7
部屋の中は日中の暑さがこもって、うだるほど蒸していた。
制服からジーンズに着替えた日名子は、一階の窓全てを全開にしてから、朝干した洗濯物を取り込みに二階に上がる。
二人分の洗濯物を手際よくたたみ終わると、仏間に行き、小さく飾られた遺影の前で手を合わせた。
日名子にとっては義母、そして皆斗にとっては実母の美奈子が、モノクロの笑みを浮かべて見下ろしている。
美奈子は日名子が中学二年の時、末期の子宮ガンで急逝した。発見から死の宣告までわずか三カ月で、皆斗はまだ十一歳だった。
なのに母の死を知らされた時から納棺の日まで、―― 一度も泣かなかったのを日名子はよく覚えている。
逆に日名子が泣いて泣いて、皆斗は、ただその手を握っていてくれた。今でも日名子は後悔している。あの時、自分があまりにも泣きすぎたから、皆斗は我慢するしかなかったのだ。そして、今でも思っている。自分はあの時の借りを、まだ皆斗に返していない……。
「お母さん、皆斗は今日も元気だよ」
日名子は手を合わせたまま呟いた。あの日の、皆斗の強さと自分の弱さが、今の日名子を支えている。二度とあんな姿を皆斗の前で見せてはならない。皆斗に支えられた過去は、今、自分が皆斗を支える現在で清算しなければならない。
日名子は嘆息して顔を上げた。
(いつも悪いよ、俺だって料理くらい作れるからさ)
正直言えば、いつ皆斗がそう言いだすか、日名子は内心ずっと不安に思っていた。
普段はおくびにも出さないが、日名子一人が家事をしきっていることに、皆斗は内心、強い抵抗を覚えている。昔はそれを「あんたはまだ中学生じゃない」で斬り捨ててきたが、この春から皆斗は高校生だ。
それでも日名子は、極力弟に家のことをさせないようにしていた。
理由は……、簡単だ。日名子はそれを自覚していた。せめて家事くらい――皆斗より優位に立ちたいのだ。
夕食の支度をしようとキッチンに行きかけた時、リビングの電話が鳴った。
ディスプレイ画面は、学校からの電話だと告げている。
「はい、水城ですが」
不審に思いながら受話器を取ると、柔らかい女の声が返ってきた。
『こんばんは、……日名子さん? 関谷です。皆斗君の担任の』
皆斗のクラス担任をしている若い女教師である。よく知っている教師だが、家に電話があったのは初めてだ。
日名子は少し緊張して、受話器を持ち直した。
「あの、今、皆斗なら」
と、言いかけると、
『皆斗君、まだ帰ってないわよね? ごめんなさい、実はそう思って電話したんだけど……』
どこか歯切れの悪い喋り方だった。
『あのね……弟さん、最近何か、悩み事でもあるのかな、と思って』
「皆斗が、ですか」
どきっとしていた。
しかしまさか、男への片思いで悩んでいるとは打ち明けられない。
が、すぐに、ああそうか――と思い直した。学校の悩みなら、多分剣道部のことだ。けれどそれを言うと、関谷は「多分、違うと思うわ」と控え目に返してきた。
『主将の藤王君にも聞いてみたんだけど、部活のことで、いまさら水城君が悩むこともないだろうって話だったの。……彼も、部活には積極的に出ているらしいし』
「特に……、家では変わった様子はないですけど」
日名子は口ごもった。
つい一時間も前に、校庭で皆斗に頬ずりされたことを思い出していた。妙な動悸が高まる。あの時の皆斗も、おかしいと言えば相当におかしかった。
『……そっか……ごめんね。お姉さんになら、何か相談してるかな、と思ったんだけど』
受話器の向こうで溜息が聞こえる。
「あの……何があったんですか」
『うん……』
少し間があって、躊躇うような声が返ってきた。
『いずれ判ることだから、言うけど……実は水城君、期末試験で初めて上位十位から落ちちゃったの』
