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9
「え、何、ここでするんじゃないの」
「もう風呂入ったから、こっちでやって」
母屋から少しばかり離れた場所にある、匠己専用の仕事場――匠己が先に立って歩くから、香佑は仕方なく後に続いた。
屋根だけが掛かった作業場に隣接した場所に、匠己の小さな隠れ家がある。机があって資料や工具が納めてあって――そこにしつらえてあるロフトの寝台で、匠己は毎日寝起きしているのだ。
「……いいの」
「なにが」
だって、そこ――匠己と涼子さんの思い出の部屋なんじゃ……。
それでも、扉を開けた匠己がずかずかと中に入っていくので、香佑も後に続いていた。
ひんやりと冷えた、書物と工具に埋もれた部屋。いつ覗いても綺麗に片付けられている。ここは、匠己にとって、宝箱みたいな場所なんだろう。
「そういえば、前探してたもの、出てきた?」
「ん? ――ああ、出てこなかった」
机の上のスケッチブックを片付けながら匠己が答える。
「何探してたの?」
「別に」
素っ気なく言って、匠己は半開きになった戸棚を閉める。「なんでもないよ。大したものじゃないし」
「ふぅん」
なによ。その言い方。
なんだか妙に腹が立つんですけど、今夜の社長さんの態度には。
「なぁ、それよりお前、今月に入ってやたら竜さんと墓掃除に出てるみたいだけど」
「え、うん、まぁ、毎日じゃないけど」
それは朝の掃除ではなく、この石材店が無料でやっている墓掃除サービスのことだろう。
吉野石材店で施工した墓石を、年に一度故人の命日前に掃除するサービス。
(――社長が手がけられた墓の掃除は社長自ら出向かれていますが、先代の作られた墓と既製品については、私がやらせていただいているんです)
と、加納は言っていたが、最近はそれがほぼ毎日だ。
町内会の仕事があるから全部についていくのは無理だけど、二日に一度は加納と外に出ているかもしれない。
「この時期って、命日が集中してんの? あんなに数があるなら、竜さんだけじゃなくノブ君にも手伝わせたらいいのに」
つい、香佑は言っていた。
まだ残暑が厳しい最中、連日炎天の下で墓を磨き続ける加納が、さすがに気の毒だなぁと思っていたからだ。とはいえ加納自身は、むしろ嬉々として墓掃除をしているようなのだが。
「ふぅん」
自分から聞いてきたくせに、何故かそれきり話を打ち切ると、匠己は椅子を引いて腰掛けた。
なによ。なんのための質問だったのよ。
むっとしながらも、香佑は仕方なくその背後に立つ。
「じゃ、やるけど」
「お願いします」
背を向ける匠己の肩のくぼみに、肘をあてる。
相変わらず、一部の隙もないほどに張り詰めて、弾かれそうに逞しい肉体だ。数分マッサージをするだけで、香佑の額には薄く汗が滲んでいる。
生乾きの髪からは、自分と同じシャンプーに香りがする。それが少し嬉しかったりするけど、実際は涼子も慎も、ノブですら同じ匂いがするのだから、その感慨も無意味なものだ。
はぁっと、香佑は溜息をついた。
――全く、なんの真似なんだか。そりゃ、約束は約束だけど、何も涼子さんがいる前で、それ実行しなくても。
携帯電話を契約した時の約束――正直、匠己が、今更そこに拘るとは思ってもみなかったが、実際、約束したのだから仕方がない。
彼が携帯の料金を払ってくれる代わりに、香佑が夜食を作って肩のマッサージをする。まぁ、実際、生計の何もかもを匠己に依存しているのは間違いないのだから、つきつめて考えると、香佑の立場を慮っての約束でしかないのだが。
とはいえずっと忘れられていたその約束が、涼子を家に泊めた途端、いきなり実行されるとは思ってもみなかった。
一体どういう理由なんだろう。匠己がそこまで無神経だとは思えない。
もしかすると、あてつけだろうか。涼子さんに嫉妬させるため? まさかね。だったら私が、とことん惨めすぎるじゃない――
傍で見ていても、二人はごく普通に接しているし、特にぎくしゃくしている風でもない。むしろ、ぎくしゃくしているのは香佑と匠己だ。あてつける必要なんて、何もないようにさえ思える。
再度溜息をつき、香佑は、この件に関しては考えないことにした。
結局のところ、匠己の頭の中は昔と何も変わってはいないのだ。宇宙人みたいに理解不能。
「……っ」
と、匠己が低く呻いた。
「あ、ごめん。痛かった?」
「いや、気持よかった」
「……へー」
な、なによ。ドキドキさせないでよ。
ほんと、変だよね。私たちって。
と、香佑はしみじみと思っている。手もつないだことのない男女が結婚して、こんな夜中に二人きりでいて、しかもこんなに身体を触れ合わせているのに、何一つアクションが起こらないなんて。
彼の肌の温度や肩の広さ、頭のつむじの形にも、もうすっかり慣れてしまった。そういう意味では、ちょっと夫婦っぽい感覚になってきているのかもしれない。
しかも、腹立たしさの中にも一部のうれしさがないと言えば嘘になる。これ、完全に惚れた弱みってやつなんだろうな。
「涼子、いつまでいるんだっけ」
匠己が不意に口を開いた。
こういう時、大抵無言な人がいきなり口を開いて――しかもそれが涼子の名前だったことに、香佑は少しばかりむっとしていた。
「いつまでって話はしてないけど……一応、私が忙しいのが、今月いっぱいまでだから」
後はもう、泊まってもらう理由がなくなる。
「そっか」
匠己の声に少しだけ安堵が交じった。
「じゃ、とりあえずそれまででいいよ」
「何が」
「いや、こういうの。お前も疲れてるみたいだし」
なにそれ。
じゃあやっぱりこれは、涼子さんに対するあてつけだってわけですか?
