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「な、何するのよっ、あんた頭でもおかしくなったんじゃない?」
「暴れるなよ。別におかしなことをする気はねぇから」
 今だって十分――言い返そうとした香佑の身体が、ふわりとロフト上の寝台に降ろされる。
 きゃーっっっ、と心の中で叫んだ香佑は、とっさに自分の顔を、クロスした腕でブロックした。
「よいしょっと」
 匠己が、自分もロフトの上に上がり込む。
「ほんっと、マジ勘弁して。二人きりならともかく、母屋には慎さんと涼子さんが――」
 両腕で顔を塞いだ香佑が、そこまで言った時だった。
 ミシリ、と、床が、不気味な音をたててきしんだ。
 ――え……。
 おそるおそる半身を起こそうとすると、さらにミシミシッと、床が軋んで、怪しくたわんだ。なにこれ。今にも底が抜けそうなんですけど。
「わかったろ」
 香佑の足側に、片膝を立てて座る匠己は、顎に手をあてて、呆れたような口調で言った。
「ここ、俺が昔適当に作った寝床だから、昔も今も、一人の体重を支えるので精一杯なんだよ」
「でも――」
 反論は、さらに軋んだ床音で遮られた。
 ロフトは、床上三メートル近い場所にある。これ……マジで怖いんですけど。
「釘でも緩んだのか、最近は特に軋みがひどくて、俺でも気をつけて出入りしてんだ。竜さんに頼んで直してもらうようにしてんだけど、あの人も忙しいみたいでさ」
「りゅ、竜さん、大工仕事も得意なの」
「お手の物だよ。そしたら、二人で寝ても大丈夫かもしんねーけどな」
 そこは何故か嫌味っぽく言われた。
 つまり――つまりそれは、何もかも私の誤解だったってこと?
 てっきりこのロフトで涼子さんと――だから私、この仕事場に入る度に、その存在から目を背け続けてきたのに。
「なんだよ、ぼけっとして」
「ごめん……なんか、気が抜けた」
 匠己はしばらく黙っていたが、やがて少し大きめな息を吐いた。
「あのな」
「なによ」
「ここは確かに、涼子が来た時に作ったんだ」
「……」
「お前が誤解してるような意味でじゃないぞ。お袋が――嫌がったんだよ。結婚もしてないのに、同じ家で寝るのはどうなのかって。だから別棟で俺が寝ることにした。そんだけだ」
 別にそんな言い訳――
 なんだか私が、ずるいというか、……涼子さんに、少しだけ申し訳ないじゃない。
 そんな風に――二人の思い出を、上から上書きする気はなかったのに。
 恋は、本当に残酷だ。
 私と涼子さんが友達になれば全部上手くいくような気がしたけど、今だって、結果的に、涼子さんの立場を踏みにじるような真似をしてしまった。
 いや、心ならずも、それを匠己にさせてしまったのだ。
 もしかすると、今夜だけでなく、ずっとさせ続けていたのかもしれない。
 いきなり始まった肩揉みにしても、匠己なりに私の立場を慮ってくれていたのかも――
「……ごめん」
 自己嫌悪で胸がいっぱいになりそうだ。
 ひどいことをしているのは私――その通りだ。今、この瞬間、涼子さんがどんな気持ちでいるかなんて、迂闊にも想像してさえいなかった。
 恋の勝者は涼子さんで、敗者は自分だと思っていたから。
 でも現実問題、匠己の妻は自分で、涼子は居候の立場でしかないのだ。そして匠己ははっきりと、妻としての立場は守ると言ってくれた……。
「……友達になるのはいいと思うよ。あいつも根っこは寂しい奴だから」
 溜息のまじった声で匠己は言った。
「ただ、――涼子がそれを望んでないなら、嶋木が傷つくだけじゃねぇかと思ってさ」
「……………」
 やっぱり、望んではいないよね。
 それは、薄々は判ってるんだけど。
「あのさ、例えばだけど」
「ん?」
 例えば、私たちがこれから先、別れたとして。
 いや、いつか別れること前提の同居だと思うんだけど、そもそも。
 その後――吉野家の妻には、かなりの確率で涼子さんが座っちゃうわけでしょ。そんなの今は想像したくもないけれど。
 その時、私は……。
「なんでもない」
 口に出しかけた本音を、香佑は急いで追いやった。
