8
翌日の試験は、最悪だった。
日名子にとって、これほど手応えのないまま、終了時間のベルを聞いたのは人生初めてのことだった。
(――やばいかな)
眉をしかめたまま、日名子はしばらく、自席から立つことができなかった。
まさか自分が足切りにあうとは夢にも思っていなかったが、にわかに現実味を帯びた大学受験が、頭に押し寄せてくる。
試験が終わったと同時にクラスメイトたちが、「今回は楽勝だったよな、サービス問題続出で」と興奮気味に語っていたのもますます不安をかきたてていた。全体の平均点がいつもより高目になるのかもしれない。
――まぁ、仕方ないか。
そうなったらなったのことだ、頭を切り替え、日名子は帰り支度を済ませて立ち上がった。
「――水城」
教室を出た所で、正面からいきなり声を掛けられた。顔を上げると、どこかで見たような男が廊下に立ち、無表情でこちらを見つめている。
「えーと……」
しばらく相手の名前を逡巡していた日名子は、ようやく藤王暁の名前を頭の引きだしから取りだした。
そうだ、藤王暁。男子剣道部の主将で、皆斗が心酔している剣道界の神童。が……名前と印象は強烈なのに、実物を前にすると、しばし名前がでてこないのは何故だろう。
そう、あまりにも……普通なのだ。剣道界の怪物は。
「あー、何? 皆斗のこと?」
名前がすぐに出てこなかった気恥かしさから、つい早口で訊いている。
身長は高く見積もっても百七十センチくらいだろう。ほっそりとした色白の男は、銀縁の眼鏡を掛け、少し色素の薄い真っ直ぐな髪をしている。言っては悪いがどこにでもいそうな……むしろ、文化系の典型みたいな、ひ弱な外見である。
「そう、水城の弟のことだ」
淡々と抑揚のない声で藤王は答えた。この大人しそうな男に、松田のようなゴリラ並の体格を持つ男が頭が上がらないというのだから、剣道とは本当によく判らない。
「水城の弟は、合宿には来られるのか」
「え……、あ、それはまだ」
「できれば参加するよう、水城からも言っておいてくれ」
それだけだった。藤王暁は、それだけは剣道をしている者らしい真っ直ぐな背を向け、そのまま廊下の向こうに消えてしまった。
日名子は緊張を解いて嘆息した。
――みんなして、皆斗、皆斗か。
それだけ皆斗は、周囲から期待され、必要とされているのだろう。もちろん、姉としては嬉しいことに違いない。違いないのだけれど――。
階段を降りかけたところで、今度は背後から橘真希に呼び止められた。
「水城さん、皆斗君、合宿どうするって?」
――またそれか。
正直、うんざりした気持ちもないではなかった。
けれど振り返って見上げた真希は、階段の上で、両手に沢山の白い衣服を抱えている。それがあまりに大量だったので、日名子はむしろその方に驚いた。
「橘さん、大丈夫?」
階段を駆け上がり、手伝おうか、と声を掛ける。見ればそれは剣道の稽古着で、見慣れた麻地に細かい模様が浮き出している。
「平気よ、私の仕事だもん」
真希は大きな目を細めて笑みを浮かべた。その手から日名子は、とにかく上半分をもぎ取った。
「いいよ、半分持つから」
「でも……」
「部室まで運べばいいんでしょ」
稽古着は皆清潔で、ぱりっとのりづけされていた。冬用が今日クリーニングから戻って来たの、と真希は嬉しそうに説明してくれた。
「……皆斗のことだけど、ゴメン、まだ話してないんだ」
日名子は話を元に戻した。
「今夜にでも聞いてみるよ、ごめんね」
正直、手伝いたいと思ったのは、その罪悪感からでもある。
昨夜、利樹の家に泊まった皆斗と――腹立たしさから口も聞きたくなかったなんて、くだらなすぎて言い訳にもならない。
「こっちこそ試験中に余計なこと言ってごめんね……。それより、重くない? 大丈夫?」
厚みのある稽古着は以外に重量がある。参考書を詰め込んだ鞄を肩に掛けたままだったので、少しバランスが取り辛かった。
「でも、緊張しちゃう、水城さんに手伝ってもらうなんて」
そして真希は、横顔に照れたような笑みを浮かべた。
「……ホントいうと、四月からずっと友達になりたいなって思ってたんだ。憧れちゃうよ、頭いいし、美人だし」
