「あんたさ……」
「んー?」
皆斗とは、義理とは言え、十年も真面目に姉弟をやってきたつもりだった。
二人きりで何年も暮らしてきて、密室で、みあげるほど体格のでかい義弟に、卑猥な冗談を言われて、不快にならないといえば嘘になる。
「ううん、もういい」
日名子は立ち上がった。こんな体勢でなければ決して見られない、皆斗の頭をじっと見つめる。
――そんなに、私に出てって欲しいの?
本当は、そう口にしかけていた。
皆斗が、義理とは言え姉である自分に、信じられないような冗談を言うようになった理由を、日名子はちゃんと知っている。この春、自分の身にある異変が起きて、皆斗の挑発も時期を同じくして始まったからだ。
「姉貴、ちゃんと見てる?」
ふいに、着ていたシャツの裾を引っ張られた。
少し驚いて、視線を弟の顔に戻す。
「……俺から目を離さないでよ」
じっと見上げている、少し焦れたような黒い瞳。
「見てるよ」
ようやく、年相応の、弟への愛しさを感じ、日名子は薄く笑みを返した。
(――俺から目を離さないでよ)
それは、皆斗の子供の頃からの口癖だった。
すっかり大人びてしまった弟が年相応に見えるのは、こんな時だけだと日名子は思う。
「――おう、いるか? 二人とも」
窓の下からいきなり声がしたのは、その時だった。
「おっ、トシ君だ」
即座に皆斗が目を輝かせて立ち上がる。日名子は無意識に眉をしかめていた。
階下から、いつものように玄関を開け、ずかずかと踏み込んでくる足音が聞こえる。
こんな風に、断りもなく家に上がりこんでくるのはただ一人。
トシ君こと、二宮利樹。
皆斗の、三つ年上の幼馴染である。
「皆斗、さっきのDVDなんか観るなよ、もっとすげぇの借りてきてやったからさ」
陽気な声が階段の下から近づいてくる。
「マジで? じゃ早く俺の部屋で観ようよ」
そう声を返しておいて、シャーペンを置いた皆斗は、視線を日名子の方に向けた。
「………姉貴は」
「い、き、ま、せ、ん」
「だよね」
あれほどしつこく誘っておきながら、不意に皆斗は安心したような顔になった。
最初から、日名子を呼ぶつもりなど毛頭なく――ただ、からかっていただけなのだろう。それは日名子にも判っている。
「とにかく出てって」
日名子は、皆斗の背に手を当ててドアの方に押しやった。
「冷たいなぁ」
皆斗は笑って身体を翻す。大きな胸、広い肩幅が正面に回りこんできて、影が被さる。
少し戸惑って、ばっと大げさに手を離していた。
「ま、姉貴は一人で勉強してなよ。声聞こえないように、しっかりドア閉めとくからさ」
「勝手にしてよ」
その時、廊下に重量感のある足音がして、「おす、日名子、勉強してんのか?」扉の向こうから声がした。
日名子がそれに答える前に、皆斗が不自然なほど慌てて扉の傍に駆け寄っていく。
半開きの扉の前で、かちあった二つの足音が止まる。
「俺の部屋に行こう、トシ君、姉貴は勉強中なんだから」
「はいはい」
二人は扉を少し開けて会話している。トシ君こと二宮利樹の端整な横顔が、ちらりと扉の隙間から垣間見える。
初対面の日、利樹はまだあれで小学校四年生だった。
かつての美少年は成長して、今では凛々しい青年になっている。が、基本的には、女性のような綺麗な顔のままである。
その――美人顔が、日名子を見つけて目配せする。
皆斗がばたん、と扉を締めたのはその直後だった。
――なんなのよ、その態度は。
いつものこととは言え、不愉快な感情を抑えきれず、日名子は無言で椅子に座った。
(――皆斗さ、俺のことが好きらしいんだ。……友だちとしてじゃなく、そういう意味で)
この春、利樹から聞かされた衝撃の告白。
その、一言一句が、抑揚が、背後でうるさく聞こえていたシチューの煮えたぎる音までもが、今でもはっきりと思い出せる。
「……皆斗の莫迦」
思わず溜息と共に呟いていた。
何も……男を好きにならなくても。
日名子は苦い気持ちで、まだ温みの残るシャーペンを手にとった。
二人の楽しそうな会話は、隣室の扉が閉まる音と共に途切れてしまった。皆斗の部屋は、もともと死んだ母がピアノのレッスン用に使っていたから、防音がしっかり効いている。
勉強に集中しようとした日名子は、また落ち着かない気持ちになった。
三角関数よりさらに複雑に絡まった問題が、目の前に立ち塞がっている。
その原因二人が、隣の部屋で笑っている。
むろん、姉の立場としては、一日も早く皆斗を全うな道に戻してやらなければならない。が、そのためには……。
ひどく憂鬱な気持になって、日名子はひとつ溜息を吐いた。
なんだか明日の試験のことさえ、どうでもいいように思えてきていた。