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「――皆斗さ、俺のこと好きらしいんだよな、友だちとしてじゃなく、そういう意味で」
 二宮利樹から、その「告白」を聞かされたのは、この春、遅咲きの桜がようやく満開になり始めたばかりの頃だった。
 水城家のリビング。
 その日、皆斗はまだ帰っておらず、日名子は、キッチンで夕食の準備をしていた。
 いきなりやってきた利樹が、キッチンカウンター越しに立ったまま、やはりいきなり、そう切り出した。
「………どういう意味?」
 鍋の火加減を見ていた日名子は、顔を上げ、眉をひそめて呟いた。
 利樹は、薄い唇に綺麗な微笑を浮かべ、そのままソファに腰を降ろす。
 隣家の二宮利樹が、こうやって断りもなく、家に上がりこんでくるのは、別段珍しいことではない。利樹と皆斗は、家族同然に互いの家を行き来する仲なのである。
 風呂に入ろうとしたら、脱衣所で利樹が素っ裸になっていたり、逆に自室で着替えていたら、いきなり扉を開けられたり――普通の女の子なら悲鳴もののハプニングなら、すでに感覚が麻痺するほど経験済みだ。だから逆に、この男が日名子をまるで女扱いしていないことも知っている。
 日名子にとっても、利樹は十年来の幼馴染で、ことさら警戒するような相手でもなかった。
「ねぇ、どういう意味よ、トシ君」
「だから、そういう意味」
「そういう意味って」
「鍋、結構煮えてるみたいだけど、大丈夫かよ」
「あっ」
 丁度、シチューに仕上げの牛乳を注いでいる最中だった。分量の倍の牛乳を注いだまま、グリルの火を消すことさえ忘れている。
 少し慌てて、火を弱めるためにかがみ込んだ。
「ま、お前みたいな鈍い奴に、口じゃ説明できないよ」
 利樹の声が近くでして、顔を上げると、もう男は、キッチンに踏み込んできていた。
 顔だけは女性のように繊細だが、基本的に利樹はひどく大柄である。身長は皆斗と同じくらいあるし、剣道をしているから、手足もごつくて逞しい。
 その大きな利樹が狭いキッチンに侵入してくると、息が詰まるような圧迫感がある。
「な、なによ」
 色恋という意味では、まるで警戒の必要がない相手のはずだった。
 が、今は――利樹の目の色が尋常ではないような気がする。
 男の勢いに気おされ、日名子は驚いて後ずさっていた。
 手にしていたお玉杓子が滑り落ち、それを目で追った途端、壁に押し付けられるようにして、抱きすくめられていた。
「……??」
 著しい体格差に、息さえできない。すっぽりと大きな腕で抱き締められて――何が起きたのかさえ、理解できない。
「日名子……」
 額を寄せるように見下ろされ、眼鏡が外されても、まだその意味を解しかねていた。というか、信じられなかった。
 トシ君が――まさか。
「……これ、なんの冗談よ」
「冗談に見えるか」
 覆い被さるように唇が落ちてくる。
 初めて激しい驚愕を感じ、日名子は本気で抗った。
「ちょ、待って」
「だめだね」
 抵抗は、あっけないほど簡単に封じ込まれる。
 顔をそらす、それを利樹の唇が追う。唇は一端頬に押し当てられ、そのまま強引に日名子の唇の上へと持っていかれた。
「やだ、……っやめて、やめて、トシ君」
 逃げたくても、身体を拘束する利樹の腕力は半端ではなかった。もがけばもがくほど、互いの身長差、体格差を虚しさと共に思い知らされる。
「や、……」
 ぴったりと、覆うように唇が塞がれ、声が途切れた。
「や……だ」
 重なった箇所に濡れた感触を感じた途端、反射的に固く歯を食いしばっていた。利樹には悪いが、薄気味悪くて全身に寒気が走る。
 傍らで煮えたぎったシチューがごとごと音を立てている。キスを続けながら、利樹の指が、ガスを消す。
 唇を通じて、苦い味が微かにした。
 なんの味だろう――感情の片隅でかすめるようにそう思いながら、気づけば足の力が抜けている。ずるずるっと腰をつきかけた刹那、唇を離した利樹が、日名子の腰に腕を回して抱き上げていた。
「やだっ、ふざけんなっ、離せ」
 我にかえって日名子は暴れた。
 けれど、それさえも楽しむように、そのまま、リビングの床まで運ばれて組み伏せられる。
「やっ、いやっ」
「俺だって、ショックだったさ」
「…………」
 耳元で囁かれた意外な言葉に、思わず抵抗の手を緩めていた。
 ――ショック……?
「皆斗は今みたいに、俺にキスしてきたんだから」
「………」
「すげぇ、激しかった。俺、頭真っ白になって、……今のお前みたいだったな」
 ――キス?