「……………………」
それ、誰の話だろうか、と思っていた。
「水城さんって、なんかこう……整いすぎて、いつも完璧ってイメージがあるじゃない?……それもあって、みんな、近づきにくいと思ってるだけだと思うよ。私もそうなんだけど」
「……完璧?」
もしかして、皆斗の話だろうか。
そう訊くと、真希は眉を上げて、苦笑した。
「やだー、何言ってるの? 今は水城さんの話をしてるのに。あ、同じ名前だから判りにくいね、そうだ」
突然輝きを増した眼が、正面から日名子を捕らえる。
「ね、よかったら今日から、ひなちゃんって呼んでもいい?」
「…………え?」
「中等部の頃は、そう呼ばれてたんでしょ。一年の時同じクラスだった子から聞いちゃった」
「そりゃあ、……別に」
確かに、中学一年の頃、妙に馴れ馴れしかった友達に、そう呼ばれていた記憶はある。が、なんだってそんな昔のことが、いまさら話題に登ったりしたんだろう。……
「いいの? 嬉しい!」
わずかに訝しむ日名子の前で、真希は弾けるような笑顔になった。
「じゃ、私のことは真希って呼んでね。わぁ、なんだか嬉しいなぁ」
「……うん」
いきなり近づいた距離に戸惑いはあったが、決して悪い気はしなかった。何かと皆斗のことを気遣ってくれる彼女には、今のところ、好意しかもっていない。
「じゃあ、早速呼ぶけど――ねぇ、ひなちゃん」
ふいに、真希は顔を寄せ、声をひそめて囁いた。「皆斗君って、彼女いるの?」
「いや、いないと思うけど」
「………ほかの女子が騒いでて、私は見てないんだけど、ね」
「何?」
真希の声は、ますます細く、聞き取り難くなった。
「今日の朝練の時、皆斗君、首にカットバン貼っててさ。なんか、それがキスマークを隠してるみたいだったって」
―――は??
真希を振り返った途端、足を滑らせていた。
「…っ、水城さん!」
真希の手が伸びてくるのが判ったのが最後だった。手にしていた稽古着が全て落ちて、そのまま階段の凹凸が間近に迫った。胸をひどく打って、自分の横をさらにすごい勢いで真希が横滑りに落ちていくのが見えた。
悲鳴と助けを呼ぶ声、それから人がわっと集まってくる気配がした。
9
「本当にすみませんでした」
皆斗は何度目かの謝罪を口にして、これ以上ないというほど深く頭を下げた。
学校近くにある整形外科医院の一室だった。ベッドに半身を起こしていた真希は恐縮したように両手を振った。
「いいの、本当に気にしないで皆斗君、私が悪かったんだから」
掛け布団からのぞく右足には、白い包帯が幾重にも巻かれている。
日名子は情けない気持ちでいっぱいになって、自分も隣立つ皆斗と共に頭を下げた。
「橘さん、……本当にごめん、私が余計なことをしたばっかりに」
「いいの、ひなちゃん、私がへんな話しちゃったから」
そう言う真希の目が、何かをそっと訴えている。日名子は苦い気持ちで頷いた。
多分――階段で交わした会話を、皆斗には言うな、と言いたいのだろう。
階段からもつれあって転落した日名子と真希だったが、捻挫ですんだ日名子と違い、真希の右足は骨折していた。
真希は、自分で足を滑らせたと言い張ってくれたが、彼女が日名子を支えようとしてくれたのは明らかで――言い換えれば彼女は日名子のせいで、これから始まる高校最後の夏休みを丸々棒に振るのである。
日名子が治療を受けている間、真希の両親に謝罪したり、学校に連絡をとったりしてくれたのは、意外にもすぐに駆けつけてくれた皆斗だった。
他人に大怪我を負わせてしまったという精神的なショックから忘我していた日名子に代わり、皆斗一人が全てを引き受け、病院の手続きも含め諸雑務を一気にこなしてくれた。
「本当にすみません。先輩、俺、出来ることはなんでもやりますから」
真摯な横顔が、何度も真希に丁寧な謝罪を繰り返している。
「私はいいの。……試験も終わって、夏の予定は特にないし、……ただ、合宿に参加できないのが」
真希は初めて眉を曇らせた。
「二年のマネージャーも都合がつかないって言ってたでしょ。一年の子一人で、三十名分の食事がさばけるかどうか」
