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いつまでも、皆斗のことばかり、考えてはいられない――。
春の思い出から現実の夏――間近に迫ったテストのことに頭を切り替え、しばらく勉強を続けた日名子が、ふと顔を上げると、壁に掛かった時計は十時前を示していた。
――トシ君、さすがにもう帰ってるよね。
ああ見えて、体育会系二人の就寝時間は意外なほど早い。
皆斗に至っては、どれだけ努力しても十時以降は起きていられない性質らしく、それでも、連日深夜まで勉強している日名子より成績がいいのだから、人の頭とは、つくづく不公平にできていると思う。
そんなことを考えながら、日名子が扉を開けて廊下に出ると、目の前で、いきなり皆斗の部屋の扉が開いた。
「…………!」
斜向かいにある部屋から、ひょい、と出てきたのは、皆斗ではなく、帰ったとばかり思っていた利樹だった。
日名子は緊張して、自室の扉の前で足を止める。
「よっ」
利樹は即座に片手を上げて、口元に快活な笑みを浮かべた。
カラーリングした明るい髪と整った顔立ち。背丈は百八十センチ以上ある皆斗と同じくらい高い。
道路ひとつ隔てた隣家に住むこの男は、今年の春日名子たちの通う高校を卒業し、今は気楽な大学生をやっていた。
日名子が動けないでいると、男は楽しげに苦笑する。
「なんだよ日名子、お前、俺見た途端に硬直してない?」
「別に」
図星を指され、日名子はますます緊張する。
――ふざけんな、誰のせいで硬直してると思ってんのよ。
内心むっとするが、それを口に出すのはやめておいた。
出せば、忘れてしまいたいことまで蒸し返されそうな気がするからだ。
あれから約四ヶ月。
日名子が頑なに警戒を強めているせいか、利樹の暴挙は、あの日一度で終わっている。
何も言ってこないし、皆斗との関係も今までとおり、上手くいっているようである。
ただ――やはり、皆斗は、何かを敏感に察したのだろう。
それも、恋する男の直感というやつだろうか。皆斗の下ネタ攻撃は、あの日から少しして始まったのだ――。
「トシ君、皆斗は?」
扉から顔だけ出し、何故かそのまま動かない利樹に、日名子はそっと問ってみた。
「DVD観てる途中で寝ちまったよ。最近ちょっと疲れてるみたいだな、あいつ」
「………」
「部活のことで、ごたごたしてんじゃないかな、多分」
日名子はふぅん、と口の中で呟いた。
自分が気づかない皆斗のことを指摘されると、少しだけジェラシーを感じてしまう。
いつものこととはいえ、何度味わっても気分の悪い感情だ。
この家に来て十年。
姉になった日名子としては、一生懸命、弟の信頼を得ようと努力してきたつもりだった。
けれど――、今に限らず、ことあるごとに思い知らされる。皆斗が信頼しているのは利樹一人きりで、日名子がどう頑張っても、二人の間に入り込むことはできないのだ。
日名子は視線だけで皆斗の部屋をのぞいて見た。
皆斗はベッドの上で片腕を枕にし、そのままの姿勢で眠っているようだった。
収まりきらない長い脚が、布団からはみ出ている。子供の頃から使っているベッドだから、伸びすぎた身長には小さすぎるのだろう。
利樹が労わるような声で続けた。
「今の剣道部の三年は、雰囲気の悪いのが揃ってるからな。皆斗は目立つから、何かと気苦労も多いんだろう」
「なんとなく……わかる」
その剣道部の三年生とは、概ね日名子のクラスに集中しているからだ。日常的に感じの悪い彼らの態度を思い返しても、皆斗のストレスが想像できる気がする。
が、そう言った愚痴を皆斗がこぼしたこともなければ、日名子がことさら気にしていたわけでもなかった。 そもそも皆斗は、他高のスポーツ推薦を蹴って、自ら望んで今の高校を選んだのだ。むしろ、多少の雑音はものともせず、嬉々として部活に打ちこんでいるのだと思っていた。
もちろん、皆斗の選択には理由がある。皆斗が小学校の頃から憧憬している<剣道界の神童>――とまで称される男が、うちの剣道部に在籍しているからだ。
その男もまた、日名子と同じクラスなのだが、本当に神童? と首をひねりたくなるほど茫洋とした平凡な生徒で――日名子にはいまいちその真価が判らないのだった。
組んでいた腕を解き、利樹はそっと皆斗の部屋の扉を閉めた。
「全中大会で入賞したっつー実績も、上級生から見れば生意気に映るんだろうな。俺にも経験があるから判るけど、皆斗みたいな奴に試合で負けると、マジでむかつく時があるんだ」
「……なんで?」
「そりゃ、皆斗だからさ」
わけのわからない答えを返して、それ以上説明する気のない眼で利樹は肩をそぴやかした。
――訊くんじゃなかったな。
毎回感じる苦々しい思いに、日名子は、わずかに眉をひそめる。
利樹も皆斗も、小学校に入る前から高名な剣道教室に通っている。当然利樹も、高校時代は剣道部で、皆斗からすればOBに当たる。いわば剣道は、二人を結びつける絆でありルーツなのだ。
だから、こと剣道に関しては――それ以外もだが――日名子が口を出す余地はこれっぽっちもない。
結局は二人にしか通じない、しょせん、日名子には理解できない世界なのだった。
「じゃ、俺は退散するよ」
日名子が扉の傍から離れないままでいると、利樹は肩を揺するようにして笑った。
「おやすみ、弟君に布団でもかけてやりな」
男はそう言い残すと、勝手知ったる足取りで階下へと降りていく。
日名子は嘆息し、皆斗の部屋の扉を全開にして中に入った。
利樹の手で閉められた時、内心ひやっとしたとは悔しくて言えない。気休めだと判っていても、こうして部屋をオープンにしておけば、利樹も前のような真似はできないだろう。
皆斗は、部屋の中に侵入者がいることにも気づかず、無防備に眠っている。
ベッドの下にまるめて投げてあるTシャツを拾い上げながら、日名子はその顔を見下ろしている。
男のくせに、肌理が細かく、睫が長い。切れ長の瞼、鼻筋の通ったきれいな顔だち――基本的に美人だった母親似なのだ。
それでも頬骨と喉仏の隆起が深い。眉筋は濃く、唇も厚い。ちょっと腹立たしいほど、男らしい顔をしていると思う。
「……ばーか」
日名子は一言毒づくと、眠っている皆斗の頭を、少し力を込めてぱしんと叩いた。
片腕で支えていた頭が微妙に揺れるが、当の本人は寝入っているのか規則正しい寝息を崩さない。
――……人の気もしらないで。
ベッドの隅に垂れ下がったままになっているタオルケットを引き上げ、筋骨の秀でた肩に掛けてやる。その刹那、二の腕の硬い隆起に指が触れた。
その手を――日名子は、不自然なぎこちなさで引いてしまっていた。
あの春の日の異変以来、確かに皆斗はおかしくなった。
でもそれは、多分、日名子も同じだった。
理由は判っている。利樹が妙なことを言ったせいだ。
(同じことしてるんだよ)
(皆斗が俺にしたのと、同じこと)
利樹が自分にしたことが――何故か全部皆斗とオーバーラップしてしまって、まるで……皆斗にキスされてしまったような、あり得ない錯覚を感じてしまっている。
だから……妙に意識してしまうのだ。
この感情をなんと表現していいのか、今も日名子には判らなかった。