3
日名子は、皆斗の部屋の電気を消すと階段を降りた。
キッチンから飲み物を取ってくるつもりだったが、驚いた事にリビングには、帰ったとばかり思っていた利樹が、まだ居座り続けていた。
――まずい。
利樹はリビングのソファに座り、置きっぱなしにしていたサッカー雑誌をめくっている。
引き返そうかとも思ったが、すでに眼が合っている。
「まだ、いたんだ」
「まぁな」
あれから何も仕掛けてこない利樹が――あるいは、あの日のことを後悔しているのかもしれないと思い直し、日名子は警戒しつつも留まることにした。
というより、下手に不自然な態度を見せて、利樹を挑発したくない。
さりげなくリビングを避けてキッチンに入る。
「……親父さん、まだ帰らないの?」
カウンターを隔てたリビングから声が掛けられる。顔を上げて様子を窺うと、利樹は手元の雑誌から視線を上げていないようだった。
少しほっとして冷蔵庫を開ける。
「うん、……確か来月あたり、帰る予定だったかな」
「大変だなぁ、自衛隊っつーのも」
「国民の命がかかってるからね」
ふっと利樹が苦笑する気配がする。
「来月、おふくろさんの命日だろ、それまでには帰って来られるのかよ」
「多分。中東あたりで戦争でも起きない限りは」
冷蔵庫から缶コーラを取り出し、戸棚にあったグラスを水道水で濯いだ。利樹にも注ぎ分けようと思ったが、それは止めた。必要以上に近づくのは、やはり危険な気がする。
「それにしても塵一つない部屋だよな。相変わらずお前一人が主婦やってんのか」
利樹が立ち上がる気配がする。
「家の管理も金のことも……なんもかも一人でやってんだろ、大変じゃないか?」
身構えた日名子だったが、リビングで窓の方を向いて立ったまま、利樹はこちらを見てはいない。
「皆斗はまだ子供だから、任せられない」
「お前が思ってるほど子供じゃないよ」
「……かもね」
――子供じゃないよ……。
妙に意味深な言い方のような気がした。
また、不愉快な感情が頭をもたげてくる。日名子は無言でコーラのプルタブを切った。
「そういや、うちのおふくろが寂しがってる。たまにはメシ食いに来いってさ」
「……皆斗だけでも行かせるから」
グラスの中で容量を増しつつ、じわじわと弾ける気泡。
それを見ながら日名子は、かつて何度か利樹の家に招かれた時の、漠然と感じた気まずさと居心地の悪さを思い出していた。そういう時の皆斗は、必要以上に利樹にくっついて離れなくなる。……
「最近、なんで眼鏡かけないんだ?」
声がふいに近くなった。はっとして顔を上げると、キッチンの入り口を利樹の大きな身体が塞いでいる。
思わず後ずさった日名子は、わずかでも油断を見せたことを痛烈に後悔した。
「皆斗に踏んづけられた。もともと、そんなに度が入ってなかったから」
「やっぱ、美人だよ、お前、俺はずっとそう思ってた」
「……来ないで」
急速に距離が縮まり、肩を押さえられる。
「皆斗の部屋、扉が開いてるよ」
「それで?」
近づく唇を、ぎりぎりの所で手で制した。
「今度やったら、舌噛み切るって言ったよね、トシ君」
「きれいな顔して、怖いこと言うな」
何故か利樹は、あっさりと手を引いてくれた。
日名子はほっとしてグラスを掴むと、その隣をすり抜けて廊下に出た。
「俺は、本気だぞ!」
からかうような声音が響く。階段の途中だった日名子はその声の大きさに驚いて足を止めた。
「トシ君、声」
舌打ちしたい気分だった。
「皆斗は多分、感づいてるよ。最近、トシ君と私を会わすまいと露骨なの、わかるでしょ」
「へぇ、だったら、大声だしたらやばいよな」
利樹の影が近づいてくる。
「ちょっと今夜は、おさまりがつきそうもないんだよ、へんなDVD見ちまったからさ」
「…………」
「大人しくしてろ」
階段が軋む。日名子は再び身構えた。グラスを持つ手がわずかに震える
「………冗談でしょ、トシ君」
「なんで?」
利樹が踏むたびに階段が軋む。その音さえも、皆斗に聞こえないかとひやひやする。
部屋の扉を開けたのは、逆に日名子自身の首を絞めたようなものだった。