「えっ……」
思わず受話器を握りなおしていた。
中学から、ここの附属に通っているが、皆斗が学年十位より下に落ちたことは一度もない。
「で……何位くらいまで、落ちてるんですか?」
『……百位にも入っていないくらい』
「………」
日名子は絶句した。日名子ですら、上位三十位から下に落ちたことはない。
『………高校に入ったばかりで、ご両親がいなくて、精神的に不安定になっているのかもしれないわね。少し気をつけて、悩みがあるようなら聞いてあげてもらえるかな』
「はい……」
『ごめんね、あなたも試験中なのよね。……水城君、素直ないい子なんだけど、心の底を割って話してくれない所があるから……』
「………いえ、私は…」
日名子は力なく呟いた。そして、電話が切れる間際に、思い出したように問い掛けた。
「先生、それは……試験の結果を皆斗が聞いたのは、何時頃だったんですか」
『……私の口から話したのは、昨日だけど』
「………」
昨日。
日名子は少しショックを受けて唇を噛んだ。夕べの皆斗はどうだったのか、全く普段通りにふざけていて、それから――。
受話器を置いた途端に、すぐに着信音が鳴った。突然だったので、確認しないままに電話に飛びついた。
『あ、日名子?』
利樹の声だった。声だけ聞くと、深みがあって優しく聞こえる。バックにゲーム音楽のような音が流れている。
『悪い、直接言いに行ってもよかったんだけどさ。……皆斗、今夜うちに泊まるから』
「え……?」
『かわいいじゃないか、姉貴の勉強の邪魔はしたくないんだってさ。今うちでゲームしてる、代わろうか』
足元から、冷たい何かが這い上がってくるような不快な気持ちになっていた。
「いい、じゃあ、……よろしくね。トシ君のお母さんには、明日あいさつに伺うから」
受話器の向こうから利樹が吹き出す気配がした。
『いいよぉ、日名子、お前はほんっと真面目だな。皆斗はガキん時から俺の家とは家族同然なんだから、気にすんなって』
「………」
その通りだった。日名子が皆斗の姉になった時から、二宮家と皆斗は親密な間柄にある。
「あ、トシ君」
日名子は気になっていたことを、口にした。
「昨日だけど……ひょっとして皆斗、何か……トシ君に相談したりした?」
『……何かって?』
利樹の口調が、探るようなものに変わる。それだけで、利樹と皆斗が何らかの秘密を共有していることは明らかだった。
「成績のこととか」
苦い気持ちで日名子は訊いた。
『期末テストの結果のことか?……先生に叱られたってぼやいてはいたけどな。そんな深刻な感じでもなかったぞ』
『ねぇ、トシ君、まだかよ』
はっとした。奥で小さく聞こえたのは、確かに皆斗の声だった。
『どうしても経験値があがんないんだよ、助けてよ』
『わかったわかった』利樹の声。
何かがさがさと衣服のすれるような音がして、二人の笑い声が交互に混じった。
「トシ君、じゃ、もう切るから」
日名子はそれ以上話をするのが辛くなって、何か適当な言葉を並べてから受話器を置いた。
――私は、なんなのよ。
一階の戸締りをしてから二階に上がった。食欲は全くなかった。
皆斗にとって、自分はなんなのだろう。今となっては邪魔なだけの存在。姉ですらなかったのかもしれない。最初から――姉弟になった始めから。
始めから皆斗には利樹がいたのだ。
電話の向こうから聞こえてきた甘えきった声、愉快そうな笑い方。思わずかっと昇ってきたなにかを日名子は机の端を握り締める手で紛らわした。
馬鹿馬鹿しい。
なんだって今さら……私が、トシ君に嫉妬しないといけないんだろう。
今まで自分のしてきたこと全てが虚しくなって、日名子は虚ろな気持ちで教科書を開いた。