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「おかえり、香佑。遅かったのね」
「……ただいま」
 出迎えてくれた涼子に、香佑は、疲れを隠し切れない笑顔を返した。
「町内会の会議がこんな時間まで? ちょっと信じられないくらいハードなのね」
「まぁ、今日は色々紛糾しちゃって」
 まさか、若手のリーダーに祭り上げられそうになったとはとても言えない。
 本当にやっかいなことになってしまった。今夜のことで、新古原夫人を敵に回したのは言うまでもないが、どうせその話はあっという間に上宇佐田にまで広まって、またぞろ富士山ます江や鬼塚寿美子の悪評を買うことになるのだ。
 好意で言ってくれた水元志乃には悪いが、せっせと積み上げた石をいきなり蹴散らされた気分である。
 午後十一時、時計を見上げた香佑は溜息を漏らした。
「涼子さん、仕事は?」
「んー、一段落ついたかな? 後は原稿を出版社に送って校正するだけ」
「すごいね、本を出すなんて」
「そんなことないよ。いい題材さえ拾えば誰にでもできることよ」
 いやー、それはさすがに謙遜というより嫌味でしょ。
 『墓を創る人』というタイトルで、涼子は来春、本を出版する予定らしい。メインは匠己だが、他にも有名な石屋の職人を取材した、ドキュメンタリータッチの本だという。
 まる二年かけて全国の石屋を取材したという涼子に、香佑は素直に感嘆を覚えていた。
 そういう意味では、恋にうつつを抜かしているように見えても、涼子は自分の中に一本芯がある生き方をしている。
 片や私は、毎朝毎晩、一体何のために奔走してるんだろう――
「ノブ君は?」
「帰ったわ。慎さんはまだいるけど」
「えっ、いるんだ」
 そう言った端から、リビングで背を向けてテレビを見ている慎の背中が目に飛び込んできた。
「今夜は泊まるんですって」
 何故だか、意味ありげに涼子は囁いた。
「きっと、帰りの遅い香佑が心配で残ってたのよ。彼、まるで香佑の彼氏かお兄さんみたいね。羨ましいわ。私、慎さんには少し苦手に思われてるみたいだから」
「そんなことないでしょ」
 むしろ、ビジュアル的にも性格的にも二人はぴったりだと思うんですけど。
「おい、女が一人で出歩く時間じゃねぇだろ」
 リビングに入ると、早速厭味が飛んできた。予想はしていたが、やはり機嫌は最悪らしい。
「仕方ないじゃない。町内のお仕事よ。これもこの家のためであり、店のためでもあるんだから」
「本当かよ。嘘臭い」
 まさかと思うけど、浮気だとか遊びだとか疑われてるわけじゃないでしょうね。
 未入籍だったことがばれたり、吉野石材店の悪評が婦人会の中で広がったり――そんな状況だから、あえて皆の嫌がる仕事を引き受けて、吉野家の妻の頑張りを見せてるんじゃないの。
 香佑はむっとして慎を睨んだ。
 風呂あがりなのか、慎の髪はまだ濡れている。
「だいたいなんで、慎さんにいちいち詮索されなきゃいけないのよ」
「誰が、いつ詮索なんてしたよ。俺はただ、お前の言葉がいちいち嘘臭いって言ってるだけだろうが」
「それが詮索だって言ってるのよ。なによ、保護者でもないくせに――私をいくつだと思ってるのよ」
「お前がいくつで、誰だろうとな」
 怒りを相当噛み殺した口調で慎は続けた。
「匠己の嫁だってことは、間違いないんだ。結婚した女が、こんな時間まで外をうろうろするものじゃない。間違いがあったらどうする気だよ」
「間違いって」
 香佑は鼻で笑っていた。
「慎さん、何年前の人? どういう貞操観念よ。ほんと、いつも思うけど、慎さんの嫁になる人ってお気の毒だわ」