皆斗がもし気づいたら――そう思うだけで、声ひとつ出せなくなる。逆に、利樹は腹を括った人のように落ちついている。
「だって、あれから、何もしなかったじゃない」
ほとんど間近に近づいた顔。
日名子は唇を震わせながら、精一杯の敵意をこめて男を睨んだ。
「なんだ、待っててくれたのか、じゃあ我慢なんてするんじゃなかった」
「馬鹿な事、言わないで!」
利樹は日名子の手からグラスを奪うと、それを階段の上に置いた。
日名子は動けなかった。階段の二、三段上にいる日名子と利樹の目線は殆ど同じだった。
「……前、俺が言った意味、……理解できてるか」
整いすぎて、どこか取り付くしまのない顔が、じっと見つめている。
「お前が好きなんだよ」
「………トシ君」
「俺とつきあえよ。そうすれば皆斗にはちゃんと諦めさせる、約束する」
日名子は深いため息をついた。
「トシ君、………私には、……悪いけど、そういう気はこれっぽっちもない。他の頼みなら何でも聞くから、これだけは勘弁して」
「お前にその気がないなんて、信じられないけどな」
けれど、利樹は、全く悪びれない顔でにやっと笑った。
「………結構反応してたくせに……子供だと思ってたらさ」
腕が伸びてきて、日名子のシャツのボタンをゆっくりと外していく。
強張った足のまま、日名子は動くことさえ出来なかった。
「嫌なら声出して抵抗してみろよ」
「………」
「ほら」
「…………」
「皆斗、どう思うかな、こう言う場合、俺を殴るのが弟としての立場だろうけどさ」
「…………」
「案外、お前が殴られたりしてな」
シャツがはだけ、下着だけになる。
利樹は腕を回し、背中のホックを簡単に外した。
「かわいい、おっぱいだな」
肩をつかまれ、唇が――胸に寄せられる。
日名子は唇を噛んでそれに耐えた。
利樹に脅迫されるまでもない、ここで騒げば、傷つくのは誰なのか――。壊れてしまう三人の関係。それを考えただけで、身体は硬直したように動かなくなる。
「トシ君は、平気なの」
「何が」
「皆斗の気持ちを裏切ること、なんとも思ってないの、トシ君は」
自分が何をされているかを考えたら、喋り続けていないと、気持ちがおかしくなりそうだった。
「………親友としか思えない、…好きなのはお前だ」
「……トシ君、お願い、……明日は、試験だから」
「だったら、手短にいかせてやるよ」
掴まれた胸を、きつく捻じられる。痛みに顔をしかめる間もなく、もう片方の腕が、日名子の腰に回り、カーゴパンツの縁に掛かった。
「ちょ、待って」
「騒ぐな」
「お願い、トシ君、いやだ」
「させてくんなきゃ、解放しないぞ」
パンツが腰の半ばまで引き下ろされる。
「や……もう、許して……」
もう、恐さだけしかなかった。このままだと、――取り返しのつかないことになる。
それが判っていても、狭い階段の途中、上にも下にも逃げることができない。
利樹の指が、剥き出しになった腿に触れる。
「……やだ……恐い……」
突然涙が溢れ、日名子は両手で顔を覆った。途端にびっくりしたように、男の指が動きを止める。
「マジで泣いてんのか?」
「…………」
「驚いたな、お前でも泣くことがあるんだ」
「…………」
少しの間があって、ようやく利樹の体温が離れた。
「本気で嫌がってるようには思えなかったけどな」
声には、やはりからかうような抑揚があった。
日名子は答えず、掌で目をこすると、急いではだけた衣服を合わせる。
「……初めてなら、これくらいにしとしてやるよ。これ以上続けると、途中でやめる自信がなくなっちまうからな」
ふざけたような言葉を残すと、利樹はつい、と肩をそびやかした。
足音が遠ざかり、玄関が開いて、閉まる音がする。
――皆斗……。
階段の半ばでしゃがみこんだまま、日名子は震えながら、唇を噛んだ。もう一度零れた涙を力いっぱい掌で拭った。
まるで抵抗できなかったことが、悔しくて、情けない。
(本気で嫌がっているようには思えなかったけどな)
利樹に、そんな風に言われてしまったことも。
けれど何故そこで皆斗のことを考えてしまうのか、――それは日名子にも判らなかった。