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「姉貴、ご飯できたよ」
 リビングへ降りていくと、皆斗は上機嫌で顔をあげた。が、たちまちその目に、むっとした怒りが滲む。
「あ、俺迎えに行くつもりだったのに、どうして勝手に階段降りてきたんだよ」
 ――迎えに来て欲しくなかったからに決まってるじゃない!
 内心そう毒づきながら、夕食の支度が済んだ食卓の椅子に腰を下ろした。家についてからも異常なまでに世話をやきたがる皆斗に、正直言えば、いい加減辟易している。
 風呂にまでついて来られた時には、本気で怒鳴ってしまっていた。洗濯物にしても、自分のものには指一本触れてほしくない。
「時間はかかったけど、味はまぁまぁだよ」
 皆斗は得意気にエプロンを外すと、自分も待ちかねたように席についた。
 簡単な焼き飯と豆腐の味噌汁だった。確かに味は悪くない。焼き飯の中には、たまねぎや人参が、形良く刻まれて混じっている。味噌汁にも丁寧な出汁の味がした。
「うん……美味しい」
「マジ?」
 心底嬉しそうに、皆斗は眼を輝かせる。
「こういうのって、あれだよな、夫に初めて料理を褒められた新妻って感じ?」
「………アホか」
 ――あんたが言うと、しゃれになんないのよ。
 と思ったが、それはさすがに口には出せない。
「俺、これからしばらく、料理とか家の仕事とかするからさ。こればかりは姉貴がなんて言っても、俺、するから」
「………」
 駄目だ、とは言えなかった。それでもどこかで、不愉快な感情が首をもたげかけている。
「――姉貴さ」
「え?」
 顔を上げると、箸を置いた――どこか優しい皆斗の目が、じっとこ日名子を見つめていた。
「………もう、家のこと、あまりしなくてもいいよ」
「………」
「俺、自分のことは自分でやりたいんだ。もうそういう意味で、姉貴を頼りたくないんだよ」
「………」
「試験、あんまり出来なかったんだろ。顔に書いてあるし」
 冷たい怒りが、急速に膨れ上がった。感情に、理由がついていかない。
「あんた、意外と女性的なんだ」
 日名子はうつむいたままで呟いた。
「もし男相手にセックスするなら、女役希望なわけだ」
「………」
 皆斗の視線が、さすがに止まった。
「……それ、何の話……だよ」
「冗談に決まってるじゃん」
 日名子は胸の悪さを飲み込みながら、急いで食事を口に運んだ。
 顔は上げられなかったが、皆斗が、凍りついたように動かないでいるのは判った。
「……相手次第かな」
 ふいに、呟くような声がした。
「へぇ」
 その言葉の意味を考えるのが怖かったし、その顔を見るのが恐ろしかった。日名子は食事の手を早めた。
「姉貴はどっちだと思う」
「知るか、おぞましいこと考えさせないで」
 ばん、と箸を置き、手を合わせた。
「もう寝る、片付けは頼んだから」
 そのまま、猛烈な勢いで立ち上がった。が、脚が言うことをきかなかった。
「いてっ……」
 すかさず立ち上がった皆斗が、駆け寄って、腰に手を回して支えてくれる。何故か、腹が立ち、ひどくムキになっていた。
「いいよ、離してよ」
「何興奮してんだよ、さっきからおかしいぞ、姉貴」
「おかしいのはあんたじゃないの!」
 感情を抑制できなかった。そのまま日名子は皆斗の胸を強く突いた。ふいを突かれた皆斗は、少し驚いた顔で身体を反らす。
「そんなに私が邪魔なら出てくわよ、最初から、あんたたちの邪魔する気なんてなかったんだから」
「………何、言ってんだよ」
「触んないでよ、汚らわしい!」
 伸ばされた腕を振り払った。
 皆斗はただ、唖然としている。
「あんたのせいで、私がトシ君に何されたと思ってんのよ、気色悪い、男同士で」
 言いかけて、はっとした。それは決して口にすまいと決めていたことだった。
「……とにかく、もう、今夜は寝るから」
 狼狽して、背を向けた。そのまま、足をひきずって逃げようとした。
「ちょっと待てよ」
 怒気のこもった声がした。肩を掴まれて振り向かされ、そのまま日名子は壁に強く押し付けられた。
「………何されたって?」
 怖い声だった。その目も、腕も、まるで知らない他人のように恐ろしかった。
「………冗談に決まってるじゃない」
 目を逸らし、身体をよじる。けれど利樹の時と同様に、皆斗の腕はびくともしなかった。
「言えよ、トシ君が姉貴に何したって言うんだよ」
「だから、冗談なのよ!」
「ふざけんな!!」
 後頭部に衝撃があった。肩を強く掴まれ、そのまま壁に押し当てられていた。
 ――いた……。
 怖さと情けなさで、身がすくんだ。かなわない、抵抗も反撃もできない。
「………姉貴…?」
「……離せ…」
 多分、泣きそうな顔をしていたのだろう。皆斗の表情からみるみる怒気が薄れ、腕から力が抜けていく。
 日名子はようやくきびすを返し、壁で脚を支えながら自室へ向かった。
 悔しかった。情けなかった。自分は女で――男になった弟には敵わない、それを心底思い知らされていた。
 そして、皆斗が――自分を失うほど、利樹を愛しているということも。
 