「俺が手伝いますから」
皆斗は即座に言った。
「大変よ、皆斗君、それでなくても松田君たちに目をつけられているのに」
真希は目蓋を伏せ、憂鬱そうな息を吐いた。「とにかく誰か代理を探しておくわ。このままだと、このことでまた、皆斗君が嫌がらせを受けそうだから」
「代理なら」
皆斗は何を思ったのか、少し眉を上げて隣の日名子を見下ろした。
「ここに……格好の人材が」
「は?」
驚く日名子を尻目に、皆斗は初めて晴れ晴れとした顔になった。
「うちの姉貴、こう見えても家事全般目茶苦茶得意なんです。料理もすげぇ上手いし、掃除だってばっちりだし。大丈夫、先輩の穴は、うちの姉貴に責任持って埋めさせますから」
――ちょっと待て、おい。
日名子は、さすがに仰天して皆斗を見上げた。
「ホント? ひなちゃん!」
けれど抗議の声は、真希の歓声で飲みこまざるを得なくなった。
「嬉しい、ひなちゃんなら本っ当に安心! よかった〜、これで安心して休めるわ」
皆斗の手がぽんと肩に置かれた。何か言えよ、と促されているのが判る。
「……他に……誰もいなければ」
日名子は呟くように応えた。
「ありがと、皆斗君、ひなちゃん」
大変なことになったな、と思いながらも日名子は、心がようやく落ち着いていくのを感じていた。
真希の笑顔が救いになって、罪悪感という名の重苦しい鎖が、ようやく緩んだような気がする。
――…皆斗は……。
ふと思った。
皆斗は、それが判っていて言い出してくれたのだろうか。
10
廊下に備え付けてあるベンチに腰掛けて待っていると、階下から息を切らせて皆斗が駆け上がって来た。
「悪い、待たせて、藤王さんや顧問の先生にも説明しなきゃいけなかったから」
皆斗はそう言って、呼吸を整えながら、前髪を払いのけた。
額には薄い汗が浮いている。エンブレムの刺繍が施された半袖シャツにチャコールブラックのネクタイ、同色のズボン。見慣れた制服も、体格の秀でた皆斗が着ると、まるで社会人のように見える。
皆斗はベンチの前に立ち、しばらく日名子を見下ろしているようだった。
日名子は気まずさを紛らわすように、ただ瞬きを繰り返している。
不思議だった。見下ろしている皆斗の表情に、昨日までにはなかった余裕と落ち着きが滲んでいるような気がする。
「姉貴……マジで、合宿、来てくれる?」
皆斗は優しい声でそう言い、日名子の隣に腰掛けた。
「今、藤王さんにも話してきた、姉貴に真希先輩の代理で行ってもらうことにしたって」
「……藤王、なんて?」
あの男とは、今日皆斗の合宿のことで話をしたばかりだ。
「俺が参加するならそれでいいってさ。……行けるだろ、姉貴、姉貴が行くなら俺も行くし」
「そりゃ、まぁ……行ってもいいけど」
――お父さんの帰還とか、お母さんの命日とか、色々ややこしいことがあるんじゃないの。
それを口にしかけて振り返った視界の端に、横を向いている皆斗の首筋が飛び込んできた。
ずっと気になっていたカットバンが、耳の下辺りに二枚クロスして貼り付けてある。
「……ああ、これ?」
視線に気づいたのか、皆斗は、少し不自然な笑みを見せた。
「昨日、トシ君のところで悪い虫に噛まれちゃって」
「へぇ」
――その虫、茶髪でよく喋るオスでしょ。
皮肉を言いたくなるのをぐっと堪える。受け身のはずのトシ君が、もしそんな真似をしたとしたら、それは間違いなく、日名子への警告である。いつまでも無視を続ければ、皆斗はもう帰さないぜ……。からかうような利樹の声が、実際に聞こえてくるようだった。
「それより、合宿、絶対に来るよな」
皆斗は念を押すように言った。そのしつこさが少し気になって眉を寄せる。
「おふくろの命日には掛かんないし、親父が帰ってくるまでには終るから大丈夫だよ。そこそこ暇あると思うし、勉強だってできるだろ」
「……そりゃ、いいけど」
言いかけた日名子の前で、皆斗は広い背を見せて膝をついた。
「……なんの真似よ」
「足、痛いんだろ、ここ二階だから下まで負ぶってってやるよ」
当然のように言う。日名子は自分が耳まで赤らんだのを感じた。
