22
「姉貴、いる?」
いつもの、軽快なノック音。
「いない」
日名子は憮然として即答した。
勉強机に座ったまま、振り返りもしなかった。
勝手に扉を開けた皆斗が、すぐ背後に立つ気配がする。
「あーねーきー」
肩から手が回される。
逃げる間もなく、素早いキスが頬に触れた。
「……しよ」
「……あのねぇ」
日名子はその腕を振り解いて立ち上がった。
夏の間に一際精悍さを増した皆斗が、少しからかうような眼差しで見下ろしている。
「いい? 皆斗、私の大学進学が、来週からの追試で決まるのよ、邪魔するのもいい加減にして」
少し大げさな怒りをアピールしてみた。そうでもしないと、この強引な義弟には抗しきれないからだ。
「ま、よかったじゃん、とりあえずぎりぎりセーフでさ」
皆斗は悪びれずにそう言うと、そのまま日名子の椅子に腰掛けた。
「何やってんの、数学なら見てやろうか?」
「……第二次導関数のとこだけど」
「あ、得意得意、これはさぁ、合成関数の微分法を使うんだよ、見てて」
皆斗はさらさらと問題を解き、解き方のプロセスを細かく書き込んでくれる。いつものように丁寧に。
「……これ終わったら、してもいい?」
背後に立つ日名子に向かって、問題を解きながら皆斗が言った。
「皆斗……今日は勘弁して」
「一回でやめとくし」
「そんなこと言ってやめたことないじゃない!」
「だって、それは姉貴が」
物言いた気な眼差しがふいに見上げてくる。日名子は耳まで赤くなって、その頭を叩いた。
「ばかっ、皆斗、もう出て行け」
「はいはい、これ解いたら出て行くよ」
皆斗は意外にあっさりと引下った。
日名子はほっとしつつ、少しだけ寂しくなる。
そして、首を振ってその感情を追い払った。今までもそんな情に負けて、何度もなし崩しに皆斗の思い通りにされてきた。明日から二学期が始まる。休みの間のような毎日を続けるわけにはいかない。
「……明日から…水城日名子じゃなくなるんだよな、姉貴は」
シャーペンを動かしながら、皆斗が低い声で呟いた。
「……そうね」
「俺の姉貴じゃなくなるんだ」
日名子はそれには答えられなかった。除籍した以上、皆斗とは全くの他人になる。
結局、帰国した父は即座に除籍手続きを取り実家に戻ってしまった。これ以上水城の親族に催促されることが苦痛になっていたらしい。
日名子だけは、高校卒業まではこの家に住む事になりそうだった。タイムリミットはあと半年。
それは、不承不承ながらも、双方の家が納得している。ただ――皆斗との仲が疑われてしまえば、即刻別れて暮らすことになるだろう。
この件に関しては、隣家の利樹が果たしてくれた役割が大きかった。
(――あいつらに限って、ないない、そんなこと。皆斗は他に彼女いるし、日名子には俺がいるから)
と、あまり嬉しくない説明を父にしてくれて、それでようやく父も納得してくれたのだから。
とにかく、附属の大学に行く事だ。
今、日名子はそう考えている。
そうすれば、あと四年は……少なくとも、皆斗の近くに住んでいられる。
が、明日で、戸籍上、日名子と皆斗は他人になる。
それが――まだ、日名子には、実感として、感じることができないでいた。
「皆斗、私たち……戸籍は違っても、やっぱ……」
日名子はぽつり、と呟いた。
「え……?」
――例えこの先、恋人としての日々をいくら重ねたとしても……。
皆斗は大切な弟だ、日名子にはそれ以外には考えられない。
「……私って変態だったのかも」
日名子はぼんやりと呟いた。
「はっ?」
「いや……おかしな眼で見ないでよ。へんな意味でじゃない、私、弟としてのあんたを好きになったんだなぁって」
「……それって」
「上手く言えないから……忘れて」
――仮に皆斗が、マジで血の繋がった弟だったとしても、やっぱり好きになっていたような気がする。
そう言いたかったがやめておくことにした。この状況でそんな台詞を言えば、すぐにキスされて止まらなくなってそのままベッドに直行することは目に見えている。
「ところで、剣道部の……例の三人の処分、どうなったか知ってる?」
日名子はさりげなく話題を逸らした。
皆斗の肩がわずかに強張る。さすがにこの件では何かを察して、そして自制しているのだろうと、日名子は思った。
「喫煙のことで……退部処分になったよ。ただ大学については、足切り試験に通ればそのまま進学できるみたいだから」
「そう」
少しほっとしていた。
「藤王は、上手くやってる?」
「ああ、……あれね」
藤王の話をすると、皆斗の機嫌が少しだけ悪くなる。
