5
「どうだった? 試験」
試験終了後、日名子が帰り支度をしていると、いきなり頭上から声を掛けられた。
何時の間に傍に来ていたのか、立ったまま笑顔で見下ろしているのは同じクラスの橘真希である。
すらっとした長身と、光を反射して輝くさらさらのロングヘア。学年一の美少女だという評判は、彼女が一年生の時から囁かれていて、実際、その通りだと日名子も思う。
「うん……まぁまぁ」
ペンケースをしまいながら、日名子は少し苦く答えた。
正直、夕べの事件がまだ動揺として尾を引いていた。その上ベッドを皆斗に占領され、寝なれない弟の、男臭い部屋で寝る羽目になってしまった。おかげで睡眠さえ不足している。
三年を対象にして行われる進学意向テスト――通称アシキリ試験は午後から四時間に渡って行われ、今日で一日目の日程を終了していた。教室からは既に半分以上の生徒が退出しており、夕陽の落ちた校庭では、白球の弾ける音が響いている。
「水城さんのまぁまぁは、出来たってことなのよね」
真希は楽しげにそう言いながら、日名子の前の席に腰を下ろした。
「そんなこともないけど……」
「だってみんな言ってるよ? 水城さんなら、何もうちの附属行かなくても、もっと上の大学狙えるんじゃないかって」
「ねぇ、真希、今日みんなで加藤んちで勉強しようって話になってんだけど、どうする?」
その真希の背後で、彼女と仲良くしているグループの女子が声をかけてきた。
「うん、行くよ。あ、そうだ、水城さんもどう?」
あっさり頷いた真希は、同じようにあっさりと日名子に振る。
びっくりした日名子は慌てて首を横に振り、「ごめん、家の用事があるから」と小さく言い添えた。
「えー、そうなんだ、水城さんはいっつも忙しいのねぇ」
真希は心底がっかりした表情になったが、その刹那、真希の背後の女の子たちは、あからさまにほっとした眼になっている。
その理由を――日名子は漠然と察している。どういうわけか、自分はいつも同性のグループから敬遠されがちだ。この高校は中学からのエスカレーター式だが、中等部の頃から、日名子は大抵一人で行動していた。
多分、女同士のつきあいが極めて悪いせいだろう。中学二年で義母を亡くして以来、日常の大半は家事で占められるようになったから、部活も放課後の遊びも参加できない。年度の初めに仲良くなりかけた友だちは、大抵一学期の半ば頃には別の女の子グループの一員になっている。
別にいじめられているのとも違うから、この数年間、日名子は苦もなく一人で過ごしてきた。クラスには日名子と同じように孤高を保つ生徒が一人や二人いて、なにかペアで事を為さなければならない時は、大抵、そういう人たちと組むようにしている。だから、別に今の立場に不便を感じたこともない。
が、そんな中で――今年の六月頃から、橘真希が、不意に日名子に接近してきた。
それは、二人に共通の話題があったからなのだが――。
「ごめんね、帰るとこ呼び止めて」
背後の友人たちが教室を出たのを見計らって、真希は声をひそめて顔を寄せてきた。
「あのさ、………実は、水城さんの弟のことなんだけど、……いいかな」
日名子も、六月になって初めて聞かされたのだが、橘真希は、男子剣道部のマネージャーだったのである。つまり、皆斗が世話になっている相手である。
三年の今日までそれを知らなかったのは、真希が剣道部に引っ張り込まれたのが、二年の終わりだったからで、その時も、皆斗は一言も言わなかった。
真希の方も、まさか皆斗の姉が、同じクラスにいるとは夢にも思ってもいなかったらしい。ひょんなことで互いにそれを知ってから、何かと話をするようになったのである。
「皆斗君、夏休みの合宿に参加しないって言ってるんだけど、どうしてかな」
「合宿……?」
日名子は眉をひそめていた。
「いや、聞いてないけど」
そう返すと、真希は露骨に困ったような顔になった。
「八月の頭から、二週間、K市の合宿所で予定してるんだけど、一年では皆斗君だけが不参加なの。みんな参加するから皆斗君にも是非来て欲しいんだけど」
「………」
本当に聞いていない、と再度言いかけた日名子は、はっとして口をつぐんだ。
(――そうか、命日……)
お母さんの命日だ。盆過ぎだが、それと――重なっているからなのだろうか。
「………判った、聞いておくから。出来れば参加するように言ってみる」
「ホント?」
真希の表情がみるみる緩んだ。
「よかったぁ。皆斗君、上級生から目の敵にされてるから、合宿来ないってことになったら、ますます疎まれるかなって心配しちゃった」
「それくらいなら、皆斗に直接言えばいいのに」
何の気なしに言うと、真希はわずかに視線を伏せた。
「………言いにくくて、だって、あの子、少し近寄り難いじゃない?」
そう口にしてから、それが姉の前で言うべき言葉ではなかったと気づいたのか、ぱっと頬を赤らめる。
「あ、ごめんね。悪い意味じゃなくてさ、………なんていうか、部活やってる時は、女の子を寄せ付けない雰囲気があるから、皆斗君って」
――そうなんだ……。
日名子は少し眉を上げた。
それは、知らなかった。
というより、今まで日名子は、皆斗が剣道をしている所をまともに見たことがない。