「ば、ばかも休み休み言ってよ。いい年して、弟の背におぶされると思ってんの」
「いいじゃん、ほら」
「い、や、だ」
日名子は強調して拒否すると、壁に手をついて立ち上がった。右足首を捻挫しているだけだから、支えがあれば歩くことはできる。
すぐに皆斗の影に覆われた。
「姉貴……お姫様だっこって知ってる?」
威嚇するような目が、どこかからかいを含んで見下ろしている。
「俺は今すぐにでも、姉貴をだっこして下まで降りることができるけど……どっちが恥ずかしい?」
「………皆斗」
日名子は眩暈を感じて嘆息した。こういう強引さは、子供の頃から変わらない。
「………背中」
仕方なく、ふてくされたように呟いた。
皆斗の背中は思っていたよりずっと暖かで、しっかりとした心地よさがあった。
「軽いな、姉貴って体重何キロ?」
ふざけたような声がする。「腿にも全然肉ついてないな、やせすぎなんじゃねぇの」
「うるさい」
少し長い襟足から、家のものではない香りが滲んでいる。広い肩にはほどよく筋肉がつき、腕に力を入れているせいか、触れると驚くほど硬かった。
階段を降りながら、皆斗は少しの間無言だったが、やがて囁くような声で言った。
「彼女……マジで姉貴、庇おうとしたのか」
「……橘さんのこと?」
そう聞くと、皆斗はわずかに首を縦に振る。
「親しいなんて知らなかった。……ひなちゃんなんて呼ばれてるから、鳥肌たったよ」
「何よ、それ。別に、そんなに親しいわけじゃないよ」
「じゃあなんで、彼女が姉貴を庇う必要があるんだよ」
何故か執拗に皆斗は繰り返す。
「それは――」
日名子は口ごもり、そして、何故か泣きたくなった。
「姉貴………?」
そのまま皆斗の肩に目蓋を押し付け、滲みそうな涙を堪えた。
どうして今、張り詰めたものが――こんなに簡単に緩んでしまったんだろう、と思いながら。
「……私が頼りないから、でしょ」
「は?」
「いいんだ、もういい、私は何をやってもだめなんだから」
義母が亡くなって以来、皆斗の前で、こんな弱音を吐いたのは初めてだ。
「なんだよ、それ、どういう発想の飛躍だよ」
「………………」
自分のしでかしたことの後始末を、この世で一番負けたくない皆斗にやってもらって、挙句に背負われて、―――なんだかもう、全てがどうでもよくなっていた。
「………そんなことないよ」
しばらく黙り、そしてふいに口を開いた皆斗の声は優しかった。
「俺はいつだって、姉貴を頼りにしてるんだからさ」
「うそつかないで」
「どうしてさ、姉貴はきれいだし、頭もいいし、何でもできるし………俺の自慢だよ、昔から」
どういう厭味だろう、それは。
「………あんたが言うと」
言いかけて止めた。ここで皮肉を言っても仕方がない。綺麗なんて、そんな見え透いた嘘を言われても少しも嬉しくない。頭なら皆斗の方がずっといい。
軽く息を吐き、そのまま皆斗の肩に頬を預けた。触れた髪の隙間から、見たくないものが目に入る。
「………あんたさ、なんだって、合宿行くの渋ってたのよ」
こんな所に、どういう体勢で利樹がキスをしたんだろう――と思っていた。どんな顔で皆斗はその唇を受け、どんな反応をしたのだろう。
「………姉貴、俺に行って欲しかったのか」
どこか寂しげな声が帰ってきた。意味が判らず、日名子はただ、揺れる髪と、その合間に見えるカットバンを見つめていた。
「俺……、姉貴の邪魔………?」
「………? どういう意味?」
自然に手が伸びていた。階段の途中だった。皆斗はわずかに身体を硬直させたが、そのまま、日名子の指がカットバンを剥すのに任せていた。
「……くすぐったい」
前を見て歩きながら、皆斗は呟いた。
すぐにカットバンは剥れ、下から紅い沁みのような痕が浮き出してきた。
覚悟していたものの、正直それが何なのか、……本当にキスマークなのか虫さされの痕なのか、日名子には判別できなかった。
「……治ってる?」
皆斗は言った。
「よく、わからない」
正直な答えだった。皆斗が失笑する気配がした。
なんだかばかにされたような気がして、日名子はそのまま不機嫌に黙り込んだ。何故か皆斗も、そのままふいに無口になった。