私にとっては、ちょっと嬉しいスキンシップなんだけど、あんたにはそういう――ま、期待するだけ無駄か。
つんとして、事務的な口調で香佑は言った。
「涼子さんさえ迷惑でなきゃ、ずっといてもらったって、私は構わないですけど?」
「………」
匠己が、わずかに息を吐くのが香佑にも判った。
「あのさ――いてっ」
「あ、ごめん。つい力入っちゃった」
さすがにその背中がむっとするのが判る。いくら鈍い匠己でも、故意に話を遮ったことは解ったに違いない。
少しだけ気まずさを感じ、香佑は初めて自分から、この件について口を開いた。
「あんたさ、別に涼子さんのこと、嫌いでも苦手でもないんでしょ」
「友達だからな」
あっさりと匠己は答える。
「お前と涼子が友達になるのはいいと思うよ、ただ――」
「あんたが私に言ったこと、私も言い返していいなら、私に遠慮してほしくないんだ」
遮るように香佑は言った。
「嫌味でもあてこすりでもないよ。私が原因で、大切な人間関係を終わりにしてほしくないだけ。……まぁ、今の状態で、家に泊めたのは行き過ぎだったかもしれないけど」
冷静になってみれば、それは確かに高木慎の言うとおりだと――思う。
「ただ、涼子さんも、そのあたりは気にしてて、誤解されないように気をつけるみたいなことは言ってたから。……だから、友達でいることまではやめなくていいっていうかさ」
だけど恋人未満でいて欲しいって、そこまで行くとただのわがままなんだけど。
「……友達ね」
何故か、呆れた声で呟いた匠己がそれきり黙ったから、香佑もそのまま黙りこみ、黙々と作業を続けた。
なにそれ。
もしかして慎さんと同じ反応ってやつですか。
どうせ私は少女マンガ好きの乙女ですよ(もう何年も読んでないけど)。
やっぱり匠己にも、判ってもらえなかったか。
それはまぁ……仕方ないとは思うんだけど。
「まぁ、あれよ。別にあんたとケンカしてるからって、それで怒って涼子さん呼んだわけでもなんでもないってこと。――そこだけは誤解しないで」
「やっぱ、ケンカしてんだ、俺ら」
匠己が、息を吐くようにして呟いた。
香佑は少し黙ってから、匠己の肩から手を離した。
「あんたにその認識がないのなら、私一人が怒ってたのかもしれないけどね」
びっくりするくらい、私の気持ちに気がついていなかった。
誤解に満ちた手紙の内容を鵜呑みにして、あっさり「応援するよ」みたいなことを言った。
そんな無神経なあんたには――その時、私が怒った意味すら理解できてないのかもしれないけど。
気持ちを切り替えて、香佑は久々に入った匠己の仕事場を見回した。
「やっぱこの部屋は、今度からやめてよ」
「どういう意味?」
匠己の宝箱みたいな部屋――昔も今も、匠己はここで寝起きしている。
二人用の大きなロフト。涼子さんが来た時に作った場所。初めて恋人になった二人の、大切な思い出の場所。
それを聞いてからの香佑は、この部屋の扉を見るだけでも胸が苦しくなっていたのだ。
「涼子さんに聞いたけど、二人の思い出の部屋なんでしょ」
苦いものを一気に吐き出すように、香佑は言った。
「涼子さんがいる夜に――無神経にもほどがありすぎ。私だって面白くないし、そこは素直に気分が悪いから」
眉を寄せて振り返った匠己は、しばらくの間呆れたように黙っていた。
「誰と誰の思い出だって?」
「言わせないでよ、私にいちいち」
香佑は、少しだけ赤くなっていた。
「そ、そのロフトだって、二人で使ってたんでしょ? あんたって本当に考えなさすぎ。少しは女の気持ちを考えなさいよ」
「…………はぁ」
しばらく呆けたように瞬きをしていた匠己は、こりこりと耳のあたりを掻いた。
「それ誰に――ま、いいか」
そして視線を下げたままで言った。
「あのな」
「な、なによ」
「お前の気持ちもわかるから、俺は何も言わないよ。でも今回に限って言えば、ひどいことしてるのはお前の方なんだぞ」
どういう意味よ、それ。
「それが判って来てる、涼子も涼子なんだけどな。ま、いいや」
おもむろに立ち上がった匠己が、不意に香佑の傍に歩みよってきた。
「な、なによ、何か文句でも」
図体がでかいだけに、近寄られるとぎょっとするほど迫力がある。思わず壁際に後退した香佑を、匠己はあっさりと抱え上げた。
「きっ、ぎゃーっっ、な、なにすんのよっ、いきなりっ」
「しっ、外に声が聞こえるだろ」
どういうこと? どういうこと?
