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『……でね、何と言っても心配なのは皆斗のことだから』
 電話の向こうで長々と繰り返される言葉を、日名子はどうでもいい気持ちで聞いていた。
 暦が変わったばかりの、からりと晴れ渡った朝だった。起きて早々の電話は、三十分以上たってもまだ切れない。
『悪いんだけど、家の相続のこともあるし、早目に決着をつけて欲しいの。ひなちゃんはまだ高校生だし、そのまま家にいてもらっても全然構わないんだけど。ただ、皆斗がお嫁さんもらったら、いてもらうわけにはいかないでしょ?』
 はい、わかってます。
 日名子は、出来るだけ愛想よくそれに答える。
『ほら、私たちに万一のことがあると、皆斗の立場がなくなっちゃうじゃない。今は崇さんも堅い仕事についてらっしゃるけど、年を取ると、人ってどう変わるか判らないものだから』
 つまり、父が自衛隊を退職すると、たちまち人が変わって水城家の財産に執着するかもしれない――直訳するとそういう意味だ。
『悪い意味で言っているんじゃないけれど、とにかく一日も早く、籍を抜いてもらいたいのよね』
 一時間に及ぶ電話から解放された時には、暖めなおした味噌汁は冷め切ってしまっていた。
 水城の実家。皆斗にとっては実の祖母に当る人からの電話だった。
 日名子は嘆息して、朝食の席に戻った。
 皆斗はとっくに部活に出かけてしまっている。片付いた部屋。丁寧に干された洗濯物。用意された朝食。
 日名子は自分の役目が終わり、この家から居場所がなくなる日が来たことをはっきりと感じていた。
 無論、皆斗にそういう意図はないだろう。けれど、日名子にとって、自分を追い詰めるものの正体は他の誰でもない。
 ――皆斗だ……。
 ようやく気がついていた。皆斗に家事をやらせたくなかったのは、皆斗より優位に立ちたかったからではない。この家の主婦という座が――日名子の唯一の居場所だったからだ。
 その居場所まで皆斗に奪われる。そう思った時から、日名子は皆斗が疎ましくてたまらなくなっていた。気持ちの抑制が効かなくなっていた。だから、利樹のことを口にしてしまったのだ。
「…………」
 日名子は無言で箸を置いた。
 食欲はまるでない、自己嫌悪で眩暈がした。
 いずれにせよ、皆斗にはなんの咎もない。弟は――ただ、出来すぎて、そして少し甘えん坊なだけだ。悪意などあるはずもない。
 それなのに。
(――皆斗は可愛いが、近い内に、俺たちはこの家から、出て行かなければならないだろうな)
 義母の葬式の日、父が独り言のように呟いていたことを、日名子は、苦い気持ちで思い出していた。
 再婚に際し、家の相続のことで、父と、義母の親族のと間には、なんらかの約束事が交わされていたらしい。
 住宅街の一戸建てに、どれだけの資産価値があるか判らないが、親族から見れば、父と日名子は他所から割り込んできた赤の他人なのだ。
 そう、水城家での日名子の立場は、常にそれだった。
「………」
 無言で、よく晴れた空を見上げた。うだるような熱さだった。
 昔から冷房が苦手だったため、極力つけずに我慢している。わずかに肌を冷ます風を求めて、日名子は窓辺に手を掛けて立った。
 夏休みに入って、皆斗は毎日のように部活に通っている。稽古がきついのか暑さのせいなのか、全身が一回り引き締まり、一段と凛々しい顔になったような気がする。
 そして部活の後は、日課のように橘真希の病室を見舞っているらしい。日名子も最初はそうしていたが、日を追うごとに真希の視界から自分が消えていくのが判り、今では、見舞いの回数を減らすようになっていた。
(――ひなちゃんは、もう、来なくてもいいから)
 真希に直接言われたのが決定的だった。
(――皆斗君にも言われたの。ひなちゃん、勉強頑張らないとまずいんでしょ。ただでさえ、合宿行ってもらうの、申し訳ないと思ってるのに)
 口調はさりげなかったが、真希の態度からは、皆斗と二人きりになりたいという思惑がはっきりと透けて見えた。
 ――つまり……。
 日名子は苦く笑んで、空に点在する雲を見つめた。蝉の声が脳天をつんざくほどに煩い。
 ここでもまた、日名子は皆斗に負けたことになる。何かを争っていたわけではないが、わずかに生まれた真希との友情は、今は、跡形もなく消え去ってどこにもない。
 やはり、自分は負けたのだ、と日名子は思った。
 皆斗に――負けたのだと。
「……さてと」日名子は嘆息して、窓を閉めた。
 そろそろ病院に行かなければならない。今日が最後の診察で、そして明日からは合宿が始まる。
 こうなれば、意地のようなものだった。その約束だけは、何があっても守らなくては――と思っていた。
 