「気の毒で悪かったな。間違ってもお前じゃないから、心配すんな」
「ねぇ」
 涼子が、くすくすと笑って口を挟んだ。「二人の会話に、私、全く口挟めないんですけど? 仲よすぎじゃないの。二人共」
「どこが!」
 と、これは二人で同時に返している。
「その辺りが」
 と、楽しそうに言った涼子が、不意に背後を振り返った。
「ね、匠己もそう思わない?」
 香佑は思わず振り返っていた。リビングの入り口に、匠己が、少し驚いたような目をして立っている。
 髪をタオルで拭っているから、今、風呂から出てきたところなのだろう。
 またまた、とんでもなく間の悪い――
 香佑は、気まずく目を逸らし、そんな香佑を、慎は少し訝しげに見ている。
「ま、いいんじゃね。仲がいいのは」
 あっさり言った匠己は、すぐに冷蔵庫の方に歩いていった。中からミネラルウォーターを取り出して、置いてあったグラスに注ぐ。
「嶋木と涼子も、仲良くなったみたいだしな」
「あら、私たちは元々仲良しよ。ねぇ」
 と、涼子が香佑に笑いかけるので、香佑も仕方なく笑っていた。てか、苗字と名前の差だけで、すでに負けている感じがするんですけど。
 自分のしていることが、馬鹿馬鹿しいと思えるのはこんな時だ。
 泣いてこの家を出ていったというが、その話が嘘だったのかと思えるほど、戻ってきた涼子はケロッとしているし、匠己もまた平然としている。
 なんのことはない。つまり二人の関係はちょっとやそっとの喧嘩では揺らいだりしないほどの鉄壁なのだ。誤解に満ちた手紙一枚で、あっさり険悪になってしまった香佑と匠己とは全然違う。
「まだ仕事ですか、社長さん」
 なんだか無性に腹立たしくなって、香佑は冷たく言っていた。
 隣では、慎が愕然と顎を落としている。
「いいえ」
 と、グラスを唇に当てながら匠己は答えた。
「今夜はもう終わりです。従業員さん」
「お、おい、お前ら、なんだよ、今のその会話――」
「あら、ずっとこうよ。この人たち」
 涼子が笑いながら口を挟んだ。「何かのゲームかと思っちゃった。ほんと、変わった夫婦よね」
 悪かったわね。変わってて。
 だいたいこの人、私のこと、本当の意味で妻ともなんとも思ってないんだから仕方ないじゃない。
 さっきだって――少しは妬いてくれたっていいくらいなのに。
 まぁ、無理もないか。あんな手紙読んでも、顔色ひとつ変えずに「応援する」とか言う人だしね。
「従業員さん」
 洗ったグラスをシンクに置きながら、匠己が言った。
「今夜は夜食はいいんで、いつものあれ、お願いしたいんですけど」
「はいはい、いつものあれですね」
 今夜はものすごく疲れてるんですけど、それでも休ませてはくれないわけですか。
 しかも、涼子さんがいる前で――気まずいったらありゃしない。
 まぁ――涼子さんに関しては、私が全ての原因者だから、そこは何も言えないんだけど。
「じゃ、ちょっと行ってくる。すぐに戻るから」
「どうぞ、ごゆっくり」
 冷ややかな目で、涼子がひらひらっと片手を振る。目は笑ってないけど、唇だけで笑っている。香佑が思う限り、とびっきり怖い笑顔だ。
「私なら、香佑の部屋でお布団敷いて待ってるから」
 振り返ると、慎が、驚いた目で香佑を見ている。
「い、いっとくけど、何もいかがわしいことしに行くわけじゃないからね」
「ばっ、だ、誰もんなこと想像してねぇよ」
 まぁ夫婦なんだし――表向き。いや、それだからこそ、いちいち言い訳したいんじゃない。
 だって本当に、何かエッチなことするわけじゃないんだし。
 香佑は咳払いをして立ち上がった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。