剣道は、利樹と皆斗の共通の目標であり、夢であり、……そのことに、心のどこかで疎外感を覚えていたせいかもしれないが、自分とは全く別の領域だという思いが、どうしてもある。
「おい、橘、お前、水城の姉さんに何告げ口してんだよ?」
突然背後で、ひどく野太い声がした。
その声だけで相手が誰なのか察し、日名子は不愉快な気持ちになる。
「だいたい水城みたいな根暗女と、こそこそ隅で喋ってんなよ。根暗ブスが移って、友達なくなんぞ」
同じクラスの松田征司。
やたら身体がでかく、三年男子の中では一番の長身を誇っている。短く刈り込んだ髪に、鼻筋の通った褐色の肌。――イケメン、といえなくもないが、きつい三白眼が、彼の印象をひたすら酷薄に見せている。
目立ちたがりの性格の松田は、一年の時から実際誰よりも目立っていた。
「うるさいわね、どうしてあんたこそ、いちいち水城さんに絡むのよ」
即座に真希が、席を立って言い返す。
確かにここ最近、松田はやたら日名子に絡んでくる。今のところ、根暗ブスだとか、地味で存在感がないとか――その程度の冷やかし混じりの雑言だが、そもそもこの年までクラスの誰とも波風なく過ごしてきた日名子にとっては、ちょっとした晴天の霹靂だった。
で、こういう時、日名子に変わって即座に言い返してくれるのが、何故だか橘真希なのである。ただ――この件に関しては、真希の親切はむしろ有難迷惑だった。
松田は、白目の多い眼で、じろり、と日名子をねめつけた。
「俺はな、水城みたいな、じみーで暗い女が大キライなんだよ。どうせお前、まだ処女なんだろ? あそこ、くもの巣張ってんじゃねぇのか?」
どっと、周囲から嘲笑が起こる。松田の取り巻きとも言うべき連中――実のところ、利樹が言った「剣道部の雰囲気の悪い三年」とは、彼らのことなのである。
「そんな水城さんに絡むあんたは何なのよ。みんな噂してるわよ、松田は水城さんのことが好きなんだって」
「なんだと?」
真希に切り返され、松田の顔色が目に見えて凶悪になった。
「剣道で水城君に敵わないからって、お姉さん相手に仕返しでもしてるつもり? そういうところが、男らしくないっていうのよ!」
うっと、一瞬言葉に詰まった松田が、蒼白になった唇の奥で歯を噛みしめるのが判った。
「お前……ちょっと、藤王の幼馴染だからって、えらそうに言ってやがると」
「そうよ、あんたの部の主将に頼まれて、わざわざあんなむさくるしい部のマネージャーになってあげたんじゃない。えらそうに言って何が悪いのよ。一年の水城君にさえ敵わないくせに」
――ああ……橘さん、何故……。
日名子はうんざりして、溜息をついた。
完全に、火に油だ。たかだか子供じみた悪口くらい、何の害があるわけでもないから、放っておいてほしいのに。
案の定、手厳しくやり込められた松田は、憤怒の表情を日名子に向けた。
「おい、水城、てめぇのクソ生意気な弟によく言っとけ、合宿さぼりやがったら承知しねぇぞ、足腰たたねぇくらいにしごいてやるからそう思えってな!」
松田征司は、剣道部の副主将なのである。
真希同様、それまで全く関わりのなかった松田が、この数カ月、やたらと日名子に絡むようになったのは、真希の言うとおり、皆斗が弟であることが原因なのだろう。
もともと他人と余り関わらないようにしてきた日名子にとっては、この六月からの喧騒はやっかいごと以外のなにものでもなかった。
「ほんっと、身体がでかいだけで中身は薄っぺらなんだから。水城さん、あんなの気にしちゃダメだからね」
松田を退散させた真希は、ふんっと鼻息を荒くしている。
「何かあったら私に言って。松田も言ってたけど、私、藤王とは幼馴染だから大丈夫。松田の馬鹿は、昔から藤王には頭が上がらないんだから」
「う……うん」
真希の純粋な親切に、まさか迷惑だからやめてとは言えない。
「藤王も藤王よ。あいつらが皆斗君をいじめてるのは、みんな知ってることなのに、いつまでも知らん顔で放っておくから……」
真希が連呼している藤王とは、
これも真希の口から聴かされたことなのだが、真希と藤王は小学校からの幼馴染で、真希は、その藤王に懇願されて男子剣道部のマネージャーに就任したらしい。だから松田も、真希には頭が上がらないのだろう。
「とにかく、これで判ったでしょ。皆斗君、合宿にこないと、ますます立場が悪くなっちゃうから」
最後に真希は、少し口調を落として囁いた。
「絶対来るよう、水城さんからも説得してあげてね。じゃっ」
なんだか、どっと疲れを感じ、日名子はのろのろと帰り支度を済ませて教室を出た。
――結局、皆斗か。
鞄を抱えて、一人、げた箱まで歩きながら、初めて心からうんざりしていた。
面倒だが、頼まれた以上は仕方がない。それに、この先松田に絡まれないためにも、皆斗は合宿に行かせるべきだ。でないと、次は日名子がどんな目にあうか判らない。
家に帰れば、利樹の問題が首をもたげ、学校では松田が――。
「ああ……!」
もういやだ。
日名子は再度、大きな溜息をついて天を見上げる。
よく判った。
――学校でも家でも、私は、皆斗に振り回されっぱなしなんだ……。