4
部屋に戻った日名子は、自分の細い手首を見つめた。
痩せた身体、骨格からして貧弱なのだと思う。多分いくら肉がついても、華奢な骨組は変わらない。身長180センチ超えの利樹からみたら――子供をねじふせるより簡単な相手だろう。
が、今夜、利樹を拒みきれなかったのは、その体格差のせいだけではない。
最後に利樹から投げられた言葉は、恐ろしいことに、日名子自身も気づかなかった本質を痛いほどに衝いていた。
そうだ、決して心の底から、利樹を拒絶していたわけではないのだ。もしそうであれば、もっと渾身の力で抵抗していただろう。利樹もそれが判ったから――今夜、あんな振舞いに出たのだ。
恋ではない、そこまで積極的に利樹を受け入れたいとは思えない。なのに――何故か、抗しきれない不思議な引力を感じている。――
自分の不可思議な感情にぞっとして、日名子は思わずわが身を抱いた。
なんだろう、私って実は結構、淫乱な女だったりするのだろうか。好きでもない男相手に……、あんなことまでさせるなんて。
正直、いきなり好きだと言われても、信じられないし、いまだにその過程が理解できない。そういう意味では、残酷なようだが、嬉しさも高揚も一欠片もない。
むしろ、日名子は漠然と悔しかった。この期に及んで三人の関係を壊そうとする、いってみれば利樹の裏切りが、である。
――私は、トシ君と皆斗の間に入り込めない。今までそう思って、ずっと一歩引いて接してきたのに。
――私と皆斗は姉弟で、皆斗とトシ君は親友で……。その関係を壊すまいと、何年も私なりに頑張ってきたのに。……
軽いノックがした。日名子はびっくりして椅子から立ち上がりかけていた。玄関に施錠はしてある。もう、利樹は帰ったはずだ。
「………姉貴、起きてる?」
皆斗の声だった。
すぐに扉が軋み、背の高い弟が部屋に入ってくる。
「どうしたの、………起きたんだ」
机の上を整理するふりをして、何気なく言いながら、動悸が恐いほど早まっていた。
部屋に戻りしな、皆斗の様子を伺ったら熟睡しているようだった。だから――安心していたのに。
「………アタマ、痛い…」
けれど皆斗は、眉をしかめながらそう言うと、日名子のベッドに腰を下ろした。
「ちょっと、風邪なら移さないでよ」
そう言いながら、急いで皆斗の傍に寄り、額を直にくっつけてみる。
熱はない、ほっとして、額を離す。
「熱はないみたいだけど、風邪薬でも飲んどく?」
「………姉貴さ…」
額を手で抑え、うつむいたままの弟から、囁くような声がした。
「え……?」
「…もしかして、…トシ君のこと……」
「え?」
心臓が止まりそうになっていた。
「……皆斗?」
けれど皆斗は、そのままずるずると日名子の膝に崩れるように寄りかかってきた。
「皆斗、ちょっと、ふざけないでよ、一体何が言いたいのよ」
「………俺とトシ君の間に、入って………くんなよ…」
「………」
「……トシ君……俺から、とらないでくれ」
皆斗は顔を伏せたままだった。けれどその言葉は、鋭い針のように日名子の胸を突き刺した。
「皆斗……それは、」
声が震えるのを無理に抑えて言い掛けた時、皆斗はいきなりがばっと顔を上げた。
「ここで、寝させて」
眼が、完全に寝ぼけた人のそれになっている。
「はい?」
半分眠っているのだ。ようやく気がついた。
「寂しい……」
「ちょっと!」
すがりつくように抱き締められる。そのままずるずると崩れ落ち、皆斗は、本当に眠ってしまったようだった。
「重い、ばか」
日名子は毒づきながら、のしかかる重みを押しのけた。少しだけ動悸がしていた。
今の言葉は、なんだったんだろう? 寝ぼけた上での冗談なのか、それとも本気だったのか。
多分……。
日名子はただ、眉をひそめた。
多分――それが皆斗の本音なのだろう。
そう、最初から判っている。皆斗にとって自分は、いつだって邪魔な存在なのだ……。
「ばーか」
憮然と呟いて、眠る皆斗の乱れた髪に手を入れる。叩いてやるつもりだったが、何故か、そっと前髪をかきわけている。
――何も男なんて好きにならなくても、あんたなら、女のほうが放っておかないのに。
そう、皆斗は、昔から、とんでもなく異性にもてる。特に年上からよく告白されているようだ。
断り続けている理由が、いつも日名子には謎だったが、全てがこの春、腑に落ちた。誰が想像できただろう。誰よりも男らしくてスポーツ少年の弟が、まさか、隣の美人幼馴染(ただし男)に恋をしていたとは……。
が、もしかしてそれが、できすぎた弟の唯一の欠点なのかもしれない。
時に妬ましくなるほど、皆斗は全てを持っている。天が二物も三物も与えた最悪の典型だ。背が高くて、顔はイケメン――頭がよくて、スポーツ万能。人見知りしない明るい性格だから、いつだってクラスの中心で、人気者だ。青春の全てを賭けて打ちこんでいる剣道では、全国大会で上位にくいこむほどの実力者で――。
――それに較べて。
日名子は苦い笑みを浮かべた。
それに比べて、自分はいったい何なのだろう。特別頭がいいわけでも、運動神経がいいわけでもない。一応、成績上位グループにぎりぎりくいこんでいるが、それは、皆斗に負けまいと、必死で勉強しているからだ。
将来の夢もなければ、今何か、夢中になれるものを持っているわけでもない。
皆斗は全てを持っている――なのに………。
複雑な愛憎。
日名子の皆斗への感情は、愛と憎、常にそれが曖昧に入れ替わる。
愛しくて可愛い、なのに――時々、たまらなくその存在がうとましく思える時がある。
それが、理不尽なジェラシーだと……判ってはいるのだけど。
日名子は重く息を吐いて立ち上がると、机の上に置いていたグラスのコーラを一気に飲み干した。温く、そして不味い甘味が舌に広がる。
あんなことをされた後でも、律儀にコーラを持って部屋に戻った自分が滑稽だった。
何をやってもかなわない弟。もし自分が利樹を受け入れてしまえば。
「…………」
その思考に、日名子は眉をひそめていた。
――恋では勝ったことになるのだろうか。
すぐに日名子は首を振った。
それは、虚しすぎる想像だった。