日名子はそれに、実はかなりのジェラシーを感じているのだが、皆斗は一向に気がついてくれない。
シャーペンが止まり、皆斗は軽く嘆息した。
「おかしいと思ったんだよな、……藤王さん、どんなに暑くても、絶対にネクタイ外さない日がたまにあるから……あれはそういうことだったんだ」
皆斗は腕を組み、しみじみと納得している。日名子は少し可笑しくなった。
「あんたみたいに、わざとらしいカットバン貼る馬鹿はいないよ」
「……っ、あれはー、トシ君がふざけて。俺だって朝起きてびっくりしたんだから」
――トシ君、確信犯だな。
日名子はそう思ったが、それは口には出さなかった。
未だに皆斗は、利樹が好きなのは日名子だと思い込んでいる節がある。利樹もあえて誤解を解こうとせずに、顔を遭わせるたびに何かと日名子をからかっていく。
――トシ君のこととなると、皆斗はぜんっぜん鈍いんだよなぁ。
日名子にも、無論その誤解を解くことは出来ない。それだけ皆斗は利樹のことを信頼しきっているのだろう。
だから相変わらず利樹には悩まされ続けている。ひょっとして、それは、この先もかなり長く続くのではないかという気がする。
「それにしても、どうして藤王さんみたいな人が……松田さんなんかと……」
皆斗は、まだ悔しいのか、未練がましく呟いた。
いや、そういう問題ではなく、そもそも男同士という点に疑問を持ってもらいたいのだが、皆斗の関心は、何故藤王のような人格者が、松田と――という点から抜け出せないらしい。
皆斗は再び問題に目を落としながら、ぼそりと言った。
「できの良すぎる奴ほど、ダメな人間にひかれるって言うからなぁ……」
「……それ、誰の話よ」
日名子は、少しむっとして口を挟んでいた。それは、まさか、自分と皆斗のことを言っているのではないだろうか。
が、皆斗は、意外そうな顔をあげ、日名子の感情を察したのか、すぐに優しい笑顔になった。
「姉貴は出来の良い方だろ、ダメなのは俺だよ」
「あんたが言うと、嫌味にしか聞こえないから」
「ホントだよ」
穏やかで、落ち着いた声。
身体をつなげてからの皆斗は、態度も声も、本当に大人になったと日名子は思う。
「俺、ずっとそう思ってたから……俺って実はかなりのガリ勉、隠れて勉強するタイプ」
こんなセリフ、少し前の皆斗なら決して口に出したりはしなかったろう。
「ただでさえ年下なのに、好きな奴に何もかも負けっぱなしはキツイだろ」
そう言うと皆斗は、シャーペンを置いて顔を上げた。
その目が、少しだけ寂しそうになっている。
「部屋に戻る……自制も限界。今夜トシ君と約束してんだ、一緒にプロレスのDVD観るから」
――なんでAVの次がプロレスなのよ?
トシ君の奴、と思った。何も知らない皆斗が憐れでもある。
椅子が軋み、皆斗が立ち上がる。気がつくとそのまま、抱き締められていた。
「……やっぱ、したい」
「……一回だけよ」
23
――そろそろかな。
シャツのボタンをとめている皆斗。その視線が、多分、時計を気にしている。先に衣服を身につけ、その背中を見ていた日名子は少しだけ寂しさを感じていた。
まだ身体の中に、皆斗の熱が残っている。
「皆斗」
「……ん?」
日名子は背中から皆斗の肩に腕を回すと、その首筋に唇を落とした。
皆斗が呆然としている間に、肌の薄い部分を強く吸う。丁度――利樹のキス痕と同じ場所に。
「……は…? ええっ??」
ようやく、意味を察したのか、皆斗は首を押さえて立ち上がった。
「早く部屋に戻ってカットバンでも貼っとけば」
日名子は笑いをかみ殺しながら言った。
「トシ君の来ないうちに」
「マ、マジかよ……」
棚の上に置いてあった手鏡を取りながら、皆斗はさすがに慌てている。
「ささやかな復讐よ、気にしないで」
「お、俺が何したって言うんだよ」
「皆斗にじゃないよ……」
日名子は皆斗の腰を叩いて促した。階下に利樹が来訪した気配がする。
「姉貴……」
振り向いた皆斗に抱き締められた。暖かかった。わずかに感じた寂しさも全て、抱き締められて消えていく。迷う必要はなにもない。もうここが日名子の居場所だ。
「勉強……終ったら顔くらいみせろよ」
「余裕あったら」
額が触れて、視線が合った。
「俺から……目、離さないで」
「もう言わなくていいよ」
愛しさをこめて、日名子は言った。
「死ぬまで皆斗しか見えないから」
階下の足音が近づくまで、二人はキスを続けていた。
(END)
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