「ごめん。悪いけど、今夜はこれで戻るから」
 匠己を見ないままでそう言うと、香佑は逃げるように半身を起こした。途端に匠己が、ぎょっとしたように両腕を泳がせた。
「っ、待て、いきなり起きるな、俺が先に――」
「えっ?」
 膝で立とうとした途端、ミシミシッと、激しく床がたわんだ。
「ちょ、ちょっとこれ、マジでシャレになってないっ」
「だからシャレじゃないんだって」
「ふざけないでよ。口で言えば判るわよ、なんだってこんな危険なとこに私を!」
「お前が、人の話を聞かないからだろ!」
 次の瞬間、いかにも木がへし折れるような不吉な音がして、恐怖に泳いだ身体を、匠己が下から抱きとめた。
 二人は崩れるように――匠己が下になって香佑が上に重なったまま、折り重なって布団の上に倒れる。
「きゃーっっっ」
「わっ」
 その瞬間、二人ともが床が抜けることを覚悟した。香佑は匠己にしがみつき、匠己も香佑の身体を咄嗟に強く抱きしめている。
 が、激しく軋みはしたものの、床はかろうじて二人分の体重を支えているようだった。
 重なった身体から、互いの鼓動の音が聞こえる。
「…………」
 なに、これ。
 なんでこんなことになっちゃったの、私たち。
 広くて厚い胸。暖かな体温。
 腰に回された大きな手。
 喉から香る、匠己の匂い。
 少し、その首筋が汗ばんでいる。とはいえ今は、その汗がどちらのものかさえ判らない。
 香佑は、自分の体温がいきなり上がったのを感じた。
 恐ろしさからくるドキドキが、たちまち別のものに変わり出す。
 匠己は何も言わないし、動こうともしない。どうして? その沈黙は何のため……?
 ――匠己……?
 香佑は、そろそろと顔を上げた。が、その途端、床がミシミシっと軋み出した。
「きゃっ、きゃーっっ」
「う、動くな。今どうしたらいいか考えてるからっ」
 そうだった。
 こんな切羽詰まった状況で、ラブシーンなんて、やってる場合じゃそもそもなかった。
 本当によく判った。このロフトの上で、あんなことやこんなことは――絶対に無理。
「とにかく、重心を分散させて、お前がなんとか先に降りろ」
「む、無理だし。ちょっと動いただけでも、壊れそうだし」
「大丈夫、下には机があるから、落ちても俺の身長くらいだ」
 それ、……全然大丈夫じゃないんですけど。
 それに、重心を分散させるってどうやって。
「ごめんっ、無理!」
「じゃあ、いつまでもこのままでいるのかよ!」
「それも無理!」
 即答すると、匠己が顔を背けて、わずかに息を吐くのが判った。
「てか、俺の方がもっと無理だろ……。大丈夫、お前は羽のように軽い!」
「な、何、やけくそで適当なこと言ってんのよっ」
 両手をつくようにして顔を上げた途端、最終通告みたいに激しく床がたわんだ。香佑は小さな悲鳴をあげ、今度こそ最後だと思って匠己の首にしがみついている。死んだ――いや、まだ生きている。
 数秒目を閉じた後、香佑はそろそろと薄目を開けた。
「………」
「………」
 なんだかますます密着してしまったけど――い、いいのかな。本当にこれで。
 香佑の背中に両腕を回したまま、匠己は石みたいに動かない。
 何もできないどころか体勢ひとつ変えられないことは、これまでの経験でよく判ったけど、普通に考えたら、これって相当――まずい体勢だよね。
「お前さ……頼むから考えなしに動くなよ」
 ようやく匠己の呆れた声がして、香佑はほっと安堵の息を吐いた。
 さすがは石の心を持つ男。まぁ、死とはいかなくとも怪我を覚悟してまでのラブシーンなんて、相手が誰だろうと抵抗があるに違いないだろうけど。
「あのさ、考えなしはどっちなのよ。だいたい、誰のせいでこんなことになったと」
 ――え……?
 顔を上げた途端、匠己の指が、そっと香佑の頬を撫でた。
 なにこれ。
 この状況で、なんの冗談……?
 暗い目をした匠己が、ぎこちなく香佑の頬を撫で、指が顎を支えるようにして上向けさせる。
「……動くなよ」
 え、あの……。
 動くなって言われても。
 これって、もしかしなくても、もしかして――
 キ、ス……?