 
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 怪我をして一週間、完全に足が元通りになるまで、皆斗は精力的に家事をこなしてくれた。
 最初はぎこちなかった食事の支度は、一日もすればスムーズになり、出てくるメニューも手の込んだものへと変わっていった。洗濯も掃除も、今までの皆斗からは信じられないきめ細かさで、滞ることなく着々と片付けている。
 ただ、二人の間に生じてしまった疑心暗鬼のようなぎこちなさは、そのまま何日経っても消えなかった。
 当り障りのない会話をしながら、どこかで相手の出方を探り合っている。日名子がそう感じている以上、皆斗も間違いなく同じように思っているはずだった。
 日名子にとっては、余りにもばかばかしい理由――利樹を巡る三角関係で、だ。
 警戒を強め、部屋に鍵までつけたのだが、利樹はあれきり訪ねてはこなかった。
 皆斗の口から、大学の剣道部の合宿に行っているんじゃないの、と曖昧に言われ、ようやく安心して夜を迎えることができるようになっていた。
「……うん、判ってる。……ああ、上手くやってるよ、向こうの家にもちゃんと謝罪に行ったから」
 七月の最終日の夜だった。電話の声で、日名子は浅い眠りから目を覚ました。
「心配いらないよ、ああ、問題ない。うん……」
 闇に響く、くぐもったような笑い声。
 日名子は不審に思いながら階段を降りた。
 一週間で、足の痛みは殆ど消えていた。
 少し力を入れると痛む程度で、歩行にも日常生活にも支障はない。
「いいよ、そんなの……うん、そうだね、身体には気をつけて、船で病気なんかしたら最後だろ。……うん、それじゃあ」
 皆斗の声だった。日名子がリビングの扉を軋ませると、その声が不意に緊張したのが判った。
「じゃ、切るよ、うん」
 どこか不自然な慌しさで電話が切られた。
「………誰から?」
 電気を点けながら、日名子はそっけない口調で聞いてみた。
「友達」
 皆斗も同じようにそっけなく返すと、「おやすみ」と短く言って、さっさと階段を上がっていく。すれ違い様に見上げた顔は、とりつくしまのないほど冷たく見えた。
 ――……どうして、嘘をつく。
 日名子は胸苦しい気持ちでキッチンに立ち、コップに水を汲んで口を潤した。
 会話の内容ですぐに判った。
 父親だ、日名子にとっては実の父親で、皆斗にとっては義理の父。珍しく電話があったのだ――でも、何故自分に代わろうとしなかったのだろう。
 ――独占欲か。
 子供の頃の皆斗にはそういう悪癖があった。自分ひとりが注目されていないと我慢できない性格だっだ。
(――俺から、目、離さないでよ)
 父にも母にもそう言って、絶対に自分から関心を逸らされないようにしていた皆斗。
 自分の母だけでなく、父が日名子と話していても、横から奪うようにして父を連れ去っていったこともよくあった。
 利樹に関してもそうだった。利樹と日名子が二人で話していると、必ずそれを邪魔しに来る。皆斗は――二人にとっての一番が、常に自分でなければ気がすまないのだ。
 さすがに中学に上がる頃からそんな子供じみた性癖は落ち着いてきたけれど、利樹を盗られるかもしれないという不安が、今、再び、昔の悪癖を表に出させているのかもしれない。
 昔はさほど気にならなかったその性癖が、今は無償に腹立たしい。
 ベッドに横たわって目を閉じても眠れない。
 不愉快な気持ちで、息苦しいほどだった。

 
 
 
 
 
 
 
 

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