これって一体何事なの?
羊だとばかり思っていた男が、いきなり狼に豹変した?
隣あったお布団で寝ても、朝までぐっすり熟睡してた唐変木が?
香佑を横抱きに抱き上げたまま、匠己は何も言わずにロフトの方に歩いて行く。そして、そのまま階段に足をかける。
おいおいおい。
思わず匠己の首に手を回して自分を支えながら、香佑は蒼白になっていた。
ちょっとまさか――母屋に慎さんも涼子さんもいるのに、一体あんた、何考えてるのよっ。
10
「え、もう寝てるんですか。いや……だったらいいです。大した話じゃない、その――」
忘れ物の話なんで。
そこは気まずく言い訳してから、慎は携帯電話を切った。
奈々海……、頼むから、携帯をリビングなんかに置き忘れるなよ。
こんな時間に元夫の俺が電話して、またおふくろさんにあらぬ誤解でもされたらどうするよ。
メール……駄目だ。うっかりもののあいつのことだから、なんのはずみで兄貴に見られるか知れたものじゃない。本当に、とことん信用できない女。
世の中にはどこまでも抜けた奴というのがいるもので、それが慎には、生まれたその日から隣の保育器にいた奈々海だった。
その悪夢みたいな縁は、死ぬまで続くものだと勝手に思っていたけど……。
(元々一番仲の良かった二人が、――どっちかが結婚した途端に離れちゃうなんて、なんだかそれも寂しいじゃない)
ふと蘇ったノスタルジーを、慎は急いで追いやった。
奈々海と元の関係に戻るなんて、絶対に無理だ。元妻がもうすぐ兄貴の嫁さんだ。互いに身体の隅々まで知り尽くした仲だけに、……距離は、開けなければならないと思う。自分が思っている以上に。
慎は意識を、目の前のややこしい現実に置き戻した。
捨てて欲しいもの――手紙だな。十中八九。
慎は、携帯をポケットに滑らせながら、今出てきた吉野家に戻ろうとした。
それで匠己とその嫁がぎくしゃくしているというのなら、内容はおのずと推測できる。何かこう、俺とあの女がつきあってるみたいなことが、確信たっぷりに綴られていたに違いない。
「それにしても、馬鹿じゃねぇのか?」
匠己の嫁――あの女だ。
なんだって、そんなおかしな手紙を、わざわざ匠己に見せたりするんだろう。
匠己に言い訳したいところだが、何が書かれているか確認しないままじゃ、おかしな墓穴を掘りかねない――いや、墓穴ってそもそもなんなんだ?
別に、俺と彼女はやましい間柄でもなんでも――
「慎さん、そんなところにいたんだ」
台所の窓から、不意に涼子が顔を出した。
「ごめん、ちょっと用事ができて。今から私、上宇佐田に帰ることしたから」
「はっ? こんな時間からかよ」
慎は眉をあげている。が、何のとは聞かなかった。涼子のプライベートになんか、死んだって立ち入らない方がいいに決まっている。
「しばらくこっちには戻れないから、嶋木さんにそれ、伝えといてくれないかしら。明日の朝御飯の予定もあるし」
「自分で言えよ。俺だって今から帰ろうと思ってんのに」
「ごめん。時間ないし――そんなに心も強くないし」
ふざけんな。心臓に剛毛生えてるくせに。
むっとする慎を、涼子は楽しそうに見下ろした。
「帰るんなら、二人に声かけて帰ったら? 慎さんがいるといないとじゃ……なんていうの、匠己も余計な気を使わずに済むじゃない。そのまま二人で仕事場で寝ちゃってもいいんだし。――あ、慎さんの場合、そうなったら困るか」
「おい、いい加減にしろよ、お前」
「心配しなくても、あの二人なら、本当に淡々と肩もみしてるだけだから大丈夫よ。慎さんにやましい気持ちがないのなら、早目に声かけてあげた方が親切じゃない? じゃっ」
呆れる慎の前で、扉がぴしゃりと閉められた。
奈々海といい涼子といい、なんなんだ、一体。
この誤解をどうにかしないと、俺、マジで匠己の馬鹿嫁に横恋慕してる馬鹿な男に思われるぞ?
まさか匠己にまで、そんな風に疑われているとは思わないが――それにしても。
慎は、携帯を取り上げて、匠己の番号を押した。出ない――というより電源が切れている。いつものパターンだ。
溜息をついた慎は、そのまま匠己の作業場に向かって歩き始めた。
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