 心臓の音が、奇妙にスローだ。
 今度は、香佑が石みたいになって動けない。
 やはり不器用な匠己の手が、頭にそっと添えられる。そのまま、その手に、少しだけ力が入って――
「――匠己?」
 いきなり、声が静寂を破った。
 香佑が言ったものではない、本当は喉まで出かかっていたが――高木慎だ。
 ――慎さん?
 香佑は心臓が停まるほど驚いたし、それは匠己も同様のようだった。
 扉の向こう、匠己の作業場の方で、人の歩きまわる気配がする。
 足音はすぐに止まり、――多分、明かりで、二人が部屋の中にいると判ったのだろう。慎が何を想像したかと思うと、香佑は顔から火が出る思いだった。
 しかし、実際、出られない状況なのだから仕方ない。ここは、匠己に上手く誤魔化してもらうしか。
「悪いけど、俺帰るぞ」
 多分、中に入り難い気配を察したのか、慎が声を張り上げた。
「とりあえず、あっち無人になるから。台所の窓の鍵だけ開けとくからな」
 香佑の頬から匠己の手が離れ、彼が微かに息を吐くのが判った。
 その居心地の悪さは香佑も同じだ。てかあんた、何か気のきいたことでも言い返しなさいよ。私がいないとか、疲れて寝ちゃってるとか。
 まぁ、どちらも不自然ではあるんだけど。
「伝えたからな、――じゃあな」
「慎さん、丁度よかった」
 が、いきなり匠己が、大きな声を出した。香佑はぎょっとして匠己を見上げる。
 え、あんた、何言ってんの?
「悪いけど、ちょっと手ぇ貸してくんねぇかな。話せばどうでもいいことなんだけど、ロフトから降りるに降りられなくなって」
 およそ三拍の沈黙の後、慎のあきれ果てた声がした。
「はぁ?」
 嘘でしょ、もう……。
 匠己の胸の上で、香佑は頭を抱えたくなっていた。
 確かに話せばどうでもいいことなんですけど、女としてこの現場を他人に見られるのはいかがなもの?
 傍からみれば、まるで私が匠己を襲ってるみたいな体勢だし。とんでもなく恥ずかしいんですけど、これ。
「おい……、これ、なんの冗談だよ……」
 案の定、扉を開けて入ってきた慎は、唖然としたように顎を落としている。
「説明は後でするから、とりあえずこいつ下ろしてやって」
 匠己の声は、平然としている。
「ちなみに、少しでも重心ずれたら、ここ、底が抜けるから」
 一瞬、信じられないものを見るような目で匠己を見上げた慎が、すぐにその目に冷ややかなものを滲ませた。
「知ってるよ、それくらい」
 うつむいた慎が、今、ひどく怒っていることを香佑は察した。
「てか、そんな危ないとこで何やってんだよ。一緒に寝るなら寝るで、場所とかちゃんと考えろよ」
 言い捨てた慎が、その冷たさのままで、香佑を冷淡に睨みつける。
 まさに、穴があったら入りたい心境だった。香佑は言葉も出ないまま、その困惑を目の前の匠己にぶつけた。つまり、睨んだ。なのに匠己は気づかないのか、まだどこか呑気な目を、下にいる慎に向けている。
「悪いな、慎さん」
 慎は答えず、無言でロフトの階段を上がってくる。もう想像する余地すらない。出会って史上――最大に怒っている。
「なんの真似だよ」
「なんの真似って?」
 嫌味なくらい平然と匠己は答える。怒りを噛み殺すようにして、慎は続けた。
「馬鹿なお前らしくもない。小賢しい真似なんてするなっつってんだよ。もし俺へのあてつけのつもりだったら、とんだお門違いだからな」
 なに、これ。
 なに、これ、どういう会話?
「悪い、意味が判らない」
「ああ、そうかよ」
 もしかして二人、まさかと思うけどケンカしてる?
 香佑は一人で、ただ戸惑うばかりだった。
「……ふざけんな」
 呟いた慎が、殆ど怒り任せに香佑の両脇に腕を差し込んで引き上げる。
 香佑は慌てて、慎の両肩に自分の手を添えて、身体を支えた。
「ごめん……」
「黙ってろ、デブ」
 さすがにそれにはカチンときたが、それ以上に慎の氷河期みたいな怒りの方が恐ろしかった。
 よく判らないけど、慎さんと匠己が険悪になった。
 しかも、かなりしょうもないことが原因で。
 これ、――こんなことで、本当にいいのだろうか。

 
 
 
 

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。