 皆斗が――トシ君に?
 自分が今されたことより、皆斗が――あの皆斗が、利樹にキスをしたという事実が、途方もない衝撃だった。
 もともと仲の良すぎる二人だと思っていたし、皆斗の、利樹への執着が、少し度を越しているな、と思ったこともある。単なる友情というより――ものすごい独占欲を感じる時があるからだ。
 例えば日名子にさえ、皆斗は露骨に嫉妬する。
 日名子が利樹と話していると、必ず不機嫌な顔で割り込んできて、大抵、利樹を引っ張って、自室へ連れて行ってしまうからだ。
 でも、まさか――。
 男同士でも恋愛の対象に成り得ることは、知識として知っている。
 けれどそれは漫画か小説、もしくは新宿二丁目の世界の話で、まさか自分の身近で現在進行していようとは夢にも思ってもいなかった。
「……わかるだろ、俺の気持ち」
「…………何が」
「友達だと思ってたのにさ……、女扱いされてたなんて、ショックでかいよな」
「…………」
 茫然としている間に、両腕を拘束され、脚の間に利樹の脚が割り込んできた。
 日名子はようやく我にかえった。
「だめっ、トシ君」
「責任とれよ」
「や、やだっ」
 かあっと顔が熱くなる。
 制服のスカートがまくれて、腿が露わになっている。
「お前、姉貴だろ、弟のやらかしたことの、責任とれよ」
「それがなんで……っこうなるのよ」
 顔が被さる。日名子は喉を反らして男の唇を避けた。
「トシ君、舌噛み切るよ!」
「やってみろよ」
 唇に喉を吸われ、そのまま手がブラウスの下に差し込まれた。
「トシ君、やっ、いや」
「同じことしてるんだよ」
 意味が判らず、咄嗟に男の顔を見上げている。
 見下ろす利樹は、不思議な微笑を浮かべていた。
「皆斗が俺にしたのと、同じこと」
 ――同じ、こと……?
 何故か、ふっと頭の中に、空白にも似た静けさが生じ、日名子は抵抗を止めていた。
 こんな真似を皆斗が本当にしたのだろうか? 確かになまじの女より美しくはあるが、同性である利樹相手に……こんな風にキスして、こんな風に……身体に、手を。
「お前が俺とセックスしてくれれば」
 耳元で、利樹はからかうように囁いた。その刹那、再び日名子は現実に戻っている。
「ふざけんなっ、なんで私が」
 ばたばたと足を振ったが、利樹はますます楽しそうに腕を拘束する力を強くする。
「だから、お前が相手してくれたら、皆斗には、きちんと諦めさせるって」
「はっ? なんなのよ、その都合のいい理屈は」
 その間も、利樹の手は容赦なく日名子の身体を探っている。
「じゃ、いいのか? 皆斗をそっちの道に走らせちまっても」
「よくはないけど、私と何の関係があるのよっ」
「――いい加減、黙れよ」
 初めて聞く凄味のある声に、日名子は息を引くようにして身体の動きを止めていた。
 まさか……本当に本気なのだろうか。
「俺、ずっと、お前のことが好きだったんだよ」
 囁いた利樹に、もう一度、キスを求められる。
 日名子は、歯を食いしばったままでそれを受けた。
 今、自分の身に起こっていること全てが信じられないというか、悪い夢でも見ているようだった。
 抗ったところで利樹が退かないのは明らかだし、逆に、ますます増長しそうな気がする。
 そう、命まで取られるわけじゃない。少し怖いが、最悪、貞操を奪われても、まぁ、別に惜しいようなものでもない。いつか誰かと経験するんだし、利樹はもてるからきっと上手くて優しい……ああ、そういう問題か? 今?
 後になって思えば、その場しのぎの、自分が楽になるための言い訳をあれこれ考えつつ、日名子はこの恐るべき状況から逃げる方法を懸命に模索していた。
 そうだ――あと少しで、皆斗が部活から帰ってくる。
「日名子……」
 未知の感覚が、触れられている場所から這いあがる。それを、意識を別のことに集中させて、日名子は必死に耐え続けた。もうすぐ皆斗が帰ってくるはずだ。もうすぐ――あと少しだけ我慢すれば。
 その時、ようやく玄関を開ける音が響いた。
「タイムオーバーか」
 利樹は何事もなかったかのように身体を起こし、日名子も同じようにした。
「ただいまぁ」
 疲れているのか、どこか力ない声がリビングに近づいてくる。
「おかえり、皆斗」
 日名子は、キッチンカウンターから眼鏡を取り上げ、表情を変えず、帰って来た弟に声を掛けた。
 利樹は日名子がそうすることを見抜いていたのか、にやにやと笑っている。
 日名子は不愉快だったが、実際、このことを口が裂けても皆斗に言うつもりはなかった。
 
 
 
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