6
まっすぐ帰るところをUターンして校庭に戻ったのは、家では、自分のペースで話ができないと気がついたからだ。
すっかり陽が傾いて薄暗くなった校庭の隅を、日名子は溜息をつきながら歩いていた。
とりあえず、合宿に行かない理由を、皆斗に問い質してみるつもりだった。
自分の火の粉を払う意味もあるが、真希の言う通り、三年に睨まれているなら、是が非でも参加した方がいい。母の命日のことを気にしているのなら、その日だけ戻ってくればいいことだろう。
夕陽が、グランドに濃い影を落としていた。
所在無く歩く日名子の隣を、陸上部の一群が掛け声と共に駆け去っていく。
校庭の真ん中では、サッカー部がミニゲームをやっていた。
飛び交う掛け声、ボール、歓声。体育館に近づくと、開け放たれた扉から、バッシュが床を擦る音が忙しなく聞こえてくる。目前に迫る道場からは、裂帛の気合と竹刀がぶつかる凄まじい音が響いている。
「………」
帰ろうかな、と、ふと日名子は思っていた。
不意に自分がひどく場違いで、ぽっかりと浮いているような疎外感を感じていた。
誰もが自分の居場所を持っている。皆斗と利樹、一緒に勉強しようと言っているクラスの女の子たち、なんだかんだいって剣道に打ち込んでいる松田にしてもそうで、マネージャーの仕事を一生懸命している真希もそうだ。
日名子には――それがない。
日名子には、今まで何かに夢中で取り組んだ経験がない。日々の勉強と、そして弟の世話だけが、自身の日常の全てである。
弟を中心として回る世界。
皆斗が一等星なら、日名子は地上から見えない小さな屑星みたいなものだ。
誰にも注目されず、発見されることもなく朽ちていく……。
なんだか、何もかも虚しくなった。
何の関係もないのに、いそいそと剣道部に向かう自分も滑稽で笑えてしまう。そうだ、どうせ皆斗は、自分の言うことなど聞きはしない……。
まだ、利樹の口から伝えてもらったほうが話が早いかもしれない。
「やーめた」
呟いてきびすを返そうとした時、道場の二階の扉がいきなり開いた
驚く間もなく、人が飛び出してきて、駆け足で外付けの階段を降りてくる。
「……皆斗」
日名子は思わず呟いていた。夕陽が逆光になって顔は判らない。でも、体格だけでそれと判る。
驚きながらも、皆斗の方に向かって歩を進める。急いで階段を降りきった皆斗は、視線を下げているせいか、まだ目の前の日名子に気がつかない。
皆斗は麻の稽古着に紫紺の袴を締めていた。髪は汗で濡れつくしていて、いつもより頭が小さく見える。
日名子が足を止めて見ていると、皆斗は一階に備え付けてある手洗い場に走り、思い切りよく蛇口をひねって水を放出させた。
頭から水を被っている。水音のせいか、日名子が傍に寄っても気がつかない。
頭をひととおり濡らし終えた皆斗は、ふっと首をかしげて横を向いた。唇を薄く開け、流れる水を焦れるように口に流し入れている。
殆ど間近でそれを目にした日名子は、急に足が動かなくなった。
わずかに開いた唇と少しのぞいた舌に、まるで眩暈でも起こしたように、利樹とのキスを連想してしまっていた。
ふと皆斗の動きが止まって視線が凝固する。
「あれ…、姉貴?」
皆斗はよほど驚いたのか、がば、と勢いよく顔を上げた。
飛散した水飛沫が、近寄りすぎていた日名子の顔に降りかかる。
「っわ」
咄嗟に目を閉じて眉をしかめた。
「あ、悪い」
慌てて伸びて来た皆斗の腕。
「いいよ」
動揺を悟られたくない日名子が振り解くより早く、肩をがっしりと掴まれていた。
そのまま皆斗は素早く腰のタオルを引き抜くと、乱暴に日名子の顔を拭いはじめる。
「ちょ、いいよっ、皆斗」
恥ずかしい。まるで親に顔を拭かれる子供みたいだ。
「だって……姉貴の綺麗な顔が」
真剣なのか、ふざけているのか判らない声がする。
少しむっとして、乱暴に手を払いのけた。
「いいって、自分で拭くからタオルだけ貸してよ」
そして、息を飲んでいた。
肩はまだ、大きな手でしっかりと抱かれたままだった。覆い被さるように見下ろす皆斗の顔も、髪も、滴る水で濡れている。
はだけた胸、汗で透けている夏用の薄い稽古着。
いつも見慣れている弟なのに、まるで別人を見ているような錯覚がする。
「姉貴……?」
夕陽が逆光になって、皆斗の表情がよく見えない。薄く締まった唇だけが、何かを呟いているのが判る。不自然な間があった。
日名子はようやく我に返った。かなりぎこちなく肩を掴む腕を押しやった。
「あんたこそ、……早く拭きなさいよ、顔」
「え、……あ、ああ」
皆斗は素直に横を向き、タオルで顔を拭き、首筋を拭う。
「ごめん、姉貴が道場に来るなんて初めてだから、吃驚してさ」
皆斗は頭をごしごしと擦っている。袖口からのぞく滑らかな腕の筋、長い指とごつい関節。伸びた腰は細く締まって、袴できつく締められている。
二つ年上の日名子より、はるかに大人びた身体がそこにはあった。
皆斗はきれいだ。初めて日名子は実感としてそう思った。こんな言い方をしたらおかしいが、身体中から男の色気のようなものが滲み出ている。
幻惑されるような思いで、日名子は昨夜、皆斗の香りを否応なしに感じながら、妙に寝苦しかったその理由を考えていた。
「姉貴?」
「え、あ」
咄嗟に声を掛けられ、日名子は耳まで赤くなった。
今――何考えてたんだろ、私ったら!!
