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「姉貴、いる?」
いつものような軽快なノック音。
「いない」
水城日名子は憮然として即答した。勉強机に座ったまま、振り返りもしなかった。
「だからさ、すっげぇ無修正モノが手に入ったんだって。トシ君が言ってたけど、まじ繋がってるとこがモロ見えなんだって。なぁ、見ようぜ、姉貴」
声だけが、扉の向こうから響いてくる。
「見ない!」
さすがに声を荒げていた。もう耳慣れた弟のセリフとはいえ、この内容には耳を塞ぎたくなる。
「見よーぜー」
しつこい声が不意に大きくなる。
ばたん、と背後で扉を開かれる。立ち上がって抗議するより早く、すぐ背後に弟の皆斗が立つ気配がした。
「あーねーきー」
肩から両腕が回される。
「……あのねぇ」
日名子はその腕を振り解いて、弟に向き直った。
小学校三年であっさり追い抜かれ、今では見上げるほど背が高くなった皆斗が、からかうような眼差しで見下ろしている。
「……皆斗、私の大学進学が、明日からの足切りテストで決まるってこと」
「うん、知ってる」
あっさりと遮られる。その刹那、我慢し続けていた何かがぶつっと切れて、日名子は顔を上げていた。
「だったら、毎晩毎晩、なんだっていちいち邪魔しに来るのよ! てか、私があんたに何をした? いったい何のための嫌がらせよ」
「まぁまぁ、勉強なんて、何も今更焦んなくても」
皆斗は悪びれずに、にやにやと笑い、両手を上にあげて頭の後ろで組み直した。
身長182センチ、細く見えるが、もう薄く筋肉のついた身体。
ノースリーブのシャツを着ているから、腕を上げると、脇の翳りが視線に入る。
見慣れた身内の体とはいえ、日名子はそれでも、視線を逸らしてしまっていた。
顔の骨格も、目も眉も、何時に間にか大人の男になっている――高校一年生の弟、皆斗。
逆に高校三年生の日名子は、160センチに満たない痩身で、胸も腰も板のように凹凸がない、一言でいえば、貧相な身体つきというやつだ。
「何やってんの? 数学と英語なら見てやろうか?」
そんな日名子の戸惑いにも気づかないのか、皆斗は、視線を机の上に向けた。
「見るって……」
これが弟に言われる台詞なのだろうか。
それでも日名子は嘆息しながら、丁度つまっていた問題――三角関数の積分に目をやった。
ひょい、とその視線の先を覗き込んだ皆斗の横顔に、わずかだが失笑が滲む。
「マジ? こんなぬるい問題で詰まってんの? 相変わらず数学弱いね、姉貴は」
そのまま、日名子が席を立ったばかりの椅子に腰を落とす。
大柄な身体をいきなり受け入れた椅子が、ぎっと音を立てて大きく軋んだ。
「簡単だよ、見てな、姉貴」
皆斗は、本当になんでもないことのように言い、さらさらとシャーペンを動かし始めた。
――そりゃ、あんたは特別なのよ。
日名子は嘆息しながら、机の傍にしゃがみこんで、肘杖をついた。
皆斗は、昔から理数系がずばぬけて強かった。
幼稚園の時から公文教室に通っていたからだと、本人は当たり前のように言うが、無論それだけで、皆が皆、皆斗のようになれるわけではない。
とにかく頭の回転が速いのだ。教諭連中も一目置いているくらいで、三年生の日名子が時々教えを請ってしまうほどなのである。
「これはさ、∫ f(sinx)cosxdxか ∫f(cosx)sinxdxの形に変形して、置換積分するんだよ」
長くごつい指が、意外にきれいな形でシャーペンを掴んでいる。
皆斗はさらさらと問題を解き、解き方のプロセスまで、細かく余白に書き込んでくれた。
丁寧できれいな筆跡。
顔もよくて、頭もよくて……性格もよくて、字も綺麗なんて、すごい嫌味なやつだと日名子は思う。ただ、皆斗の性格がいいのは、あくまで表向きの話なのだが。
実のところ、皆斗の性格は――相当ゆがんでいる、と日名子はひそかに思っている。
「……これ終わったら、一緒にDVD見る?」
傍でしゃがみこんでいる日名子に向かって、問題を解きながら皆斗は囁いた。
「……どこの世界に、そんなもん弟と見る莫迦がいんのよ」
シャーペンが止まり、長い前髪の下から切れ長の眼がのぞいた。
「興奮しそうで恐いとか」
「あのね」
一瞬高まった動悸を隠し、日名子は立ち上がって、弟の頭を軽くはたいた。
「いてっ」
叩かれた皆斗は、どこか楽しげに肩を揺らして椅子を軋ませる。
「ま、いいさ、今夜は姉貴をネタに一本抜くから」
「……………」
――頼むから……。
日名子は嘆息して、額を押さえる。
間違いなく確信犯だ。
こんなセリフ――仮に義理ではなく、本当に血が繋がっていたとしても、高校三年生の姉に言える弟がいるのだろうか。
学校では成績優秀、爽やかな優等生を演じながら、家に帰ると一転してセクハラまがいの冗談ばかりを口にする。多分、学校の連中は、こんな皆斗の本性を、誰一人として想像できないに違いない。
でも……頭のよすぎる弟が、暴挙と判って日名子にこんな話題を振るには、多分別の理由がある。
それを知っているから、日名子はあえて怒りを堪え、弟の挑発を、何気にスルーし続けているのだ。
「それ解いたらさっさと出てってよ。あんたと違って私は忙しいの。ご飯も洗濯も、家のことは何もかも私一人がやってるんだから」
「俺が解けても意味ないじゃん、姉貴に理解させないと」
……こいつ……。
生意気な言い草に、本気で殴ってやろうかと思ったが、そこは大人の貫録でぐっと堪えた。そう、いくら血は繋がっていないとはいえ、相手は二つ年下の弟である。なんだかんだいって、日名子が守ってやらなければいけない子供だ。――
日名子と皆斗は、十年前、双方の親の再婚で姉弟になった。いわゆる義理の姉弟である。
二階建て4LDKのこの家は、もともと皆斗が母と住んでいた家であり、そこへ日名子と父が転がり込むような形で、四人の同居が始まった。
水城の実家は裕福な旧家で、父と日名子が母の戸籍、つまり水城籍に入ることが、再婚の絶対条件だったという。
だから日名子は、小学三年生で、住みなれた街も友だちも、名前さえも失った。海上自衛隊に所属する父は、年の三分の二は家に帰れないような人だったから、同居が始まった最初の頃は、一人ぼっちで他人の家にお世話になっているようなものだった。
漠然と、高校になったら家を出ようと思っていた日名子だったが、中三の冬に義母が急死して、その思惑も水に流れた。
以来、水城家の主婦兼弟の保護者として、とんでもなく忙しい学生生活が始まったのだ。――
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