
 強く抱き締められ毛布が落ちた。首に、胸に、肩に、背中にしつこいほどキスをされる。
「もう俺以外の、……誰にも触らせんな」
 子供のような独占欲。でも今は、そんな皆斗の性格さえも心地いい。
「うん……」
 幸せで胸が詰まる。
 皆斗の顔も、身体も、声も全部、全て自分のものだと思う。それだけで、確かな充足感に満たされる。
 もう一度、ぎゅっと強く抱き締められた。
「今度……いつ、こんな風になれるかな」
「……さぁ」
 父はしばらくは滞在することになるだろう。利樹と皆斗の仲の良さに、これからも嫉妬することがあるだろう。籍を離れてしまえば、いずれは別れて暮らすことになる。
「……寂しい…」
 皆斗が、呟く。
「ばーか」
 日名子はわざと明るく言って、その頭をこんと、叩いた。
 一緒にいると決めたものの、この夜の向こうに何が待っているのか、正直日名子にも判らなかった。
 
 
 
 
 

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