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「なに、今の」
「さぁ」
 慎の問いに、涼子は呆れたように肩をすくめた。
「毎晩……ってほどでもないけど、仕事場で、肩でも揉んでもらってるみたいよ。あの匠己にしては珍しくない?」
「何が」
「あてつけ。判るでしょ。こんな時間からあんなわざとらしい態度で嶋木さんを連れて行っちゃうんだから」
「……へー」
 そりゃ、確かに珍しい。こと涼子に関して言えば、あの羊みたいに大人しい匠己が。
「そりゃ、お前がやりすぎたんだろ」
 慎は、湯のみのお茶を飲み干した。
「新婚家庭に、図々しくも押しかけたんだ。このままいても無駄だから、早く帰れってサインじゃねぇの」
 なるほどね。この状況じゃ涼子が可哀想って意味――ほんの少しだけ判ったよ。確かにそれなりには、嫁の立場を守ってやっているようだ。
「ノブに聞いたけど、お前匠己に、二度と来るなとまで言われたんだろ? それでまた顔出せるお前の意味が判らねぇんだけど」
「そんな言い方だったっけ?」
 ポットから湯のみに茶を淹れながら、涼しげな口調で涼子は言った。
「確か、友達だけど、もう泊まらせることはできないみたいな言い方だったと思うけど? 遊びに来るなとまでは言われなかったわよ」
 いや、それは……――察しろよ。匠己の言いたいことくらい。
「せっかく上宇佐田にしばらくいることになったんだから、店に挨拶に寄ったのよ。そしたら嶋木さんが、忙しいから夕食作ってくれないかって」
「作ったら、とっとと帰ればよかったじゃねぇか」
「そう思ってたら、朝も忙しいから朝食もお願いしますって。ふふ……嘘じゃないわよ。その場にはノブ君もいたから、聞いてみれば?」
 はぁっと慎は溜息をついた。
 あの馬鹿女――ここまでいくと真性だな。
「もういいよ。今度ばかりはお前にもあの女にも呆れた」
 そしてふと気づいている。
「そういやお前、今上宇佐田に住んでんの?」
「ウィークリーマンションだけどね。言ったじゃない。しばらくこっちで仕事をすることになったって」
「……へー」
 涼子が仕事を辞めたというのも、あの馬鹿女が涼子を引き止めた原因になっているのだろうか。
 ふとそう思ったものの、口に出すのはやめておいた。
 涼子が仕事を辞めた件に、話を持って行きたくなかったからだ。涼子の地雷原に踏み込むのだけは死んでもごめんだ。向こうから話をしてくるならともなく――それは絶対にないだろうが。
「ま、なんにしても、馬鹿な女二人に対する匠己の無言の抵抗だな。むしろ涙ぐましいよ。てゆっか、夫婦なんだから、肩揉もうが、どこ揉もうが、あてつけでもなんでもないと思うけど」
「本当にそう思ってる?」
 くすっと笑って、涼子は上目遣いに慎を見上げた。
「私、ここにいる間に確信しちゃった……。二人はまだ他人のままね。できてる男女の匂いがこれっぽっちもしないもの」
「俺が知るかよ。そんな匂い」
「判るでしょー、慎さんだって、結婚してたんだから」
「…………」
「ま、安心して、私は慎さんの味方だから」
 涼子は含むように笑って立ち上がった。
 慎は、少し呆れてそんな涼子を見上げている。おいおい、このバイタリティー、もはや普通の域を超えてるぞ。今、好きな男が別の女と出て行ったっていうのに、なんでこいつは、自信満々で笑ってるんだ。
「おい、おかしな誤解すんなよ。頼むから」
「ふふ……誤解なのかしらね。そもそもなんで二人の仲がこじれたか、慎さん知ってる?」
「はい?」
「慎さんが原因――それ、私のカンだけどね」
「…………」
 俺?
「いまのも、私にじゃなく、慎さんに対してのあてつけだったりして」
 立ち上がった涼子を追うように、慎も慌てて腰を浮かせかけていた。
「ちょっと待てよ、それ、なんの」
「判らない? 慎さんは邪魔ってこと。私以上に、あの二人の障害になってるってことよ」
「…………」
「嶋木さんが私をこの家に泊まらせる理由――いかにもお人好しの彼女らしいやり方だけど、匠己は内心どう思ってるのかしらね」
 ――匠己がどう思っているか?
「匠己だって男だし、嶋木さんは初恋の相手でしょ」
 楽しげな表情のままで、涼子は続けた。
「同性の私から見ても、嶋木さんって魅力的よね。脚は長くて綺麗だし、胸だってすごくあるし。一緒にお風呂に入った時に見たけど、マシュマロみたいに柔らかそうで」
「おい、なんの話だよ」
 慎の怒りを、涼子はくすくす笑ってやり過ごした。
「そんな魅力的な嶋木さんと二人きりで一緒にいて、いい年をした男がその気にならないわけがないじゃない。でもいくらセックスしたくても、私がいちゃ、さすがに無理よね。ねぇ、こういう見方はできない? 嶋木さんの方に、匠己と二人になりたくない理由があった」
「……どういう意味だよ」
「慎さんに義理立てしたとか」
「はい??」
「と、匠己は勝手に思ってるかもよ」
 半ば呆然とする慎を見下ろし、涼子は挑発的にくすりと笑った。
「ま、私たちは、共闘関係ってことで、ひとまず休戦しましょうよ。その方が絶対にお互いのためだから」
 一人になった後でも、慎は固まったように唇に指を当て続けていた。
 意味が、まるで判らない。
 後半はまるまる涼子の勝手な妄想だろうが、それにしても――
 原因が俺で俺が邪魔?
 で、匠己が俺にあてつけてるとか――まさか、天地がひっくり返ってもそれだけはないに決まっている。
 てか、だいたい俺が何をした?
 この二週間、ずっと実家に篭っていたし、二人の仲が上手くいくように、竜さんやノブにも念を押しておいたほどなのに。
 とはいえ、確かに先ほどの匠己の態度は不自然だったしおかしかった。
 仕事場で、二人で話した時にもそう思った。
 喧嘩の認識はないとか言っていた割には、匠己の中にわだかまりがあるのは見え見えだった。悩んでるんだろうな、とは思ったが、それを言う気がないのもよく判った。
 あの単純なあいつが――そう言えば、やけに言葉を選んでいたっけ。
 まるで、俺に知られたくない何かがあるみたいに。
「…………」
 もしかして、本当に俺に対してのあてつけか?
 いや、まさかな、いくらなんでもそれだけ信じたくない。
 疑っているならはっきりそう言えばいいし、そんな陰湿なやり方、あいつらしくない。
 だいたい原因となるきっかけが何も……。
(ごめんなさいっ)
 はっと、奈々海の声が頭をよぎった。
 まてよ――戻ってきてからの騒ぎですっかり忘れていたが、あれは、どういう意味だったんだ?
 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。