自分が空想していたことを思い出すと、わっと叫んで逃げ出したくなる。
「ご、ごめん、邪魔したわね、わ、私、帰るから」
帰るから、といいつつ、まだ足が動かない。
「…………」
「…………」
少しの間、どこか不自然な沈黙があった。
「な……んか、おかしくねー? 姉貴」
皆斗の声が、他人のもののように聞こえる。
「別に」
「………顔、赤いけど」
「………」
皆斗が高い目線から見下ろしている。日名子は顔を上げられなかった。
苛々した。いっそのこと、利樹から聞いたことをぶちまけてやろうかとも思った。あんな話を聞いたばかりに――自分まで毒されてしまっている。そうでなければ、死んだって想像しなかったろう。自分が――皆斗に抱かれている姿なんて。
気まずい雰囲気をつくろうように、不意に皆斗は明るい笑顔になった。
「あ、俺さ、今日の晩飯作るから。姉貴は勉強しててよ、明日も試験なんだろ」
「いい、簡単なものを作っておくから」
「いつも悪いよ、俺だって料理くらい作れるからさ」
「いいって」
「でも」
「いいって言ってるじゃない!」
意味もなくきつい口調になっている。
「…………」
口を閉じてから、日名子は嫌な気持ちになった。皆斗は何も悪くない、勝手に押しかけて、勝手に苛ついて――。
……なにやってんだろ、私。
悪いのは、自分なのに。
「………ごめん、少し、苛々してたから」
日名子は目をそらしたまま呟いた。
こんなことは、皆斗と姉弟になってから初めてだ。思い返せば、姉弟喧嘩と言えるものさえ経験したことがない。本当の姉ではないという遠慮がどこかにある。日名子がそう思っている以上、間違いなく皆斗もそれを感じている。
――やっぱり、帰ろう。
そう思って顔をあげた。
「皆斗、帰ってから話が」
皆斗の両腕に、肩を抱かれた所までは、はっきりとした意識があった。
肩を滑る大きな手が手首に絡み、そして覆い被さるように顔が近づいた。
少し長い睫が、瞬きをしているのがかろうじて判った。皆斗は目を閉じているようだったが、日名子はそれさえ出来なかった。
一瞬キスされるのかと思ったが、唇はかすめるようにそらされ、そのまま冷たい頬が日名子の頬に押し当てられる。
しばらく皆斗は動かなかった。頬だけを重ねたまま、熱い指が日名子の手首を掴んでいた。
「水城、てめぇ、いつまで休んでんだ!」
遠くで、誰かの声がした。
弾かれるように身体を離した皆斗が、「今戻ります」と叫んだ声さえも、日名子には虚ろに聞こえていた。激しい動悸で、呼吸さえできなかった。
駆けていく皆斗の背中を見ながら、日名子は足が震えているのをはじめて感じた。
――なんの真似?
取り残された後、急速に怒りが膨らんだ。
――なんの真似よ、皆斗。
言葉ではなく、実力行使に出たということなのだろうか。
連夜の挑発だけでは物足りず、だから、あんな――。
「…………」
日名子は、自分の身体が冷たくなっていくのを感じた。
それは、耐えがたい侮辱だった。