 
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 家を出て、玄関の鍵を締めたところで、クラクションが鳴らされた。
 少し驚いて振り返ると、メタリックシルバーのセダンの窓から、二宮利樹が手を振っている。
「よう、どこ行くんだよ、乗ってくか」
 陽気で優しい声がした。
 利樹の顔を見るのがひどく久しぶりだったので、畏怖というよりは懐かしくて――日名子は少し戸惑っている。
「……トシ君、合宿終わったんだ」
「少し前にな。お前が足怪我したって聞いて、遠慮してた」
「……遠慮って何を」
「フェアじゃないだろ、足の悪い女襲うなんてさ」
 その意外な言葉に、いつもの警戒心も解けかけていた。
「つか、トシ君がフェアなことなんて、あったっけ」
「それを言うなって、結構反省してんだから」
 利樹は、照れたように笑い、もう一度、最初と同じセリフを繰り返した。
「で、どこ行くんだよ、乗ってけよ」
「病院、……足、診てもらいに行くんだ」
「剣道部御用達の整形外科だったよな、通り道だから乗せてってやるよ」
「……うん」
 なげやりな気持ちもないではなかったが、日名子は素直に利樹の申し出に甘えることにした。
 助手席に乗り込みドアを閉めると、利樹は車を滑るように発進させた。
「それにしても、まだ病院行ってんだ、お前」
「今日で最後だよ」
 冷房が肌に凍みた。少し身震いしたら、利樹はすぐに車内の温度を上げてくれた。
「トシ君………皆斗と、何かあった?」
 窓の外を見つめながら、少し気になっていたことを聞いてみた。利樹は苦笑してサングラスを掛けなおす。
「何かって?」
「……少し、皆斗に言い過ぎて……口、滑らせたから」
「俺に何かされたって話したんだろ」
「……すぐに誤魔化したけど」
 利樹が横顔で失笑した。
「お前はお人よしだなぁ、だから俺なんかに簡単に襲われるんだ」
「……皆斗、なんて言ってた?」
 利樹はそれには応えなかったが、車のスピードが少し加速したような気がした。
「心配しなくても、皆斗とは上手くやってる、大丈夫だよ」
 別に心配していたわけではない。すこしむっとして、日名子は再び、窓の外に目を向けた。
 車がトンネルに入り、視界が暗いオレンジに染まる。
「日名子、剣道部の合宿についていくんだって?」
「ああ、うん、皆斗から聞いた?」
 トンネル内部でエンジンの音が響くせいか、少し声が聞き取りにくかった。
「ていうか、俺、剣道部のОBだから、情報は別のとこからも入ってくるし」
 利樹は大きな声で言う。
「皆斗、今、お前が怪我させた女子マネに猛アタックしてるそうじゃないか」
「………」
 車がトンネルを出て、日名子は眩しさで目をすがめた。
「あいつ、毎日見舞に行っては、彼女の洗濯物家に届けたり、差し入れ運んだり、そりゃあ、まめまめしく世話してるんだってさ。あれじゃあ、その気がなくたって誤解するわな。皆斗みたいないい男につきっきりで世話されるんじゃ、女もたまんねぇだろうよ」
「………」
 背中を逆撫でされるような不快な気分になっていた。
「……トシ君、じゃあ、トシ君は飽きられたってこと?」
 少し意地悪な気持ちで訊いてみた。
「ていうか、……判らないか? 日名子」
 病院の駐車場へ滑り込んだ車が止まった。利樹はステアリングを握ったまま、しばらく動こうとしなかった。
 日名子は戸惑って利樹を見上げた。午前中で、人の流れは途絶えている。
 背後の道路に、車は殆ど通っていない。
「あいつは、お前のものが欲しいんだよ」
 その言葉の意味に気を取られて、身体が咄嗟に動かなかった。
「お前が好きになったものが、お前が大切なものが、欲しいんだよ」
 影が急速に被さってきた。
「ふざけないで、何する、」
 押しのけようと突き出した手は、簡単に捕らえられた。
 ごつん、と後頭部が窓ガラスにあたり、日名子は逃げ道を失っていた。
「要するに、皆斗は子供なんだ。姉貴のおもちゃが欲しくてたまらない子供なんだよ」
「………」
 顔が近づく。きれいなのに、どこか怖い目をした顔。
「お前は盗られっぱなしでいいのか、日名子。ひとつくらい、あの出来すぎた男から奪ってみようとは思わないのか?」
「…………」
 それはここ数日、日名子の心の底でどす黒く渦を巻いていたものの正体だった。
 日名子はようやく理解した。だから――今、こうして利樹の車に乗っているのだと。
 刹那に身体を硬直させ、そしてその反動で、嘘のように全身の力を抜いてしまっていた。そのまま日名子は、利樹のキスを受け入れた。
 肩を掴まれる腕の痛みと、口の中を這い回る生ぬるい感触。
 頭が何度か窓ガラスにぶつかった。
 意識できるのはそれだけで、唇が離れた時、初めてわずかな苦味に気づいたくらいだった。最初の時にも感じた――そして、今はそれが何か判る、煙草の味だ。
「やっと、……口開けたな」
 日名子の顔を、両手で挟み込むようにして、利樹が囁いた。
「舌をもう少し使ってみろよ、……できるか」
 日名子はうつむいて首を横に振った。
 もう一度利樹の唇が重なってきた。今度は顔を反らして避けようとした。
「今更逃げんな」
 先ほどより理性が勝っていたものの、最初のキスの衝撃が強すぎて殆ど抵抗にならなかった。助手席に押さえつけられたまま、シートベルトが外された。少しシートが倒されて、あとは利樹のなすがままだった。
 抱き締められ、覆い被さるようなキスが続く。
 執拗な求めに急かされるまま、ぎこちなく唇を動かして応じてみた。そうしなければ、この責め苦から逃れられないような気がしたからだ。
 ようやく利樹は唇を離してくれた。
「……………」
 日名子は無言で利樹の身体を押しのけた。
 深いキスというのは、思っていたほど嫌でもなく、考えていたほど気持ちのいいものではないな、とそんなことをぼんやりと考えていた。
「…日名子……」
 身体を起こした途端、抱きすくめられていた。
 暖かい胸から、高く、激しい鼓動の音が直に伝わってくる。
「お前はもう、……俺のもんだな」
「………トシ君、人、来るから」
 病院の駐車場だから、いつ誰が通りかかるとも限らない。けれど、今の利樹にそれは、全く気にならないようだった。
「日名子、合宿なんて行くなよ」
 抱き締められたまま、耳元で熱っぽく囁かれる。
 さすがに、それにはうなずけなかった。
 怪我をさせた責任は間違いなく日名子にある。真希と約束した以上、それだけは守らなければならない。
「じゃあ、二三日早く帰って来い、………皆斗がいない内に、お前を抱きたいんだよ」
「………それは、まだ」
 日名子は口ごもった。心の準備以前の問題だ。つい数分前まで、利樹を受けいれてしまうことになるとは、夢にも思っていなかったのだから。
「今更、焦らすのはなしにしてくれよ、日名子。お前が戻れないなら、俺が合宿所に押しかける」
「………」
 顔を離した利樹が、愛しそうに額を合わせてきた。
「場所はさびれた海沿いの僻地で、合宿所は空き部屋だらけだ。……実際、合宿中に思いを遂げる奴も多いんだよ」
「………トシ君」
 それだけは勘弁して、そう思って顔を上げた時、思いもよらない――ここに、この時間いるはずのない人の姿が、目に飛び込んできた。
 ――皆……斗?
 日名子は、愕然として身体を強張らせた。
 車から少し離れた駐車場の出入り口で、自転車を片手に、皆斗はどこか、夢でも見ているような茫洋とした眼差しをこちらに向けていた。
 硬直した日名子の視線を追って、利樹も振り返る。
「………いつから、見てたかな。あいつ」
 利樹は悪びれない表情のまま、小さく呟いた。
 その言葉で、一瞬身体の内側まで赤くなり、日名子はうつむいてしまっていた。そして、再び目を開けた時には、皆斗の姿はどこにもなかった。
「………皆斗」
 夢から覚めたように日名子は呟いた。
 何をしたんだろう、私は――。
 何をしてしまったんだろう、私は―――。
 弟を裏切り、傷つけたことだけは間違いのない事実だった。
 これが悪夢なら、本当に覚めて欲しいと日名子は思った。

 
 
 
 
 
 
 
 

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